日本神話の発祥地:阿波岐原・檍原と江田神社(宮崎)
伊邪那岐尊の禊の御池・天照大御神の生誕地:阿波岐原・檍原と江田神社(宮崎)
■ 日本神話の発祥地:阿波岐原・檍原(あわきがはら)
『古事記』や『日本書紀』には、黄泉(よみ)から帰還した伊邪那岐尊(イザナギノミコト)は、黄泉の穢れ(けがれ)を清めるために、禊(みそぎ)を行ったという記述がある。黄泉(よみ)とは、日本神話における死者の世界のこと。古事記では黄泉國(よみのくに、よもつくに)と表記される。
禊(みそぎ)を行なった場所について、『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記すが、この「阿波岐原・檍原(あわきがはら)」が、江田神社や「禊ぎ池(御池)」のある当地・宮崎県宮崎市阿波岐原町(あわぎがはらちょう)字産母であると伝えられている。この地名は、全国の神社であげられる「祝詞」の冒頭でも「かけまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓えたまいしに」と読み上げられている。したがって、この地は「禊ぎ発祥の地」「祝詞発祥の地」ともいわれている。
<神社で奏上される祝詞>
掛けまくも畏(かしこ)き 伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ) 筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に 禊ぎ祓(みそぎはら)へ給(たま)ひし時に 生(な)り坐(ま)せる 祓戸(はらへど)の大神等(おおかみたち) 諸諸の禍事(まがこと)・罪・穢(けがれ)有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白(まを)すことを聞こし召せと 恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まを)す
伊邪那岐尊が禊を行った地と伝えられる「禊ぎ池」は、かつては入江であったが、後に開墾されて「江田」と称されたという。神社から北側へ歩いて約5分の森の中に「禊ぎ池(御池)」がある。神社の周辺には古代の集落跡が多数あり、代表的なものには弥生時代前期(約2,400年前)の檍(あおき)遺跡がある。また、古墳時代の初期(3世紀末)の前方後円墳・檍1号墳からは国内最大の木製墓室・木槨跡が見つかっている。
伊邪那岐尊(イザナギノミコト)は、伊邪那美尊(イザナミノミコト)と共に、神世七代の七代目の神で、日本国土を形づくる多数の子神を儲けた国産み・神産みの神様である。生まれた子の神々の中には、本州・四国・九州・淡路島などを含む日本の島々や海(オオワタツミ・大綿津見神)・山(オオヤマツミ・大山津見神)・野・木・石・水・風・火など森羅万象の神々が含まれる。
また、以下のように、神話の中で、生死の概念を生み、禊祓という神道の重要な儀式やその他結婚式等の儀礼を始めた神様でもある。例えば、伊邪那岐神、伊邪那美神の二柱はさまざまな神々を生み出したが、伊邪那美は火の神の迦具土(カグツチ)を出産した際に火傷が原因で死亡し、黄泉国に隠れてしまう。伊邪那岐は余りの悲しさに、怒り、迦具土を十拳剣で切り殺してしまう。
そして、イザナギはイザナミを黄泉国から引き戻そうと黄泉の国へ赴くが、イザナミの変わり果てた姿を見て、恐れ慄き、黄泉の国から逃げ帰る。追いかけて来るイザナミ、八雷神、黄泉の醜女(しこめ)らに、髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木の実を投げつけて難を逃れる。このときの功績によって桃は、意富加牟豆美命(おおかむつみのみこと)という神名を賜る。そして、黄泉国と地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口を大岩で塞ぎ、イザナミと完全に離縁した。この黄泉路を塞いだ大石を、道反の大神(ちがえしのおおかみ)といい、岐神として、日本各地に祀られている。
『古事記』では、黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂(よもつひらさか)といい、葦原中国とつながっているとされる。イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入ったという。また、イザナギが、黄泉の国から逃げ帰る場面では、妻イザナミやその手下の黄泉の醜女(しこめ)達が、黄泉比良坂の坂本まで追いかけて来たため、退けるため、その場所に大石(道反の大神)を置き、黄泉路を塞いだという。
この黄泉比良坂の「坂本」という表現には、「坂の下・坂の上り口」を表しているという説と、「坂」の字は当て字であり「さか」は「境界」の意味であるという説とがある。また古事記では、黄泉比良坂は、出雲国に存在する伊賦夜坂(いぶやざか)がそれに当たるとされている。
黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは、上述の如く、黄泉の穢れ(けがれ)を清めるために、『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記される「阿波岐原・檍原(あわきがはら)」の地にある「御池」(あるいは入り江)で禊ぎ(みそぎ)をしたが、このときもさまざまな神々が生まれた。
瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出たとされる。この三神は、住吉三神(すみよしさんじん)と総称され、『日本書紀』では主に底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では主に底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)と表記される。
そして最後に、左目を洗う時イザナギの左目から女神:天照大神(日の神、高天原を支配)が、右目を洗う時イザナギの右目から月読命(月の神、夜を支配)が、鼻を洗う時イザナギの鼻から男神:須佐之男(海を支配)がそれぞれ生まれ出たという。この三神は、イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたところから、三貴神(みはしらのうずのみこ、さんきし)と呼ばれ、イザナギに世界の支配を命じられた神々である。
禊(みそぎ)を行なった場所について、『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記すが、この「阿波岐原・檍原(あわきがはら)」が、江田神社や「禊ぎ池(御池)」のある当地・宮崎県宮崎市阿波岐原町(あわぎがはらちょう)字産母であると伝えられている。この地名は、全国の神社であげられる「祝詞」の冒頭でも「かけまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓えたまいしに」と読み上げられている。したがって、この地は「禊ぎ発祥の地」「祝詞発祥の地」ともいわれている。
<神社で奏上される祝詞>
掛けまくも畏(かしこ)き 伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ) 筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に 禊ぎ祓(みそぎはら)へ給(たま)ひし時に 生(な)り坐(ま)せる 祓戸(はらへど)の大神等(おおかみたち) 諸諸の禍事(まがこと)・罪・穢(けがれ)有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白(まを)すことを聞こし召せと 恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まを)す
伊邪那岐尊が禊を行った地と伝えられる「禊ぎ池」は、かつては入江であったが、後に開墾されて「江田」と称されたという。神社から北側へ歩いて約5分の森の中に「禊ぎ池(御池)」がある。神社の周辺には古代の集落跡が多数あり、代表的なものには弥生時代前期(約2,400年前)の檍(あおき)遺跡がある。また、古墳時代の初期(3世紀末)の前方後円墳・檍1号墳からは国内最大の木製墓室・木槨跡が見つかっている。
伊邪那岐尊(イザナギノミコト)は、伊邪那美尊(イザナミノミコト)と共に、神世七代の七代目の神で、日本国土を形づくる多数の子神を儲けた国産み・神産みの神様である。生まれた子の神々の中には、本州・四国・九州・淡路島などを含む日本の島々や海(オオワタツミ・大綿津見神)・山(オオヤマツミ・大山津見神)・野・木・石・水・風・火など森羅万象の神々が含まれる。
また、以下のように、神話の中で、生死の概念を生み、禊祓という神道の重要な儀式やその他結婚式等の儀礼を始めた神様でもある。例えば、伊邪那岐神、伊邪那美神の二柱はさまざまな神々を生み出したが、伊邪那美は火の神の迦具土(カグツチ)を出産した際に火傷が原因で死亡し、黄泉国に隠れてしまう。伊邪那岐は余りの悲しさに、怒り、迦具土を十拳剣で切り殺してしまう。
そして、イザナギはイザナミを黄泉国から引き戻そうと黄泉の国へ赴くが、イザナミの変わり果てた姿を見て、恐れ慄き、黄泉の国から逃げ帰る。追いかけて来るイザナミ、八雷神、黄泉の醜女(しこめ)らに、髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木の実を投げつけて難を逃れる。このときの功績によって桃は、意富加牟豆美命(おおかむつみのみこと)という神名を賜る。そして、黄泉国と地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口を大岩で塞ぎ、イザナミと完全に離縁した。この黄泉路を塞いだ大石を、道反の大神(ちがえしのおおかみ)といい、岐神として、日本各地に祀られている。
『古事記』では、黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂(よもつひらさか)といい、葦原中国とつながっているとされる。イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入ったという。また、イザナギが、黄泉の国から逃げ帰る場面では、妻イザナミやその手下の黄泉の醜女(しこめ)達が、黄泉比良坂の坂本まで追いかけて来たため、退けるため、その場所に大石(道反の大神)を置き、黄泉路を塞いだという。
この黄泉比良坂の「坂本」という表現には、「坂の下・坂の上り口」を表しているという説と、「坂」の字は当て字であり「さか」は「境界」の意味であるという説とがある。また古事記では、黄泉比良坂は、出雲国に存在する伊賦夜坂(いぶやざか)がそれに当たるとされている。
黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは、上述の如く、黄泉の穢れ(けがれ)を清めるために、『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記される「阿波岐原・檍原(あわきがはら)」の地にある「御池」(あるいは入り江)で禊ぎ(みそぎ)をしたが、このときもさまざまな神々が生まれた。
瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出たとされる。この三神は、住吉三神(すみよしさんじん)と総称され、『日本書紀』では主に底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では主に底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)と表記される。
そして最後に、左目を洗う時イザナギの左目から女神:天照大神(日の神、高天原を支配)が、右目を洗う時イザナギの右目から月読命(月の神、夜を支配)が、鼻を洗う時イザナギの鼻から男神:須佐之男(海を支配)がそれぞれ生まれ出たという。この三神は、イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたところから、三貴神(みはしらのうずのみこ、さんきし)と呼ばれ、イザナギに世界の支配を命じられた神々である。
■ 黄泉帰還の禊の地・江田神社と禊の御池
▼ 伊邪那岐尊の禊祓の霊跡:江田神社
江田神社(えだじんじゃ)は、宮崎県宮崎市阿波岐原町(あわぎがはらちょう)(所在地:
宮崎県宮崎市阿波岐原町字産母127)にあり、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋造りである。式内社で、旧社格は県社。主祭神は伊邪那岐尊(イザナギノミコト)、配祀神は伊邪那美尊(イザナミノミコト)(安徳天皇壽永2年(1183年)正月に増祀された)である。この2柱は「産母(やぼ)二柱大明神」と号され、地元の人々からは「産母(やぼ)様」とも呼ばれ、崇拝されている。
ちなみに、伊邪那岐尊は熊野速玉大神(クマノハヤタマオオカミ)、多賀明神(タガミョウジン)などの別名を持つ。熊野速玉大神は熊野速玉神社に祀られるご祭神で、熊野権現という熊野信仰の神様の一柱である。また、《日本書紀》に「伊弉諾尊は幽宮(かくりのみや、終焉の御住居)を淡路の洲(くに)に造りて、しずかに長く隠れましき」とあり、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊は、最初に生んだ淡路島・多賀の地に造った幽宮に鎮まったとされている。その幽宮が多賀明神の本社・伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)の起源だとされ、淡路島の多賀にあることから多賀明神とも称し、貞観元年(859年)には,無品勲八等伊佐奈岐命に神位一品が授けられ,延喜の制では名神大社に列せられた。
上述の如く、『古事記』や『日本書紀』には、黄泉(よみ)から帰還した伊邪那岐尊(イザナギノミコト)が、黄泉の穢れ(けがれ)を清めるために、禊(みそぎ)を行ったという記述があり、その禊(みそぎ)を行なった場所が『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記されており、この「阿波岐原・檍原(あわきがはら)」が、江田神社や「禊ぎ池(御池)」のある当地・宮崎県宮崎市阿波岐原町(あわぎがはらちょう)字産母であると伝えられている。この地名は、全国の神社であげられる「祝詞」の冒頭でも「かけまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓えたまいしに」と読み上げられている。したがって、この地は「禊ぎ発祥の地」「祝詞発祥の地」ともいわれている。
概史をみると、54代仁明天皇承和4年(837年)丁巳に記された『続日本後紀』の8月1日条には「日向国子湯郡の都濃神(つののかみ)(都農神社)・妻神(つまのかみ)(都萬神社)・宮崎郡の江田神(えたのかみ)(江田神社)・諸県郡の霧島岑神(きりしまみねのかみ)(霧島神社)並びに官社に預かる」とあり、この時すでに祈年祭の奉幣にあずかる官社に列していたことがわかる。これが国史に現れる初見である。55代文徳天皇仁壽元年(851年)辛未正月従四位下を授けられ、56代清和天皇貞観元年(859年)己酉10月従四位上に進められ、その後、64代円融天皇天禄元年(970年)2月迄に天変地妖兵革等の年毎に敍位8回に及び、神階が最高位の正一位まで昇階し、菊の紋章を持つ壮麗な神殿を持つなどの社勢を誇っていたといわれる。
60代醍醐天皇の延喜年間に於いて、延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』には延喜式内社日向四座(都農神社、都萬神社、江田神社、霧島神社)の一社として登載され、祈年新嘗の奉幣を受けている。また、平安時代中期の承平年間(931〜938年)ごろに作られた辞書『和名類聚抄』の宮崎郡条に「江田郷に鎮座」の記載があり、境内からは10世紀前後の須恵器も出土したことから、創建当初の位置に現在も鎮座していると考えられている。寿永2年(1183年)正月には、伊邪那美尊を配祀し、産母二柱大明神と称し、里人からは産母(やぼ)様として親しまれ、社領30余町を有する日向国(ひむかのくに)を代表する神社として社勢を誇っていたという。室町時代には永享6年(1434年)再建の京都清滝宮の『清滝宮勧進神名帳』や文明11年(1479年)の『戒壇院公用神名帳』にも記載が見られるなど、日向国を代表する神社であったと見られている。
ところが、江戸時代には寛文2年(1662年)10月31日(寛文2年9月20日)未明に日向灘沖で発生したM7.6の外所(とんどころ)地震による大津波によって、小戸神社と同様に、社殿や貴重な歴史遺産が消失し、壊滅的な被害を受け、社勢が衰えた。そのため、112代後西院天皇寛文年間の神社制度変革によって一村落の産土神と同様の取扱を承けるに至ったこと、また江戸時代中期の国学者である本居宣長がその著書『古事記伝』で「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」の伝承的な由緒を否定したことにより、以後、江田神社は延喜式にも記載された日向式内四座のひとつであり、由緒の最も古い社であるにもかかわらず、他の三社に比べると規模の小さい神社となっていた。
江戸時代初期、被災後の延宝3年(1675年)9月16日に参詣した神道家の橘三喜は『諸国一宮巡詣記』の中で「江田の御社に参りそれより檍が原の住吉に詣でて、尋ね来て聞けば心も住吉の松は檍が原の松原。この海辺に伊弉諾命の身そぎ給う上・中・下の三つの瀬ありと伝えし云々」と記している。その縁起の中に「御社より二十余町の沖に上つ瀬があり、そこには石の華表(かひょう)がある。それより南方に中つ瀬があり、ここに伊邪那岐尊、伊邪那美尊の二柱を祀る社がある。さらに南に下つ瀬があり、小戸大明神(おどだいみょうじん)の神社がある。」と書かれており、この記述からすると、上つ瀬の神社が住吉神社、中つ瀬の神社が当社・江田神社、下つ瀬の神社が小戸神社に当たる。この縁起の中で、沖にあるとされる住吉神社は、檍村(あおきむら)大字吉村の下別府という地にあったが、寛文2年(1662年)の大津波で海中に没してしまい、また下つ瀬は今の吉村地区の当たりであったが、小戸神社も被災し、現在地に遷座している。このことから「筑築の日向の小戸の阿波岐原」というのは住吉神社から大淀川河口(吉村地区)までの地であろうとされている。
江戸時代は幕府領伊東氏飫肥藩(おびはん)預地(管理を委託された幕府直轄地)であったが、明治6年(1873年)5月25日、近代社格制度において県社に列格し、同40年2月9日に神饌幣帛料供進神社(勅令に基づき県令をもって、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社)に指定された。現代になって、哲学者・梅原猛氏は、その著書『天皇家の“ふるさと”日向をゆく』のなかで、江戸時代における「本居宣長の否定」を、また宣長はじめ宣長説に追随した国学者や古代研究者の「誤謬」を複数の論拠を基に、厳しく批判している。
祭事として、祈年祭 (2月17日)、大祓祭 (6月30日)(特殊神事として茅の輪潜りがある)、例大祭 (11月22日)、新嘗祭(11月23日)などが行われ、春の社日祭・秋季例大祭では、「江田神楽」が奉納される。神楽の歴史は古く、慶長17年銘の神楽面が残っている。
江田神社には二つのご神木がある。ひとつは社殿に向かって左側に植えられている招霊木(おがたまのき)で、春に芳香の強い花が咲き、秋になれば赤い実をつけるご神木である。天照大神が天の岩戸に隠れた時に天鈿女命(あめのうずめ)が実のついた枝を手に持って踊ったことで知られ、これが神楽鈴の起こりともいわれている。他のご神木は社殿に向かって参道の右側に見える注連縄が巻かれた大きなクスノキである。「とてもパワーがある木」だということで、ご神木に触ると大きなパワーが授かると人気である。
江田神社の周辺には古代の集落跡が多数あり、代表的なものには弥生時代前期(約2,400年前)の墓地遺跡・檍(あおき)遺跡がある。また、古墳時代初期(3世紀末)の前方後円墳・檍1号墳からは墳丘内に棺(ひつぎ)を安置する部屋を木の板で囲んだ国内最大の木製墓室・木槨跡(長さ約7.5m、幅約4.5m、高さ約1.5m)が見つかった。九州では初めての発見で、当時のヤマト政権や、同様の遺跡がある瀬戸内地方の勢力とのかかわりが伺える貴重な遺跡である。
宮崎県宮崎市阿波岐原町字産母127)にあり、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋造りである。式内社で、旧社格は県社。主祭神は伊邪那岐尊(イザナギノミコト)、配祀神は伊邪那美尊(イザナミノミコト)(安徳天皇壽永2年(1183年)正月に増祀された)である。この2柱は「産母(やぼ)二柱大明神」と号され、地元の人々からは「産母(やぼ)様」とも呼ばれ、崇拝されている。
ちなみに、伊邪那岐尊は熊野速玉大神(クマノハヤタマオオカミ)、多賀明神(タガミョウジン)などの別名を持つ。熊野速玉大神は熊野速玉神社に祀られるご祭神で、熊野権現という熊野信仰の神様の一柱である。また、《日本書紀》に「伊弉諾尊は幽宮(かくりのみや、終焉の御住居)を淡路の洲(くに)に造りて、しずかに長く隠れましき」とあり、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊は、最初に生んだ淡路島・多賀の地に造った幽宮に鎮まったとされている。その幽宮が多賀明神の本社・伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)の起源だとされ、淡路島の多賀にあることから多賀明神とも称し、貞観元年(859年)には,無品勲八等伊佐奈岐命に神位一品が授けられ,延喜の制では名神大社に列せられた。
上述の如く、『古事記』や『日本書紀』には、黄泉(よみ)から帰還した伊邪那岐尊(イザナギノミコト)が、黄泉の穢れ(けがれ)を清めるために、禊(みそぎ)を行ったという記述があり、その禊(みそぎ)を行なった場所が『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記されており、この「阿波岐原・檍原(あわきがはら)」が、江田神社や「禊ぎ池(御池)」のある当地・宮崎県宮崎市阿波岐原町(あわぎがはらちょう)字産母であると伝えられている。この地名は、全国の神社であげられる「祝詞」の冒頭でも「かけまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓えたまいしに」と読み上げられている。したがって、この地は「禊ぎ発祥の地」「祝詞発祥の地」ともいわれている。
概史をみると、54代仁明天皇承和4年(837年)丁巳に記された『続日本後紀』の8月1日条には「日向国子湯郡の都濃神(つののかみ)(都農神社)・妻神(つまのかみ)(都萬神社)・宮崎郡の江田神(えたのかみ)(江田神社)・諸県郡の霧島岑神(きりしまみねのかみ)(霧島神社)並びに官社に預かる」とあり、この時すでに祈年祭の奉幣にあずかる官社に列していたことがわかる。これが国史に現れる初見である。55代文徳天皇仁壽元年(851年)辛未正月従四位下を授けられ、56代清和天皇貞観元年(859年)己酉10月従四位上に進められ、その後、64代円融天皇天禄元年(970年)2月迄に天変地妖兵革等の年毎に敍位8回に及び、神階が最高位の正一位まで昇階し、菊の紋章を持つ壮麗な神殿を持つなどの社勢を誇っていたといわれる。
60代醍醐天皇の延喜年間に於いて、延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』には延喜式内社日向四座(都農神社、都萬神社、江田神社、霧島神社)の一社として登載され、祈年新嘗の奉幣を受けている。また、平安時代中期の承平年間(931〜938年)ごろに作られた辞書『和名類聚抄』の宮崎郡条に「江田郷に鎮座」の記載があり、境内からは10世紀前後の須恵器も出土したことから、創建当初の位置に現在も鎮座していると考えられている。寿永2年(1183年)正月には、伊邪那美尊を配祀し、産母二柱大明神と称し、里人からは産母(やぼ)様として親しまれ、社領30余町を有する日向国(ひむかのくに)を代表する神社として社勢を誇っていたという。室町時代には永享6年(1434年)再建の京都清滝宮の『清滝宮勧進神名帳』や文明11年(1479年)の『戒壇院公用神名帳』にも記載が見られるなど、日向国を代表する神社であったと見られている。
ところが、江戸時代には寛文2年(1662年)10月31日(寛文2年9月20日)未明に日向灘沖で発生したM7.6の外所(とんどころ)地震による大津波によって、小戸神社と同様に、社殿や貴重な歴史遺産が消失し、壊滅的な被害を受け、社勢が衰えた。そのため、112代後西院天皇寛文年間の神社制度変革によって一村落の産土神と同様の取扱を承けるに至ったこと、また江戸時代中期の国学者である本居宣長がその著書『古事記伝』で「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」の伝承的な由緒を否定したことにより、以後、江田神社は延喜式にも記載された日向式内四座のひとつであり、由緒の最も古い社であるにもかかわらず、他の三社に比べると規模の小さい神社となっていた。
江戸時代初期、被災後の延宝3年(1675年)9月16日に参詣した神道家の橘三喜は『諸国一宮巡詣記』の中で「江田の御社に参りそれより檍が原の住吉に詣でて、尋ね来て聞けば心も住吉の松は檍が原の松原。この海辺に伊弉諾命の身そぎ給う上・中・下の三つの瀬ありと伝えし云々」と記している。その縁起の中に「御社より二十余町の沖に上つ瀬があり、そこには石の華表(かひょう)がある。それより南方に中つ瀬があり、ここに伊邪那岐尊、伊邪那美尊の二柱を祀る社がある。さらに南に下つ瀬があり、小戸大明神(おどだいみょうじん)の神社がある。」と書かれており、この記述からすると、上つ瀬の神社が住吉神社、中つ瀬の神社が当社・江田神社、下つ瀬の神社が小戸神社に当たる。この縁起の中で、沖にあるとされる住吉神社は、檍村(あおきむら)大字吉村の下別府という地にあったが、寛文2年(1662年)の大津波で海中に没してしまい、また下つ瀬は今の吉村地区の当たりであったが、小戸神社も被災し、現在地に遷座している。このことから「筑築の日向の小戸の阿波岐原」というのは住吉神社から大淀川河口(吉村地区)までの地であろうとされている。
江戸時代は幕府領伊東氏飫肥藩(おびはん)預地(管理を委託された幕府直轄地)であったが、明治6年(1873年)5月25日、近代社格制度において県社に列格し、同40年2月9日に神饌幣帛料供進神社(勅令に基づき県令をもって、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社)に指定された。現代になって、哲学者・梅原猛氏は、その著書『天皇家の“ふるさと”日向をゆく』のなかで、江戸時代における「本居宣長の否定」を、また宣長はじめ宣長説に追随した国学者や古代研究者の「誤謬」を複数の論拠を基に、厳しく批判している。
祭事として、祈年祭 (2月17日)、大祓祭 (6月30日)(特殊神事として茅の輪潜りがある)、例大祭 (11月22日)、新嘗祭(11月23日)などが行われ、春の社日祭・秋季例大祭では、「江田神楽」が奉納される。神楽の歴史は古く、慶長17年銘の神楽面が残っている。
江田神社には二つのご神木がある。ひとつは社殿に向かって左側に植えられている招霊木(おがたまのき)で、春に芳香の強い花が咲き、秋になれば赤い実をつけるご神木である。天照大神が天の岩戸に隠れた時に天鈿女命(あめのうずめ)が実のついた枝を手に持って踊ったことで知られ、これが神楽鈴の起こりともいわれている。他のご神木は社殿に向かって参道の右側に見える注連縄が巻かれた大きなクスノキである。「とてもパワーがある木」だということで、ご神木に触ると大きなパワーが授かると人気である。
江田神社の周辺には古代の集落跡が多数あり、代表的なものには弥生時代前期(約2,400年前)の墓地遺跡・檍(あおき)遺跡がある。また、古墳時代初期(3世紀末)の前方後円墳・檍1号墳からは墳丘内に棺(ひつぎ)を安置する部屋を木の板で囲んだ国内最大の木製墓室・木槨跡(長さ約7.5m、幅約4.5m、高さ約1.5m)が見つかった。九州では初めての発見で、当時のヤマト政権や、同様の遺跡がある瀬戸内地方の勢力とのかかわりが伺える貴重な遺跡である。
<中学同窓・松崎泰士君撮影>
江田神社 鳥居
江田神社境内
拝殿 本殿(奥) 御神紋は「丸に五七の桐」
江田神社由緒記 ー境内由緒よりー
社名 江田神社 御祭神 伊邪那岐尊 伊邪那美尊(但伊邪那美尊ハ安徳天皇壽永二年正月配祀) 御祭日 例大祭 十一月二十二日 祈年祭 二月十七日 新嘗祭 十一月二十三日 ああああああああああああああああ大祓祭 六月三十日 特殊神事 茅ノ輪潜リ 本神社ハ太古ノ御創建ニシテ其ノ創立ノ年代ハ詳カナラザルモ此ノ地一帯ハ古来所謂日向ノ橘ノ小戸阿波岐原トシテ伊邪那岐ノ大神禊祓ノ霊跡ト傳承セラレテ縁起最モ極メテ深キ社ナラム禊祓ノ際天照皇大神、素盞鳴尊ト住吉三神ノ神々ガ御降誕アラセラレタル霊域ノ地ト傳ヘ即チ上代ニ於ケル中ツ瀬ト稱セル御池本社ヲ去ルコト約五丁ノ東北ニ現在ス後、世人入江ヲ開墾シテ江田ト稱シ里人俗ニ當社ヲ産母様ト稱ヘテ今日ニ至ル 仁明天皇承和四年丁己八月官社ニ列セラレ文徳天皇仁壽元年辛未正月従四位下ヲ授ケラレ清和天皇貞観元年己酉十月従四位上ニ進メラレ其後丹融天皇天録元年二月迄ニ天変地妖兵革等ノ年毎ニ敍位八回ニ及ビ正一位ニ昇階アリシト云フ醍醐天皇ノ延喜年間ニ於テ延喜式内社日向四座ノ一社トシテ神明帳ニ登載セラレ祈年新嘗ノ奉幣ヲ承ケ居リシガ後西院天皇寛文年間ニ神社ノ制度ニ変革ヲ来シ遂ニ一村落ノ産土神ト同様ノ取扱ヲ承ケルニ至レリ 明治維新ニ際シ明治六年五月二十五日ニ社格縣社ニ列サレ同四十年二月九日神饌幣帛料供進ヲ指定サレテ今日ニ至ル |
江田神社由緒記
▼ 天照大神など三貴神や住吉三神が生まれた「禊の御池」
江田神社のご神木・招霊木(おがたまのき)が植わっているあたりから林を抜けると舗装された遊歩道に出る。そこから北側へ歩いて約5分、シーガイアに隣接する阿波岐原森林公園・市民の森の中に「禊ぎ池(御池)」がある。かつては入江であったが、後に開墾されて「江田」と称されたという。(御池が古代の入江とすれば、縄文時代の海面上昇(縄文海進)」や「弥生時代の海面降下(弥生海退)」の如く、海岸段丘によって形成される海岸線移動の徴・古代の海の記憶に他ならない)。池の周囲には御幣(ごへい)が立てられ、神域になっている。
黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは、上述の如く、黄泉の穢れ(けがれ)を清めるために、『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記される「阿波岐原・檍原(あわきがはら)」の地にある池(のちに「御池」)で禊ぎ(みそぎ)をしたが、このときもさまざまな神々が生まれた。瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出たとされる。
この三神は、住吉三神(すみよしさんじん)と総称され、『日本書紀』では主に底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では主に底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)と表記される。
そして最後に、左目を洗う時イザナギの左目から女神:天照大神(日の神、高天原を支配)が、右目を洗う時イザナギの右目から月読命(月の神、夜を支配)が、鼻を洗う時イザナギの鼻から男神:須佐之男(海を支配)がそれぞれ生まれ出たという。この三神は、イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたところから、三貴神(みはしらのうずのみこ、さんきし)と呼ばれ、イザナギに世界の支配を命じられた神々である。
黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは、上述の如く、黄泉の穢れ(けがれ)を清めるために、『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記される「阿波岐原・檍原(あわきがはら)」の地にある池(のちに「御池」)で禊ぎ(みそぎ)をしたが、このときもさまざまな神々が生まれた。瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出たとされる。
この三神は、住吉三神(すみよしさんじん)と総称され、『日本書紀』では主に底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では主に底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)と表記される。
そして最後に、左目を洗う時イザナギの左目から女神:天照大神(日の神、高天原を支配)が、右目を洗う時イザナギの右目から月読命(月の神、夜を支配)が、鼻を洗う時イザナギの鼻から男神:須佐之男(海を支配)がそれぞれ生まれ出たという。この三神は、イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたところから、三貴神(みはしらのうずのみこ、さんきし)と呼ばれ、イザナギに世界の支配を命じられた神々である。
禊(みそぎ)の御池
池の周囲には御幣(ごへい)が立てられ、神域になっている。
池の周囲には御幣(ごへい)が立てられ、神域になっている。
御池 みそぎが池 −説明板より−
古来より この地は筑紫日向橘小門之阿波岐原と呼ばれ、伊邪那岐大神が禊祓されたと伝えられています。 我が国最古の歴史書である古事記には、伊邪那岐大神が禊祓をされ、天照大御神をはじめ多くの神々が誕生されたと記されています。 古事記 是以伊邪那伎大神 到坐竺紫日向 橘小門之阿波岐原而 禊祓也 於是洗左御目時所成神 名天照大御神 次洗右御目時所成神 名月讀命 次洗御鼻時所成神 名建速須佐之男命 と書かれています。 |
由緒略説:
古来より、この地は竺紫日向橘小門之阿波岐原と呼ばれ、我が国最古の歴史書である古事記には、「伊邪那美尊が、火神迦具土神を生んだとき、火傷が原因で亡くなってしまう。余りの悲しさに伊邪那岐尊は、黄泉の国まで追いかけてしまうが、妻の変わり果てた姿を見て、黄泉の国より、逃げ出してしまう。そして、伊邪那岐尊は穢れた体を清めるため、この地、阿波岐原(禊の御池)にて、禊ぎを行う。その時、左目を洗うと天照大御神が、右目を洗うと月読尊が、鼻を洗うと素戔嗚命が生まれてきた。」と記載され、以降、天孫降臨から神武東征に至るまでの壮大な日向神話は、この地より始まったとされている。
古来より、この地は竺紫日向橘小門之阿波岐原と呼ばれ、我が国最古の歴史書である古事記には、「伊邪那美尊が、火神迦具土神を生んだとき、火傷が原因で亡くなってしまう。余りの悲しさに伊邪那岐尊は、黄泉の国まで追いかけてしまうが、妻の変わり果てた姿を見て、黄泉の国より、逃げ出してしまう。そして、伊邪那岐尊は穢れた体を清めるため、この地、阿波岐原(禊の御池)にて、禊ぎを行う。その時、左目を洗うと天照大御神が、右目を洗うと月読尊が、鼻を洗うと素戔嗚命が生まれてきた。」と記載され、以降、天孫降臨から神武東征に至るまでの壮大な日向神話は、この地より始まったとされている。
「禊ぎが池」の傍に立つ説明板
▼ 古事記の神系譜 ー天皇家と日向神話ー
2019.1.5 13.50〜撮影あ