八幡神を祀る門司八幡宮(甲宗八幡神社)
八幡神を祀る門司八幡宮(甲宗八幡神社)と平知盛の墓 2018年11月27日
■ 門司八幡宮(甲宗八幡神社)
甲宗八幡神社(こうそうはちまんじんじゃ)は、北九州市門司区旧門司1丁目7−18にある神社で、御祭神は八幡三神である。第一殿に戦の神で八幡神とされる応神天皇、第二殿に仲哀天皇の皇后であり応神天皇の母である神功皇后、第三殿には八幡神出現以前の古い地主神であるが、天照大神と弟の建速須佐之男命との仲違いの誓約時に天照大神から誕生した宗像三女神(市寸島比売命・多紀理比売命・多紀津比売命)を祀る。古代では都を西門の守神として鎮まり、中世には朝廷からの尊崇厚く、源氏・平家に縁深く、門司六ヶ郷を支配した門司氏の氏神となり、足利尊氏や周防国の大内家から崇拝された。近世には細川家・小笠原家から小倉藩の守護神と崇められ、近代には門司で起業した出光佐三氏を始め多くの崇敬を集め現代に至る。旧社格は県社、現在は神社本庁の別表神社である。
建立は860年、第56代・清和天皇によるものであるが、その昔、朝鮮半島に攻め入った「三韓征伐」の際に神功皇后が着用していた甲をご神体とし、筆立山に建設したと伝えられている。(ご神体の拝観は50年に一度行われる大祭でのみ可能で、前々回は1958年(昭和33年)、前回は2008年(平成20年)、次回の大祭は2058年春)。1185年の壇ノ浦の戦いの際、荒れ果てた社殿は武将・源範頼、源義経兄弟により再建され、拝殿裏には「平知盛の墓」と伝えられる石塔がある。その他、境内には北九州市出身の出光佐三氏による手水舎や鳥居の建立や、作家火野葦平の詩碑の建立などが見られる。
建立は860年、第56代・清和天皇によるものであるが、その昔、朝鮮半島に攻め入った「三韓征伐」の際に神功皇后が着用していた甲をご神体とし、筆立山に建設したと伝えられている。(ご神体の拝観は50年に一度行われる大祭でのみ可能で、前々回は1958年(昭和33年)、前回は2008年(平成20年)、次回の大祭は2058年春)。1185年の壇ノ浦の戦いの際、荒れ果てた社殿は武将・源範頼、源義経兄弟により再建され、拝殿裏には「平知盛の墓」と伝えられる石塔がある。その他、境内には北九州市出身の出光佐三氏による手水舎や鳥居の建立や、作家火野葦平の詩碑の建立などが見られる。
<中学同窓・田中文君撮影>
■ 歴史
甲宗八幡宮のご由緒によると、第56代・清和天皇の貞観元年(859年)、大和国(奈良県)大安寺の僧侶であった行教(ぎょうきょう)が、九州で最も霊験あらたかな豊前国の宇佐八幡宮(宇佐神宮:大陸文化の影響を受け、最も新しい文化圏をもつ神で、地方神としては伊勢神宮についで朝廷の信仰を最も受けていた神宮である)に参拝し、「桓武天皇は都を平安京に遷させ給うてより(平安遷都)、五十年以上も経過したが、未だに王城鎮護の神はなし。願わくば神慮が我に降って、守護神を教え賜え」と祈願したところ、「吾れ都近く(山崎離宮のあった男山)移座して国家を鎮護せん」とのご神勅を受けた。
そこで翌年の貞観2年(860年)、清和天皇は、太宰大弐(太宰府の太宰師の次の位置する職)清原真人岑成を勅使として派遣。勅使の旨を受けた行教は、畏みて宇佐八幡宮の御分霊を山城国(京都府)に遷座する(お遷しする、即ち岩清水八幡宮の創建)途中、門司関の霊峰筆立山(大宮山)の山麓に滞在した。
するとその時、筆立山上空に瑞雲(めでたいことの前兆として現れる雲)がたなびき、不思議なことに八流(やながれ)の幡(はた)を天降(あもり)して、光り日月のごとく行教の袈裟を照らした。
行教は「大神の出現疑うべからず」と上申し、この地に宇佐八幡宮の御分霊を祀り、神功皇后御着用の御甲を御神霊(御神体)として外朝西門鎮守・門司八幡宮(後に甲宗八幡宮)を創建した(御甲をご神体として祀ることから甲宗と称すようになる)。初代宮司(祭主)は、宇佐神宮・初代宮司・大神比義を始祖とする大神義勝であり、以来同家が宮司職を務める。祖先には遣唐使あるいは遣唐副使がおり、義勝以後、歴代の宮司は五攝家の近衛家より、九州及び四国一部の海上総関門で朝鮮・中国大陸との交流の要衝でもある門司関の関司(別当)に任命された。
甲宗八幡神社には、中世文書である甲宗八幡神社文書8通(古文書)が伝来する。昭和60年(1985年)2月1日、有形文化財(古文書)に指定された。甲宗八幡は門司六ヶ郷の総鎮守であり、もと門司八幡宮とも呼ばれ、門司氏の氏神あるいは門司地区の産神として崇敬されてきた。資料には、門司関領田であった鎌倉時代の公田「門司六ヶ郷」の規模とその構成を知ることのできる「門司関六ヶ郷惣田数注文写」や、享禄2年(1529年)に門司氏が受け取った書状の包紙の裏に書かれた注進状、また建武3年(1336年)4月11日付の「足利尊氏寄進状」などがある。
そこで翌年の貞観2年(860年)、清和天皇は、太宰大弐(太宰府の太宰師の次の位置する職)清原真人岑成を勅使として派遣。勅使の旨を受けた行教は、畏みて宇佐八幡宮の御分霊を山城国(京都府)に遷座する(お遷しする、即ち岩清水八幡宮の創建)途中、門司関の霊峰筆立山(大宮山)の山麓に滞在した。
するとその時、筆立山上空に瑞雲(めでたいことの前兆として現れる雲)がたなびき、不思議なことに八流(やながれ)の幡(はた)を天降(あもり)して、光り日月のごとく行教の袈裟を照らした。
行教は「大神の出現疑うべからず」と上申し、この地に宇佐八幡宮の御分霊を祀り、神功皇后御着用の御甲を御神霊(御神体)として外朝西門鎮守・門司八幡宮(後に甲宗八幡宮)を創建した(御甲をご神体として祀ることから甲宗と称すようになる)。初代宮司(祭主)は、宇佐神宮・初代宮司・大神比義を始祖とする大神義勝であり、以来同家が宮司職を務める。祖先には遣唐使あるいは遣唐副使がおり、義勝以後、歴代の宮司は五攝家の近衛家より、九州及び四国一部の海上総関門で朝鮮・中国大陸との交流の要衝でもある門司関の関司(別当)に任命された。
甲宗八幡神社には、中世文書である甲宗八幡神社文書8通(古文書)が伝来する。昭和60年(1985年)2月1日、有形文化財(古文書)に指定された。甲宗八幡は門司六ヶ郷の総鎮守であり、もと門司八幡宮とも呼ばれ、門司氏の氏神あるいは門司地区の産神として崇敬されてきた。資料には、門司関領田であった鎌倉時代の公田「門司六ヶ郷」の規模とその構成を知ることのできる「門司関六ヶ郷惣田数注文写」や、享禄2年(1529年)に門司氏が受け取った書状の包紙の裏に書かれた注進状、また建武3年(1336年)4月11日付の「足利尊氏寄進状」などがある。
▼ 甲宗八幡宮に残る古文書
● 門司六ヶ郷名々田図注文写
楠原郷・柳郷・大積郷・伊川郷・吉志郷・片野郷の門司六ヶ郷に散在していた公田(国が管理する田地)を注進した名簿(土地台帳)で、鎌倉時代の文永九年に作成されたものが長禄三年に書写され、さらに享禄二年に花尾城で書写したことが記されている。
● 足利尊氏寄進状
京都での合戦に敗れた足利尊氏は、一旦九州・太宰府に逃れるが、九州の軍勢を連れて再上洛をめざす途上、船上から門司八幡宮(甲宗八幡宮)を拝し、戦勝を祈願して田地を寄進したもので、源朝臣(足利尊氏)の記載がある。
● 門司八幡宮神役免田坪付注文
月例や2月、8月の彼岸の祭祀など、神役の費用を捻出するために年貢を免除された田地を注進したもの。宛名の飯田大炊助(興秀)は豊前国守護の大内氏の家臣で、この文書の裏にはこれを保証した飯田興秀と冷泉興豊の連署書が記されている。
楠原郷・柳郷・大積郷・伊川郷・吉志郷・片野郷の門司六ヶ郷に散在していた公田(国が管理する田地)を注進した名簿(土地台帳)で、鎌倉時代の文永九年に作成されたものが長禄三年に書写され、さらに享禄二年に花尾城で書写したことが記されている。
● 足利尊氏寄進状
京都での合戦に敗れた足利尊氏は、一旦九州・太宰府に逃れるが、九州の軍勢を連れて再上洛をめざす途上、船上から門司八幡宮(甲宗八幡宮)を拝し、戦勝を祈願して田地を寄進したもので、源朝臣(足利尊氏)の記載がある。
● 門司八幡宮神役免田坪付注文
月例や2月、8月の彼岸の祭祀など、神役の費用を捻出するために年貢を免除された田地を注進したもの。宛名の飯田大炊助(興秀)は豊前国守護の大内氏の家臣で、この文書の裏にはこれを保証した飯田興秀と冷泉興豊の連署書が記されている。
■ 御祭神(八幡三神)
応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神(ひめがみ):宗像三女神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。第一殿に応神天皇、第二殿に神功皇后、第三殿に宗像三女神(市寸島比売命・多紀理比売命・多紀津比売命)を祀る。
▼ 応神天皇
応神天皇(200〜310年)は、仲哀9年(200年)、第14代・仲哀天皇と神功皇后の御子として生まれた。腕の肉が弓具の鞆(とも/ほむた)のように盛り上がっていたので、古事記では品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)、日本書紀では誉田別命(ほむたわけのみこと/ほんだわけのみこと)・誉田天皇(ほむたすめらみこと/ほんだすめらみこと)、また父の仲哀天皇の死去により母の神功皇后の胎内にあった時から皇位に就く宿命にあったので胎中天皇(たいちゅうてんのう)とも称された。応神天皇は生まれながらの武神と言われ、八幡神とされている。すなわち、『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。
▼ 八幡神(八幡大菩薩)の起源
「八幡宇佐宮御託宣集」によると、「辛国の城に、始めて八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり」という一文があり、この「八流の幡」が八幡の名称の由来となったとも言われている。「八」は数が多いこと、「幡」は「旗」を意味し、神の依り代(神霊が依り憑く対象物)とされている。「辛」は「韓」や「伽羅」に関連すると言われ、八幡神の源が外来神であったことが示唆されている。
応神天皇崩御後の欽明天皇32年(571年)に、宇佐の地にて、鍛冶の翁、金色の鷹、鳩の姿、三歳の童子と変化しながら大神比義の前に現れた神は、「われは誉田の天皇広幡八幡麿なり。われの名は、護国霊験威力神力大自在王菩薩で、神道として垂迹せしものなり」と告げ、八幡神は応神天皇の神霊(神体)と宣された。その八幡神を祀ったのが大神比義であり、後に宇佐神宮の初代宮司となる。武神である応神天皇と、放生会のごとく、万物の魂や死者を供養し戦場を浄化する仏教との神仏習合の神として、八幡神は多くの武将達に敬われ、「八幡大菩薩」と称され、崇められていった。
応神天皇崩御後の欽明天皇32年(571年)に、宇佐の地にて、鍛冶の翁、金色の鷹、鳩の姿、三歳の童子と変化しながら大神比義の前に現れた神は、「われは誉田の天皇広幡八幡麿なり。われの名は、護国霊験威力神力大自在王菩薩で、神道として垂迹せしものなり」と告げ、八幡神は応神天皇の神霊(神体)と宣された。その八幡神を祀ったのが大神比義であり、後に宇佐神宮の初代宮司となる。武神である応神天皇と、放生会のごとく、万物の魂や死者を供養し戦場を浄化する仏教との神仏習合の神として、八幡神は多くの武将達に敬われ、「八幡大菩薩」と称され、崇められていった。
▼ 神功皇后
仲哀天皇の皇后であった神功皇后(170〜269年)は、古事記では息長帯比売命(おきながたらしめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后(おおたらしひめのみことこうごう)、日本書紀では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と称され、仲哀9年(200年)、仲哀天皇は琴をひき、大臣の建内宿禰(たけのうちすくね)が神託を求めると、神功皇后が「神がかり」したが、その教えに従わなかった仲哀天皇は神の怒りに触れ崩御されてしまう。熊襲討伐の後、神功皇后に再び神託があり、御子を身ごもったまま朝鮮半島に出兵し、新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝具を約束したと言われている(三韓征伐)。御子は凱旋後、すぐに筑紫国で誕生し、その御子が応神天皇である。皇后は長府の豊浦宮(忌宮神社)に皇居を定め、九州の諸豪族の動静を監視し、三韓に対しての誤解を解き、従前以上に交流を盛んにし、学問、工芸、殖産などの技術者を招いては大陸文化を吸収する素地を作っていった。
▼ 比売神(ひめがみ):宗像三女神
比売神(ひめがみ)は、神道の女神である。最も有名な比売神は、八幡社の比売大神である。総本宮である宇佐神宮(大分県宇佐市)や宇佐から勧請した石清水八幡宮(京都府八幡市)などでは、宗像三女神を祭神として祀る。
宗像三女神とは、天照大神と弟の建速須佐之男命に仲違いがあり、互いの潔白を証明する誓約(うけい)時に、天照大神から誕生した市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)、多紀理比売命(たぎりひめのみこと)、多紀津比売命(たぎつひめのみこと)の三女神をいう。宗像三女神は、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降りしたと伝えられ、宗像氏ら海人集団の崇拝する神で、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られているが、神功皇后の三韓征伐の成功により、八幡三神の一柱として崇拝を受けたと考えられる。あるいは、宗像三女神は、八幡神の出現する以前の古い神であることから、地主神であったとも考えられている。また、所によっては、比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命や、応神天皇の皇后である仲津姫命とする説もある。さらには、比売神はヒミコでありアマテラスであるという異説も登場している。
宗像三女神とは、天照大神と弟の建速須佐之男命に仲違いがあり、互いの潔白を証明する誓約(うけい)時に、天照大神から誕生した市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)、多紀理比売命(たぎりひめのみこと)、多紀津比売命(たぎつひめのみこと)の三女神をいう。宗像三女神は、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降りしたと伝えられ、宗像氏ら海人集団の崇拝する神で、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られているが、神功皇后の三韓征伐の成功により、八幡三神の一柱として崇拝を受けたと考えられる。あるいは、宗像三女神は、八幡神の出現する以前の古い神であることから、地主神であったとも考えられている。また、所によっては、比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命や、応神天皇の皇后である仲津姫命とする説もある。さらには、比売神はヒミコでありアマテラスであるという異説も登場している。
■ 平知盛の墓
甲宗八幡宮の境内には、拝殿の隣に平知盛(1152〜1185)の墓(向かって左:石塔、右:供養塔)がある。知盛は平清盛の四男で、長兄である重盛の死後、勇猛果敢な武将として、平家一門の運命を背負って生きた姿は、謡曲「船弁慶」や浄瑠璃『義経千本桜』、戯曲『子午線の祀り』などの芸能にも取り上げられている。父清盛亡き後、平家の総帥となった兄宗盛を補佐し、平家一門の統率的存在となり、寿永3年(1184年)所領の彦島に本拠地を置き、古城山山頂に門司城を築いて戦に備え、翌年の壇之浦の戦い(1185年3月24日)では田野浦に兵を集め、満珠・干珠島付近に布陣する源氏を攻めるが、義経戦略の前に武運なく敗れ、平家一門、安徳天皇・二位尼(清盛の継室・時子、宗盛・知盛・徳子の母、徳子は安徳天皇の母)の入水を見届けると「見るべき程の事は見つ(見るべきものはすべて見た)」と乳母子の伊賀平内左衛門家長と鎧二領ずつを着て、手を取組み、ともに潔く入水して一生を終えた。墓は甲宗八幡神社が鎮座する筆立山山中にあったが、昭和28年の大水害による山崩れで拝殿裏まで流れ落ちたため、ここに再祀された。