旧日本冶金門司工場(現・東邦金属(株)門司工場)|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

「レトロ門司」復興への道

旧日本冶金門司工場(現・東邦金属(株)門司工場)

我が国で初めて粉末冶金法による電球用タングステンフィラメントの国産化を実現

旧日本冶金門司工場(現・東邦金属(株)門司工場)は、北九州市門司区小森江2丁目1番23号にある。鈴木商店(神戸)・金子直吉が、国益志向から、明治以降、全て米国ゼネラル・エレクトリック(GE)社の特許に抑えられ、米国製品に独占されている電球用フィラメントに注目し、これを国産化すべく、大正7年(1918年)に設立し、我が国で初めて粉末冶金法による電球用タングステンフィラメントの製造を行って国産化を実現させ、かつ粉末冶金によるタングステン・モリブデンの一貫製造・販売を開始した、そしてまた昭和24年に解散し、昭和25年(1950年)2月に旧日本冶金の関係者を中心に再生した東邦金属(株)(大阪市中央区備後町に本社を置く)の設立後もタングステン・モリブデンという2つの金属に特化して一貫製造・販売を続けている企業である。
すなわち、タングステン、モリブデンの優れた特性を利用して、当社がこれまで培ってきた粉末冶金技術、極細線加工技術難加工材の精密加工技術、また、電子機器部品、自動車部品などで培ってきた品質保証技術を追求し、さらに、大学や、各種機関などとの共同研究を通じて、既存製品や新規開発製品での新市場開拓など、客の要望する製品を一貫製造・提供できる企業、タングステン、モリブデン製品で安定成長する企業を追求しているという。
近年では、福島の原子力発電所周辺での作業用防護服に使われているタングステン製放射線遮蔽生地やカンボジアやアフガニスタンの地雷除去で地雷除去機のビット(先端部分)に採用されている対人地雷除去装置の部品供給、熊本大学との共同プロジェクトで開発し主体吸収性医療機器等の応用製品を目指しているKUMADAI耐熱マグネシウム合金を素材とする極細ワイヤーなど、産学連携事業による新製品の開発等にも取り組んでいるという。

旧日本冶金門司工場(現・東邦金属(株)門司工場)

■ 歴史
大正3年(1914年)、第一次世界大戦が勃発。鈴木商店は、戦時景気に乗り、多角化路線を一気に加速させる。まず、ゴム事業では、同年、従来のゴム部門を分離・独立させ「日本輪業合資会社」(現在・ニチリン)を設立し、自転車用タイヤチューブ、各種ゴムホース等の製造販売を始めた。
また、鈴木商店・金子直吉は、大戦勃発時ソーダ類の輸入途絶に直面した政府・農商務大臣・仲小路廉からの要請を受け、ソーダの自給を目指す。当時、世界市場を席巻していたブラナモンド社(現・ICI)と満州における工場建設を計画するが不調に終わる。そこで、急遽、英領東アフリカ(ケニア)のマガディ湖から採れる天然ソーダに目を向け、英国・マガディソーダ社と日本における独占販売契約を結ぶ。そして、大正8年(1919年)、販売会社「太陽曹達」(後の太陽産業、現・太陽鉱工)を設立し、ガラス、製紙、ビール等の諸工業に安定的な供給を開始した。

こうした時期、鈴木商店・金子直吉は、非鉄金属事業にも乗り出す。大正5年(1916年)、下関・彦島にある直営の亜鉛製錬工場を独立させ、「日本金属」を設立して本格的に亜鉛製錬事業に乗り出す。また、金子の国益志向から、明治以降、国内の電球用フィラメントが全て米国ゼネラル・エレクトリック(GE)社の特許に抑えられ、米国製品に独占されていることに目を向け、これを国産化すべく、米国インディペンデント社の特許によるフィラメント製造を計画する。
<中学同窓・田中文君撮影>

旧日本冶金門司工場(現・東邦金属(株)門司工場)

旧日本冶金門司工場(現・東邦金属(株)門司工場)

2019.7.28 9.36〜撮影
▼ 欧米先導の電球開発
ちなみに、欧米では、明治11年(1878年)、イギリスのスワン(J. W. Swan)が、シュプレンゲル(H. J. P. Sprengel)の発明した水銀真空ポンプを用い、炭化させた木綿糸フィラメントとした電球を開発した。明治12年(1879年)には、アメリカの発明王エジソン(T. A. Edison)が炭素フィラメントを用い、寿命約40時間の電球を作ることに成功した。エジソンはフィラメント材の研究をさらに続け、日本の竹を炭化したフィラメントを作り、明治15年(1882年)のパリ国際電気博覧会で話題となった。

明治37年(1904年)、米国ゼネラル・エレクトリック(GE)社で、素材として高い融点を持ち、すなわち耐熱性に優れ、衝撃に強く密度が鉛よりも高いという特性を持つタングステン鉱石(「究極の金属」と言われる)をフィラメントの材料として選択し、この粉末を押し出し成型した「押し出しタングステン」が発明された。この電球は効率が良く明るい電球であったが、この製造法ではタングステンの材質が脆弱で、フィラメントが大変もろく輸送中や使用時の断線が多いという欠点があった。

そこで、明治43年(1910年)、米国GE社のW・D・クーリッジ(William David Coolidge)博士は、製造を難しくしているタングステンの高融点による難溶解性を克服するために、タングステンの粉末を固め,高温の水素雰囲気中で焼結し,細い線に加工する「材料の製造法と加工法」を開発することによって、タングステンを細い線「引線タングステン」にすることに成功した。
これが、タングステン電球の始まりである。この可延性タングステン線の発明は、材質の強度や品質の均等を根本的に改善すると共に、ガラス球内の排気装置の発達もあり電球製造に革命的な影響を与えた。タングステンのフィラメントは炭素のものより高温にできるので、効率が2.3〜2.4 倍と飛躍的に向上し、寿命も長くなった。そのため、カーボン(炭素)電球は使われなくなった。

さらにフィラメント材の研究は続き、米国GE社のI・ラングミュア(Irving Langmuir)博士(1932年にノーベル化学賞を受賞)は、電球の寿命はタングステン線の蒸発によって左右されることを発見し、この蒸発を少なくすれば寿命を延ばすことができると考え、大正2年(1913年)に、コイルしたフィラメントを使い、電球のガラス球内にタングステンと化合しない窒素ガスを封入した「ガス入りタングステン電球(窒素電球)」を発明した。このガス入りタングステン電球の発明は、現在でも使用されているタングステン電球の開発へとつながっていった。
▼ 当時の我が国における電球事情
当時の我が国における電球事情はというと、明治 11 年(1878年)3 月25 日、工部大学校のホールで開催された祝宴で教師のエアトン(W. R. Ayrton)と生徒の藤岡市助らが、グローブ電池でフランス製のアーク灯を点灯したのが、我国で電灯が使われた最初である。点灯時間は 15 分程度であったと言われている。また、白熱電球が最初に点灯されたのは、明治 17 年(1884年)に上野駅の鉄道開通式で 24個が点灯されたのが最初である。

国内における電灯事業が本格的に始まったのは、明治19年(1886年)に東京電灯(現在の東京電力)が輸入電球を使って始めた電灯事業からであるが、当時、他に開業した神戸電灯(明治 21 年)、大阪電灯(明治 22 年)、品川、横浜、深川(明治 23 年)などの電灯会社もすべて欧米から輸入した電球を使用していた。
電球の国内での生産は、明治23年(1890年)の東京電灯会社から独立して設立された電球製造会社の「白熱舎」で、藤岡市助らがエジソン考案の「竹フィラメント」による12 個の白熱電球の試作に成功したのが最初であるが、その時の製造設備は英国から輸入したものであった。

その後、白熱舎は、電球のガラス球内を真空化するための機械ポンプの追加による排気の改良や竹フィラメントの炭化温度の高温化などにより品質改善を行い、明治 26 年(1893年)には月産 2500 個程度まで生産能力を上げた。明治27、28年の好景気で電灯会社が増え需要も増えてきたので、会社を株式会社にして、社名を明治 29 年東京白熱電灯球製造株式会社、明治 32 年(1899年)に東京電気株式会社にした。しかし、欧米との格差は大きく、当時使用されていた欧米の輸入電球と比べて、新規参入の白熱舎の電球は品質と価格に大きな問題があった。

明治 32 年(1899年)、東京電気(白熱舎)は、米国ゼネラル・エレクトリック(GE)社の系列会社になり、主要技術をGEから導入することで、業績は一挙に向上し、国内の中心企業に成長した。日露戦争後の景気回復にも便乗し、明治 39 年(1906年)には日産 2500 個と生産数が大きく増加し、その後も生産数は急激に伸びた。

すなわち、明治37年(1904年)、GE社で、「押し出しタングステン」が発明されると、東京電気はGEから技術導入し、明治 42 年(1909)から押し出しタングステン電球の製造を開始した。この電球は効率が良く明るい電球であったが、フィラメントが大変もろく輸送中や使用時の断線が多く、また価格がカーボン電球に比べて十倍以上と高価であったため、販売数は少なかった。
明治43年(1910年)、米国GE社のW・D・クーリッジによって「引線タングステン」が開発されると、東京電気は翌年の明治 44年(1911年)から「引線タングステン電球」の生産を始めた。タングステン電球はカーボン電球に比べてかなり高価であったが、効率が 2.3 〜 2.4 倍と高く、性能が優れていたので、明治 44 年頃から急速に普及した。当時の「タングステンフィラメント」は GE からの購入品であったが、大正4年(1915年)から東京電気内での内製化の検討が進められ、翌年には生産が開始されている。

大正2年(1913年)に 米国GE社のI・ラングミュアにより「ガス入り電球」が発明されると、大正3年(1914年)に東京電気からも発売された。発売当初は 1500W や 1000W などの大ワットのガス入り電球のみであったが、バルブ形状を球形から長丸形に変更して低ワットの「ガス入り電球」が発売された。東京電気では、このガス入り電球をGEと同様にマツダC電球、真空電球をマツダ B 電球、押し出しタングステン電球をマツダ A 電球と名付けて販売した。

このように、明治37年(1904年)頃までは、東京電気が国内唯一の電球メーカーであったが、明治37年に大阪に錦商会(後の大阪電球株式会社)、明治39年(1906年)に日本電球製作所(43 年に日本電球株式会社)、明治41年に東京に東京電球製作所など、電球製造会社が多数創設された。しかし、これらの会社は、「タングステン電球」の出現によって、GE社との特許問題などに制約され、結局、東京電気との統合を余儀なくされた。事実、大正3年(1914年)に勃発した第一次大戦による交戦国からの軍需品の注文増加や国内における電灯の普及により、大正3年(1914年)から13年(1924年)の間に45 社の電球製造会社が全国各地に設立されたが、その一部は東京電気に吸収合併されている(例えば、小倉市の大正電球)。

こうして、東京電気が GEからの高い技術と企業の吸収合併により市場を支配したため、対立する国内電球業者の組織化が進み、関東では東京標準電球工業組合、関西では関西標準電球工業組合が組織された。折しも、第一次大戦(大正3年)時のロシアからの軍事用豆電球の大量注文に始まり、その後のGEのタングステン電球の特許やガス入り電球の特許の期限終了などにより、電球の大量輸出が急増したため、東京輸出電球工業組合大阪輸出電球工業組合が結成された。(ちなみに、輸出先は米国、英国、中華民国などが主であったが、昭和10年頃には 50ヶ国以上に広がっていたという。また、これらの4組織は、昭和6年(1931年)に日本電球工業組合連合会として結集する。この結集をまとめた東電電球は東京電灯が作った会社である。そして、連合会と東京電気は対立を避けるため協定を結び、昭和9年(1934年)に調印が行われた。連合会側は、会員の13社がまとまって共同販売会社の東西電球会社を設立し、価格などのカルテルを結ぶ。東京電気と東西電球の契約時の販売比率は東京電気60%強、東西電気 40%弱と設定された。東京電気は、昭和7年にGEが株の一部を日本企業に売却し、GEの出資比率が過半数以下になったので正式に日本企業にもどり、昭和14 年(1939年)には重電会社の芝浦製作所と合併し、総合電機メーカーの東京芝浦電気株式会社になっている。)
▼ 電球用タングステンフィラメントの国産化に成功
上記のような国内事情を背景にして、鈴木商店・金子直吉は、インディペンデント社の協力を得て、大正7年(1918年)、日本冶金・門司工場を門司・小森江に設立し、国産化をめざす。ところが、米国2社間で特許係争が起こり、インディペンデント社が敗訴する。日本冶金の事業に暗雲が漂うが、従来の特許を回避する「全く異なる製法」によりフィラメントの国産化に成功する。すなわち、我が国で初めて粉末冶金法による電球用タングステンフィラメントの製造を行って国産化を実現させ、かつ粉末冶金によるタングステン・モリブデンの一貫製造販売を開始した。
以来、タングステン・モリブデンという融点が高く、すなわち耐熱性に優れ、衝撃に強く、密度が鉛よりも高いという特性を持った2つの高融点金属(「究極の金属」と言われる)に特化して技術力を高め、この2分野に関してはトップクラスのシェアを占める存在となる。
▼ 旧日本冶金・門司工場(現・東邦金属(株)門司工場)沿革(略)
1918年11月:鈴木商店(神戸市)の関係会社として日本冶金(株)を設立、米国インディペンデント社の協力を得て、わが国初の電球用フィラメントの製造を行い、粉末冶金によるタングステン・モリブデンの一貫製造販売を開始。1950年2月:日本冶金(株)(昭和24年解散)の関係者を中心として東邦金属(株)を設立。1950年10月:元日本冶金(株)門司工場を買収。1951年2月:門司工場にてタングステン・モリブデン精錬加工の一貫作業による生産を開始。1960年3月:寝屋川工場第一期工事完成、門司工場からタングステン加工部門を移管。1970年7月:寝屋川工場接点部門の一部を門司工場へ移管。1989年10月:門司工場新スエージ工場完成。1999年11月:全事業所にてISO9002の認証を取得。
2002年5月:全事業所にてISO14001の認証を取得。2002年11月:全事業所にてISO9001:2000の認証を取得。2015年8月:熊本大学との共同開発でKUMADAI耐熱マグネシウム合金の極細ワイヤー(線径0.05mm)を開発。2018年5月:KUMADAI耐熱マグネシウム合金の極細ワイヤーの世界記録を更新。(線径0.05mm → 0.03mm)。

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