武蔵・小次郎ゆかりの手向山と巌流島
郷里近況:武蔵・小次郎ゆかりの手向山と巌流島
■ 宮本武蔵&佐々木小次郎の碑がある手向山公園
手向山(たむけやま)公園は、少年時代の遊び場であった。毎年、桜の開花時期には花見客で賑わうが、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島での決闘日(1612年・慶長17年4月13日)に因んで、4月13日前後の日曜日には、武蔵・小次郎を偲ぶ「武蔵・小次郎まつり」や「児童スケッチ大会」、「詩吟大会」などが開催された。
手向山は、福岡県北九州市小倉北区赤坂4丁目にある高さ76メートルの低い山である。小倉北区と門司区の境界に位置する。地理的には、足立山系最北部に位置し、山頂からは関門海峡、彦島、巌流島などが見渡せる。企救半島の付け根に位置し、小山ではあるが企救半島と小倉平野を分断し、トンネル開通以前は小倉と門司の往来を困難にしていた。当時の小倉と門司の往来は、手向山北側の街道(門司往還)か、手向山南側の峠(鳥越峠)を利用していたという。1942年(昭和17年)、関門トンネルの開通にともない、手向山に手向山トンネルが掘られ、西日本鉄道北九州線もこの手向山トンネルを通ることになった。このトンネルは1985年(昭和60年)10月19日まで西日本鉄道唯一の山岳トンネルであった。
手向山の山頂にある公園には、関門海峡、彦島、巌流島などが見渡せる場所に、宮本武蔵を顕彰する小倉碑文や佐々木小次郎の碑が並んで設置されている。武蔵の顕彰碑「小倉碑文」は、武蔵の死から9年後の1654年(承応3年)、武蔵の養子で小倉藩(藩主小笠原忠真)の筆頭家老を務めていた宮本伊織が父武蔵の菩提を弔うため、巌流島(船島)が見渡せる手向山山頂に建立した。伊織は藩主小笠原忠真より手向山を拝領しており、宮本家代々の墓も武蔵顕彰碑のとなりに設置されていた。その後、明治時代の軍事要塞化により、宮本家代々の墓は手向山の麓に移設され、宮本伊織らの墓は今も手向山の麓にある。
武蔵顕彰碑の最上部には、武蔵の遺言だと伝えられる「天仰 実相 円満 兵法 逝去 不絶」の文字が刻まれており、碑文には、「兵法天下無双播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士の碑」より始まる「巌流島での佐々木小次郎との決闘」までの剣暦が漢字でぎっしり刻まれている。
また、小次郎の碑は、作家の村上元三が新聞連載小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、旧小倉市に寄贈したもので、谷口吉郎の設計で、昭和26年(1951年)に建てられたもの。碑には、元三の句「小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ」が刻まれている。
手向山は、福岡県北九州市小倉北区赤坂4丁目にある高さ76メートルの低い山である。小倉北区と門司区の境界に位置する。地理的には、足立山系最北部に位置し、山頂からは関門海峡、彦島、巌流島などが見渡せる。企救半島の付け根に位置し、小山ではあるが企救半島と小倉平野を分断し、トンネル開通以前は小倉と門司の往来を困難にしていた。当時の小倉と門司の往来は、手向山北側の街道(門司往還)か、手向山南側の峠(鳥越峠)を利用していたという。1942年(昭和17年)、関門トンネルの開通にともない、手向山に手向山トンネルが掘られ、西日本鉄道北九州線もこの手向山トンネルを通ることになった。このトンネルは1985年(昭和60年)10月19日まで西日本鉄道唯一の山岳トンネルであった。
手向山の山頂にある公園には、関門海峡、彦島、巌流島などが見渡せる場所に、宮本武蔵を顕彰する小倉碑文や佐々木小次郎の碑が並んで設置されている。武蔵の顕彰碑「小倉碑文」は、武蔵の死から9年後の1654年(承応3年)、武蔵の養子で小倉藩(藩主小笠原忠真)の筆頭家老を務めていた宮本伊織が父武蔵の菩提を弔うため、巌流島(船島)が見渡せる手向山山頂に建立した。伊織は藩主小笠原忠真より手向山を拝領しており、宮本家代々の墓も武蔵顕彰碑のとなりに設置されていた。その後、明治時代の軍事要塞化により、宮本家代々の墓は手向山の麓に移設され、宮本伊織らの墓は今も手向山の麓にある。
武蔵顕彰碑の最上部には、武蔵の遺言だと伝えられる「天仰 実相 円満 兵法 逝去 不絶」の文字が刻まれており、碑文には、「兵法天下無双播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士の碑」より始まる「巌流島での佐々木小次郎との決闘」までの剣暦が漢字でぎっしり刻まれている。
また、小次郎の碑は、作家の村上元三が新聞連載小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、旧小倉市に寄贈したもので、谷口吉郎の設計で、昭和26年(1951年)に建てられたもの。碑には、元三の句「小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ」が刻まれている。
<中学同窓・田中文君撮影>
手向山山頂から望む関門海峡(写真中)の左端に見える濃い緑色の島の右奥にうっすらと巌流島が見える
武蔵顕彰碑の最上部には、武蔵の遺言だと伝えられる「天仰 実相 円満 兵法 逝去 不絶」の文字が刻まれており、碑文には、「兵法天下無双播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士の碑」より始まる「巌流島での佐々木小次郎との決闘」までの剣暦が漢字でぎっしり刻まれている。
小次郎の碑は、作家の村上元三が新聞連載小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、旧小倉市に寄贈したもので、谷口吉郎の設計で、昭和26年(1951年)に建てられたもの。碑には、元三の句「小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ」が刻まれている。
2018.12.5 10.45〜撮影あ
■ 武蔵・小次郎 決闘の地:巌流島
巖流島(がんりゅうじま)は、山口県下関市にある関門海峡に浮かぶ島で、北九州門司の風師山や門司と小倉の境界にある手向山から見渡せる無人の島である。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われた島として有名である。正式な島の名前は船島(ふなしま)であり、住所は「下関市大字彦島字船島」となっている。決闘が行われた当時は豊前小倉藩領の船島であったが、小次郎が「巖流」(「岩流」とも)を名乗っていたことから巖流島と呼ばれるようになったという。門司港(マリンゲート門司)の巌流島連絡船を利用すると便利。
<中学同窓・田中文君撮影>
戸上山山頂から望む関門海峡(写真中)の右端に見える小さな離れ島が巌流島、正面は彦島
2009.4.27 14.50〜撮影あ
風師山山頂から望む関門海峡(写真中)の左端に見える深緑色の島が巌流島
2018.11.24 14.50〜撮影あ
巌流島連絡船・門司港(マリンゲート門司)
武蔵・小次郎 決闘の地:巌流島
決闘シーンを主題とした銅像
武蔵が櫂を削って木刀を作り、島へ乗って来た舟か