求菩提修験道が伝える「お田植祭」
求菩提山・お田植祭(豊前・国玉神社)(県の無形民俗文化財)
■ 求菩提山の山岳信仰を基礎とした修験道の確立
求菩提(くぼて)山は、豊前市のほぼ南に聳える標高782mの円錐形の山で、安山岩質の熔岩の散在などから活火山であったことが推測され、この火山の噴火に対する畏怖の念が古代人の山への信仰の原点ではなかったかと類推され、また山頂から古墳時代中頃(5世紀前半)の陶質土器・須恵器(すえき)が出土していることから、求菩提山の信仰は古墳時代から始まっていたのではないかと類推されている。
この求菩提山信仰は、近世においては、526年の猛覚魔ト仙による開山、704年の役行者の入山、720年の行善による求菩提山護国寺の建立などが求菩提山文書にて伝わっているが、平安時代末期(12世紀中頃)に入って、宇佐郡出身の天台宗の僧・頼厳によって再興され、古来の山岳信仰を基礎にした修験道が確立されていったとされている。
以来、求菩提山は、天台宗・求菩提山護国寺を中心に、「一山五百坊」と言われる程、多くの修験者たちが山内に居住し、厳しい修行に挑み、英彦山と共に北部九州の修験道の中心として繁栄したという。しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令とそれに伴う廃仏毀釈、さらには明治5年(1872年)の修験道廃止令によって、求菩提修験道は終焉を迎えることになった。
この求菩提山信仰は、近世においては、526年の猛覚魔ト仙による開山、704年の役行者の入山、720年の行善による求菩提山護国寺の建立などが求菩提山文書にて伝わっているが、平安時代末期(12世紀中頃)に入って、宇佐郡出身の天台宗の僧・頼厳によって再興され、古来の山岳信仰を基礎にした修験道が確立されていったとされている。
以来、求菩提山は、天台宗・求菩提山護国寺を中心に、「一山五百坊」と言われる程、多くの修験者たちが山内に居住し、厳しい修行に挑み、英彦山と共に北部九州の修験道の中心として繁栄したという。しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令とそれに伴う廃仏毀釈、さらには明治5年(1872年)の修験道廃止令によって、求菩提修験道は終焉を迎えることになった。
■ 求菩提山のお田植祭(県の無形民俗文化財)
豊前の求菩提山において培われた修験道には、「松江(まつえ)」と呼ばれる豊前国独自の五穀豊穣を祈る祭礼があり、その祭礼では、神幸祭・神楽奉納(岩屋神楽)に始まり、次に松庭と呼ばれる広場で田行事が行われ、最後に高い松柱の上から幣を切り落とす幣切り行事が行われていたという。現在では、お田植祭として田行事のみが行われ、春の種まきから田植えまでの農作業を真似た所作が神歌に合わせて奉納されている。この田行事は、保存された衣装箱に「健暦三年二月廿九日」の墨書があることから、鎌倉時代にはすでに行われていたという。
このお田植祭はその年の豊作を予め祝う予祝祭で、もともとは神仏習合の祭りではあるが、求菩提山では国玉神社の神事として、8合目にある国玉神社の中宮前広場で、毎年3月最終日曜日に行われている。県指定無形民俗文化財として、地元保存会(信安広太会長)が継承し、白装束に菅笠の会員らが、神歌「遣巻」に合わせて、「張り子の牛」など滑稽なしぐさを交えながら、田を作り、苗を植えるまでの所作を演じる。併せて神楽の奉納や神輿の巡行などもあり、山に春の訪れを告げる祭りでもある。
このお田植祭はその年の豊作を予め祝う予祝祭で、もともとは神仏習合の祭りではあるが、求菩提山では国玉神社の神事として、8合目にある国玉神社の中宮前広場で、毎年3月最終日曜日に行われている。県指定無形民俗文化財として、地元保存会(信安広太会長)が継承し、白装束に菅笠の会員らが、神歌「遣巻」に合わせて、「張り子の牛」など滑稽なしぐさを交えながら、田を作り、苗を植えるまでの所作を演じる。併せて神楽の奉納や神輿の巡行などもあり、山に春の訪れを告げる祭りでもある。
<中学同窓・松崎泰士君撮影>
神楽奉納
田植え
田鋤き
田鋤き
田誉め
神輿の巡行
神輿の巡行
2010.3.29 11.00〜撮影あ