門司港発祥「第一船溜まり」と「はね橋」
門司港発祥の場所「第一船溜まり」と「はね橋」 日本土木学会最優秀賞受賞
■ 歴史
▼ 門司港発祥の場所「第一船溜まり」の建設
明治22年(1889年)、門司港が石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目を扱う国の特別輸出港に指定されたことで、旧門司税関が長崎税関の出張所として設置され、港湾の整備が開始された。すなわち、同年、門司築港会社が設立され、築港工事が開始された。海面が埋め立てられ、明治23年(1890年)には第一船溜まりができ、第一船溜まりの東側を東海岸、反対側を西海岸といい、白木崎に到る西海岸を埋め立てた。また、第一船溜まりの北側の塩田が埋め立てられ、明治30年(1897年)には、その北側に第二船溜まり(文字ケ関公園隣)が完成し、2つの船溜まりは運河で結ばれた。
また一方では、明治22年(1889年)、門司港が国の特別輸出港に指定されたことを契機に、九州で初めての鉄道会社として明治21年(1888年)に設立された九州鉄道会社は、明治24年(1891年)に、門司−高瀬(現在の玉名駅、熊本県)間の鉄道を開通させ、門司駅(現在の門司港駅)の開業にあわせて、明治24年(1891年)、本社屋(現・九州鉄道記念館)を駅の南側(門司清滝)に建設し、本社を博多の仮本社から現在の場所(門司清滝)に移した。
時代は折しも石炭ブームであり、港と鉄道ができたことで、それまで若松と芦屋に集められていた筑豊の石炭が、折尾を経由して直接門司駅に輸送され、門司港から輸出されるようになった。九州鉄道は、石炭産出地の筑豊と積出港である門司港をつなぐ輸送手段として大きな役割を果たすことになる。そして、明治27〜28年(1894〜95年)の日清戦争を経て、門司港は九州の玄関口として、石炭の積出港として急速な発展を遂げることになる。
開港後の輸出入も順調に伸び、明治34年(1901年)には貿易額で長崎港を上回るようになる。大阪に次いで全国第4位と国内有数の貿易港へ発展したことから、旧門司税関は、明治42年(1909年)11月5日に長崎税関から独立し、日本で7番目の税関として発足した。旧門司税関の初代庁舎は、完成してすぐに焼失したため、明治45年、同じ場所に2代目庁舎が建設され、門司税関庁舎として昭和2年まで使用された。この建物は、明治建築界の三大巨匠の一人とされる著名な建築家・妻木頼黄による指導のもと、建築技師・咲寿栄一によって設計されたもので、妻木が関与した現存する数少ない建築物の一つである。イギリス積みという工法で建設され、壁の厚さが50cm近くあり、赤煉瓦造り瓦葺2階建構造になっている。しかし、税関庁舎として使用された期間は短く、税関が西海岸へ移転することとなったため、3代目の庁舎となる旧合同庁舎が完成する昭和2年(1927年)まで使用された。2代目庁舎は民間へ払い下げられ、事務所ビルとして利用された。晩年は屋根が落ち廃墟状態になるなど解体まで計画されたが、妻木頼黄の監修による建物で現存する希少なものであり、明治時代の赤煉瓦建築として極めて優れていることから、当時の北九州市港湾局が建物を取得。門司港湾地域の観光復興と活性化のため、平成3年(1991年)から4年の歳月をかけて建物の復元作業が実施された。
明治23年に完成した「門司港第一船溜まり」は、まさに「門司港発祥の場所」であるが、その後、石炭や飼料等の港湾荷役に活躍した「艀(はしけ)」の係留場所として、昭和50年ごろまで賑わっていたという。しかし、港湾荷役の近代化により「はしげ」はその役目を終えることになり、艀(はしけ)の係留場所だった第一船溜まりも、その賑わいを失うことになる。現在、船だまりは、親水護岸広場となっており、台風等の時には、小型船の避難場所として利用されている。
北九州市は、昭和55年1月で、谷伍平市長における市制施行満17年を迎え、発足当初に定めた新市の進むべきマスタープランが、49年の「基本構想」、50年度からの「新中期計画」へと引き継がれたが、さらに昭和55年度から59年度までの「新・新中期計画」の中で、港湾部門では、「船舶の大型化、専用船化に対応する埠頭の建設や港湾機能の充実など、国際港湾として、市民生活を支える港づくりを進める」の方針のもと、「港湾機能の整備」の項で、1)港湾荷役の効率化をはかるため、コンテナ基地の建設、上屋、荷役機械の整備を引き続き進める。2)狭隘で老朽化した西海岸埠頭を再開発するための基礎調査に着手する。などが謳われている。とくに、門司区の今後の方向としては、「港湾・貿易機能の充実」の項に、「老朽化した西海岸地区を近代的な臨港地帯として、再開発するための基礎調査に着手する。」と謳われている。しかし、この時期には未だレトロルネサンス的構想は芽吹いておらず、昭和末期の建設省や港湾局の門司港ポートルネッサンス計画の策定に至るまで、「第一船溜まり」における具体的な文化的復元・保存対策は行われていなかった、
昭和63年12月23日、市がまとめた「門司港レトロめぐり・海峡めぐり推進事業」の基本計画は、竹下首相の「ふるさと創生」(昭和62年12月)政策の一環として自治省で創設された「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)に正式承認され、門司港レトロ事業が開始された。
旧税関の復元・保存については、北九州市港湾局が建物を取得し、自治省ならびに文化庁の「ふる特」とは別に、港湾局が独自に運輸省の補助、すなわち、折よく始まった運輸省の歴史的港湾環境創造事業への採択を受けて実施された。門司港湾地域の観光復興と活性化のため、平成3年(1991年)から4年の歳月をかけて建物の復元作業が実施された。平成7年(1995年)3月25日には、門司港活性化のためレトロ事業の一つとして改修され、他の施設とともに「門司港レトロ」がグランドオープン。「旧門司税関」として往時の姿を取り戻した。
一方、港湾局のポートルネッサンス計画では、第一船溜まりは、当初、「埋立て計画」が策定されていた。その中には、1)造成した土地を売却して財源を捻出する、2)国道3号と199号を結ぶバイパスを通す、という2つの目論みが織り込まれていた。
また一方では、明治22年(1889年)、門司港が国の特別輸出港に指定されたことを契機に、九州で初めての鉄道会社として明治21年(1888年)に設立された九州鉄道会社は、明治24年(1891年)に、門司−高瀬(現在の玉名駅、熊本県)間の鉄道を開通させ、門司駅(現在の門司港駅)の開業にあわせて、明治24年(1891年)、本社屋(現・九州鉄道記念館)を駅の南側(門司清滝)に建設し、本社を博多の仮本社から現在の場所(門司清滝)に移した。
時代は折しも石炭ブームであり、港と鉄道ができたことで、それまで若松と芦屋に集められていた筑豊の石炭が、折尾を経由して直接門司駅に輸送され、門司港から輸出されるようになった。九州鉄道は、石炭産出地の筑豊と積出港である門司港をつなぐ輸送手段として大きな役割を果たすことになる。そして、明治27〜28年(1894〜95年)の日清戦争を経て、門司港は九州の玄関口として、石炭の積出港として急速な発展を遂げることになる。
開港後の輸出入も順調に伸び、明治34年(1901年)には貿易額で長崎港を上回るようになる。大阪に次いで全国第4位と国内有数の貿易港へ発展したことから、旧門司税関は、明治42年(1909年)11月5日に長崎税関から独立し、日本で7番目の税関として発足した。旧門司税関の初代庁舎は、完成してすぐに焼失したため、明治45年、同じ場所に2代目庁舎が建設され、門司税関庁舎として昭和2年まで使用された。この建物は、明治建築界の三大巨匠の一人とされる著名な建築家・妻木頼黄による指導のもと、建築技師・咲寿栄一によって設計されたもので、妻木が関与した現存する数少ない建築物の一つである。イギリス積みという工法で建設され、壁の厚さが50cm近くあり、赤煉瓦造り瓦葺2階建構造になっている。しかし、税関庁舎として使用された期間は短く、税関が西海岸へ移転することとなったため、3代目の庁舎となる旧合同庁舎が完成する昭和2年(1927年)まで使用された。2代目庁舎は民間へ払い下げられ、事務所ビルとして利用された。晩年は屋根が落ち廃墟状態になるなど解体まで計画されたが、妻木頼黄の監修による建物で現存する希少なものであり、明治時代の赤煉瓦建築として極めて優れていることから、当時の北九州市港湾局が建物を取得。門司港湾地域の観光復興と活性化のため、平成3年(1991年)から4年の歳月をかけて建物の復元作業が実施された。
明治23年に完成した「門司港第一船溜まり」は、まさに「門司港発祥の場所」であるが、その後、石炭や飼料等の港湾荷役に活躍した「艀(はしけ)」の係留場所として、昭和50年ごろまで賑わっていたという。しかし、港湾荷役の近代化により「はしげ」はその役目を終えることになり、艀(はしけ)の係留場所だった第一船溜まりも、その賑わいを失うことになる。現在、船だまりは、親水護岸広場となっており、台風等の時には、小型船の避難場所として利用されている。
北九州市は、昭和55年1月で、谷伍平市長における市制施行満17年を迎え、発足当初に定めた新市の進むべきマスタープランが、49年の「基本構想」、50年度からの「新中期計画」へと引き継がれたが、さらに昭和55年度から59年度までの「新・新中期計画」の中で、港湾部門では、「船舶の大型化、専用船化に対応する埠頭の建設や港湾機能の充実など、国際港湾として、市民生活を支える港づくりを進める」の方針のもと、「港湾機能の整備」の項で、1)港湾荷役の効率化をはかるため、コンテナ基地の建設、上屋、荷役機械の整備を引き続き進める。2)狭隘で老朽化した西海岸埠頭を再開発するための基礎調査に着手する。などが謳われている。とくに、門司区の今後の方向としては、「港湾・貿易機能の充実」の項に、「老朽化した西海岸地区を近代的な臨港地帯として、再開発するための基礎調査に着手する。」と謳われている。しかし、この時期には未だレトロルネサンス的構想は芽吹いておらず、昭和末期の建設省や港湾局の門司港ポートルネッサンス計画の策定に至るまで、「第一船溜まり」における具体的な文化的復元・保存対策は行われていなかった、
昭和63年12月23日、市がまとめた「門司港レトロめぐり・海峡めぐり推進事業」の基本計画は、竹下首相の「ふるさと創生」(昭和62年12月)政策の一環として自治省で創設された「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)に正式承認され、門司港レトロ事業が開始された。
旧税関の復元・保存については、北九州市港湾局が建物を取得し、自治省ならびに文化庁の「ふる特」とは別に、港湾局が独自に運輸省の補助、すなわち、折よく始まった運輸省の歴史的港湾環境創造事業への採択を受けて実施された。門司港湾地域の観光復興と活性化のため、平成3年(1991年)から4年の歳月をかけて建物の復元作業が実施された。平成7年(1995年)3月25日には、門司港活性化のためレトロ事業の一つとして改修され、他の施設とともに「門司港レトロ」がグランドオープン。「旧門司税関」として往時の姿を取り戻した。
一方、港湾局のポートルネッサンス計画では、第一船溜まりは、当初、「埋立て計画」が策定されていた。その中には、1)造成した土地を売却して財源を捻出する、2)国道3号と199号を結ぶバイパスを通す、という2つの目論みが織り込まれていた。
「第一船溜まり」から見た「旧門司税関」(対岸・赤レンガ建物)
対岸前景左より赤レンガの「旧門司税関」、「大連友好記念館」(旧国際友好記念図書館)、
両建物の奥に高層ビル・門司港レトロハイマート
対岸前景左より赤レンガの「旧門司税関」、「大連友好記念館」(旧国際友好記念図書館)、
両建物の奥に高層ビル・門司港レトロハイマート
第一船溜まりから見たレトロ建造物群
対岸前景中央左より旧三井倶楽部、旧大阪商船ビル、右端は旧門司港ホテル、
後景左より旧三井物産ビル、旧日本郵船ビル
対岸前景中央左より旧三井倶楽部、旧大阪商船ビル、右端は旧門司港ホテル、
後景左より旧三井物産ビル、旧日本郵船ビル
第一船溜まりの出入口に、跳ね橋(ブルーウイング門司)、奥の赤レンガ建物は旧門司港ホテル
門司港「第一船溜まり」と「はね橋」
■ 補修・復元・保存への道
昭和63年12月23日、門司港レトロ事業として市がまとめた「門司港レトロめぐり・海峡めぐり推進事業」の基本計画は、自治省の「ふる特」に正式承認された。
基本計画が打ちだした整備にあたってのイメージは三つあった。「歴史のいきづく大正ロマンのまち」「うるおいと活気に満ちたウォーターフロント」「特色ある文化創造の拠点」の三つである。このイメージを受けて計画された「ふる特」は、@ 歴史的建造物保存活用事業 A レトロめぐり事業 B 海峡めぐり事業 C 観光施設等整備事業の4事業に分けて実施することとし、いずれも自治省の支援が受けられることになった。
基本計画が打ちだした整備にあたってのイメージは三つあった。「歴史のいきづく大正ロマンのまち」「うるおいと活気に満ちたウォーターフロント」「特色ある文化創造の拠点」の三つである。このイメージを受けて計画された「ふる特」は、@ 歴史的建造物保存活用事業 A レトロめぐり事業 B 海峡めぐり事業 C 観光施設等整備事業の4事業に分けて実施することとし、いずれも自治省の支援が受けられることになった。
▼ 当初、「第一船溜まり」は埋立ての対象であった!
自治省に提出した「ふる特」の当初計画では、「旧税関」は港湾局の守備範囲で、企画局が主導する「ふる特」の直接の対象ではなかったので、基本計画では一応、帆船記念館として位置づけていた。また、「第一船溜まり」は埋立ての対象だった。
それがのちに、「旧税関」の復元・保存が、運輸省の「歴史的港湾環境創造事業」に採択され、見違えるくらい立派に復元されて門司港レトロの要的な存在になった。平成7年(1995年)3月25日には、門司港活性化のためレトロ事業の一つとして改修され、他の施設とともに「門司港レトロ」がグランドオープン。「旧門司税関」として往時の姿を取り戻した。
港湾局のポートルネッサンス計画でも、第一船溜まりは、当初、「埋立て計画」が策定されていた。その中には、1)造成した土地を売却して財源を捻出する、2)国道3号と199号を結ぶバイパスを通す、という2つの目論みが織り込まれていた。
それがのちに、「旧税関」の復元・保存が、運輸省の「歴史的港湾環境創造事業」に採択され、見違えるくらい立派に復元されて門司港レトロの要的な存在になった。平成7年(1995年)3月25日には、門司港活性化のためレトロ事業の一つとして改修され、他の施設とともに「門司港レトロ」がグランドオープン。「旧門司税関」として往時の姿を取り戻した。
港湾局のポートルネッサンス計画でも、第一船溜まりは、当初、「埋立て計画」が策定されていた。その中には、1)造成した土地を売却して財源を捻出する、2)国道3号と199号を結ぶバイパスを通す、という2つの目論みが織り込まれていた。
▼ 港湾水面&空間を歴史的建造物と見なし、埋立ての危機から救う
上述のように、自治省に提出した「ふる特」の当初計画では、「第一船溜まり」は埋立ての対象だった。しかし、昭和63年12月が提出期限とされた基本計画づくりを進める中で、見直し論議が高まってきた。
同年9月30日、市は門司港地区開発アドバイザー会議の初会合を開いた。レトロ事業を展開するにあたり、門司を発祥の地とするJR九州、出光興産、間組と、デベロッパーや(株)西洋環境開発など数社の幹部から率直なアドバイスを聞き、参考にするためであった。市側からは、末吉市長以下、関係局長とレトロ事業関係職員が出席した。その場で「第一船溜まりは、なるべく水面を残したほうがよい」「水面自体がバプリックスペースである」「外国では親水空間づくりで海や川を活かす方向にあるのに、これでは時代逆行だ」などと、民間アドバイザーから埋立て計画を批判する意見が繰り返し述べられた。理立てを既定方針としていた港湾局は防戦に追われた。11月8日には、第2回会合があり、西洋環境開発が提示したプランについて意見交換されたが、この日も第一船溜まりの水面保存が論議の焦点になり、結局、埋立てをやめて水面を残すことで意思統一された。
港湾局の西海岸地区整備計画は、西海岸岸壁と第―船溜まりを埋め立てて新たに臨海道路を敷設し、国道3号と199号を結ぶことを主眼とするものであった。すでに、昭和54年(1979年)に運輸大臣が認可した港湾計画に基づいて事業を進めてきており、大臣認可を受けた港湾計画をここに至って改訂せざるを得ないというのは、港湾局にとっては苦渋をなめる思いだったに違いない。末吉市長は、会合のあと、自ら第一船溜まりを視察して、港湾局の反論も「船溜まり水面はぜひ残すべきだ」というアドバイザー会議の結論も考慮した上で、水面保存を決断し、埋立ての既定方針の転換を指示した。
こうして、従来の港湾計画は変更され、水面はそっくり残して親水性が保たれた。バイパスは清滝・西海岸線を建設してレトロ地区内を通過する車を減らすようにした。船溜まり入口には、はね橋(ブルーウイング門司)を架けて観光ポイントを増やした。すなわち、西海岸地区再開発事業の一環として、門司第一船溜まり周辺の回遊性を高めるために、門司港の新浜地区と西海岸地区の間に歩行者用の可動橋(はね橋)を設けた。このはね橋は、運輸省の港湾改修事業により実施された。
基本計画になかった門司港ホテルが、第一船だまりの北側に実現し、門司港レトロ事業の仕上げになった。事業主体は民間企業と市の出資による第三セクターである。地元がかねてから待望していた本格ホテルの完成で、観光客の受け入れ態勢も整った。
末吉市長の判断は間違っていなかった。門司港レトロ地区環境整備事業のデザイナーとして委嘱された(株)アプル総合計画事務所代表の中野恒明氏も「第一船溜まり」は絶対に残さなければいけないと力説した一人だが、後述のように、日本土木学会は、平成13年度に創設した景観・デザイン賞の最優秀賞に、「門司港レトロ地区環境整備事業」を選定した。その授賞理由3点の内の1つとして、「B 港湾水面そのものを歴史的建造物としてとらえ、第一船だまりを埋立ての危機から救い、旧門司税関との関係性を確保した。はね橋を設置して親しめる歩行者空間を創造した。」を挙げ、最優秀賞の中でも最も高く評価したとされる。すなわち、水面を生かしたのが高く評価されたのである。
日本土木学会は、平成13年度に創設した景観・デザイン賞の最優秀賞に、「門司港レトロ地区環境整備」を選定した。受賞者代表として中野氏が平成14年1月、表彰を受けた。
景観・デザイン賞は街路、広場、港湾、空港、橋梁など土木空間と構造物を対象に、周囲との関連のもたせ方や機能を美的にどう解決したかという観点から審査し、全圏64点の作品から最優秀賞に5点が選ばれた。
選考委員会は、「門司港レトロ地区環境整備事業」の授賞理由として、@ 門司の歴史遺産を守りながら、10年にわたる計画と質の高いデザインを集約して港湾再開発に取り組み、活気ある場所に変貌させた。A 行政、市民、設計者の理想的な連携で、さまざまな困難を乗り越えて達成した。B 港湾水面そのものを歴史的建造物としてとらえ、第一船溜まりを埋立ての危機から救い、旧門司税関との関係性を確保した。はね橋を設置して親しめる歩行者空間を創造した。の3点を挙げ、最優秀賞の中でも最も高く評価したとされる。
同年9月30日、市は門司港地区開発アドバイザー会議の初会合を開いた。レトロ事業を展開するにあたり、門司を発祥の地とするJR九州、出光興産、間組と、デベロッパーや(株)西洋環境開発など数社の幹部から率直なアドバイスを聞き、参考にするためであった。市側からは、末吉市長以下、関係局長とレトロ事業関係職員が出席した。その場で「第一船溜まりは、なるべく水面を残したほうがよい」「水面自体がバプリックスペースである」「外国では親水空間づくりで海や川を活かす方向にあるのに、これでは時代逆行だ」などと、民間アドバイザーから埋立て計画を批判する意見が繰り返し述べられた。理立てを既定方針としていた港湾局は防戦に追われた。11月8日には、第2回会合があり、西洋環境開発が提示したプランについて意見交換されたが、この日も第一船溜まりの水面保存が論議の焦点になり、結局、埋立てをやめて水面を残すことで意思統一された。
港湾局の西海岸地区整備計画は、西海岸岸壁と第―船溜まりを埋め立てて新たに臨海道路を敷設し、国道3号と199号を結ぶことを主眼とするものであった。すでに、昭和54年(1979年)に運輸大臣が認可した港湾計画に基づいて事業を進めてきており、大臣認可を受けた港湾計画をここに至って改訂せざるを得ないというのは、港湾局にとっては苦渋をなめる思いだったに違いない。末吉市長は、会合のあと、自ら第一船溜まりを視察して、港湾局の反論も「船溜まり水面はぜひ残すべきだ」というアドバイザー会議の結論も考慮した上で、水面保存を決断し、埋立ての既定方針の転換を指示した。
こうして、従来の港湾計画は変更され、水面はそっくり残して親水性が保たれた。バイパスは清滝・西海岸線を建設してレトロ地区内を通過する車を減らすようにした。船溜まり入口には、はね橋(ブルーウイング門司)を架けて観光ポイントを増やした。すなわち、西海岸地区再開発事業の一環として、門司第一船溜まり周辺の回遊性を高めるために、門司港の新浜地区と西海岸地区の間に歩行者用の可動橋(はね橋)を設けた。このはね橋は、運輸省の港湾改修事業により実施された。
基本計画になかった門司港ホテルが、第一船だまりの北側に実現し、門司港レトロ事業の仕上げになった。事業主体は民間企業と市の出資による第三セクターである。地元がかねてから待望していた本格ホテルの完成で、観光客の受け入れ態勢も整った。
末吉市長の判断は間違っていなかった。門司港レトロ地区環境整備事業のデザイナーとして委嘱された(株)アプル総合計画事務所代表の中野恒明氏も「第一船溜まり」は絶対に残さなければいけないと力説した一人だが、後述のように、日本土木学会は、平成13年度に創設した景観・デザイン賞の最優秀賞に、「門司港レトロ地区環境整備事業」を選定した。その授賞理由3点の内の1つとして、「B 港湾水面そのものを歴史的建造物としてとらえ、第一船だまりを埋立ての危機から救い、旧門司税関との関係性を確保した。はね橋を設置して親しめる歩行者空間を創造した。」を挙げ、最優秀賞の中でも最も高く評価したとされる。すなわち、水面を生かしたのが高く評価されたのである。
日本土木学会は、平成13年度に創設した景観・デザイン賞の最優秀賞に、「門司港レトロ地区環境整備」を選定した。受賞者代表として中野氏が平成14年1月、表彰を受けた。
景観・デザイン賞は街路、広場、港湾、空港、橋梁など土木空間と構造物を対象に、周囲との関連のもたせ方や機能を美的にどう解決したかという観点から審査し、全圏64点の作品から最優秀賞に5点が選ばれた。
選考委員会は、「門司港レトロ地区環境整備事業」の授賞理由として、@ 門司の歴史遺産を守りながら、10年にわたる計画と質の高いデザインを集約して港湾再開発に取り組み、活気ある場所に変貌させた。A 行政、市民、設計者の理想的な連携で、さまざまな困難を乗り越えて達成した。B 港湾水面そのものを歴史的建造物としてとらえ、第一船溜まりを埋立ての危機から救い、旧門司税関との関係性を確保した。はね橋を設置して親しめる歩行者空間を創造した。の3点を挙げ、最優秀賞の中でも最も高く評価したとされる。
▼ 施設内容
「第一船だまり」
現在は、商業施設が集まった観光拠点として,また親水護岸広場として多くの観光客や市民で賑わっている。なお、現在も台風の時には,小型船舶の避難場所として利用されている。
「ブルーウイング門司」
門司第一船溜まりの入口に、跳ね橋(ブルーウイング門司)がある。日本で唯一の歩行者専用はね橋である。小型の船舶であれば、橋が下りた状態でも下を通って海に出て行ける。午前2回(10:00・11:00)、午後4回(13:00・14:00・15:00・16:00)、1日計6回、橋が音楽にあわせて跳ね上がる。全長24mの親橋と14mの子橋が水面に対して60度の角度まで上がり、開くまでに要する時間は4分、開いている時間は20分、閉まるのには8分かかる。そのため橋が開き始めてから完全に閉まるまでを眺めるのには30分ほどの時間が必要である。跳ね橋の親橋と子橋の上がり方は、別々の方式が使用され、親橋はワイヤーロープウィンチ式、子橋は油圧シリンダー押し上げ式である。完成:平成5年(1993年)10月。
この橋は“恋人の聖地”としても知られるスポットで、カップルで渡ると幸せになれるとか。ライトアップされた橋の上からは、関門海峡と関門大橋の姿や、同じくライトアップされた旧門司税関のレンガ造りの建物などが見られる。橋そばの高層ビルは、黒川紀章氏設計の「門司港レトロハイマート」。超高層分譲住宅で、最上階である31階にはレトロ展望室がある。
現在は、商業施設が集まった観光拠点として,また親水護岸広場として多くの観光客や市民で賑わっている。なお、現在も台風の時には,小型船舶の避難場所として利用されている。
「ブルーウイング門司」
門司第一船溜まりの入口に、跳ね橋(ブルーウイング門司)がある。日本で唯一の歩行者専用はね橋である。小型の船舶であれば、橋が下りた状態でも下を通って海に出て行ける。午前2回(10:00・11:00)、午後4回(13:00・14:00・15:00・16:00)、1日計6回、橋が音楽にあわせて跳ね上がる。全長24mの親橋と14mの子橋が水面に対して60度の角度まで上がり、開くまでに要する時間は4分、開いている時間は20分、閉まるのには8分かかる。そのため橋が開き始めてから完全に閉まるまでを眺めるのには30分ほどの時間が必要である。跳ね橋の親橋と子橋の上がり方は、別々の方式が使用され、親橋はワイヤーロープウィンチ式、子橋は油圧シリンダー押し上げ式である。完成:平成5年(1993年)10月。
この橋は“恋人の聖地”としても知られるスポットで、カップルで渡ると幸せになれるとか。ライトアップされた橋の上からは、関門海峡と関門大橋の姿や、同じくライトアップされた旧門司税関のレンガ造りの建物などが見られる。橋そばの高層ビルは、黒川紀章氏設計の「門司港レトロハイマート」。超高層分譲住宅で、最上階である31階にはレトロ展望室がある。
<資料:中学同窓・稲佐重正君提供>
<写真:中学同窓・田中文君撮影>
<写真:中学同窓・田中文君撮影>
参考資料:1.ルネッサンスの知恵 第3号 門司港レトロヘの道すじ 財団法人北九州都市協会(平成14年2月)、2.北九州市新・新中期計画 北九州市(昭和55年4月)、3.ポート門司 21 北九州市職員研修所(昭和57年)ほかあ