旧門司税関1号上屋 国際ターミナル(旧大連航路上屋)|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

レトロ門司」復興への道

旧門司税関1号上屋 国際ターミナル(旧大連航路上屋)

旧門司税関1号上屋 国際ターミナル(旧大連航路上屋) 近代化遺産

■ 歴史
旧大連航路上屋(通称)は、北九州市門司区西海岸1-3-5にあり、昭和4年(1929年)に「門司税関1号上屋」として西海岸に建設され、門司港の国際ターミナルとして使われた鉄筋コンクリート造2階建ての建物である。現在、門司港の西海岸地区には1号〜10号上屋まで10棟の建物が並んでいるが、その1号上屋は戦前には中国・大連や欧米など月約180便の国際定期航路の旅客ターミナルとして活用された門司港の歴史を伝える建築(近代化遺産)である。

昭和2年(1927年)に建設された門司港湾合同庁舎(旧門司税関の3代目の庁舎)に隣接し、延べ床面積は4766m2。設計は、国会議事堂や横浜税関などを手がけた著名な官庁建築家・大蔵省営繕管財局工務部長・大熊喜邦とされ、出入り口脇の監視室(左窓口に「階下旅具検査場」右窓口に「階上待合室」とある)が半円形に飛び出すなど、幾何学的形態を取り入れたアール・デコ様式のデザインが特徴。戦前の大蔵省営繕管財局のデータによると、昭和11年(1936年)に竣工する国会議事堂の建設の傍ら、設計に関与したとのこと。いかに門司の庁舎建築が、重要なものだったかが伺える。1階には上屋や収容貨物置場、保管旅具置き場、貨物事務室、監視係事務室、旅具検査場、旅客溜など、2階には一般待合室や特別待合室、携帯品検査場、郵便電信係室、予備室などがあり、正面ファサードにはチケット売り場と思われるブースが設けられていた。
▼ 門司港の築港整備と門司税関庁舎の建設
明治20年代当時の門司港地区は、遠浅の砂浜部分は塩田として利用され、わずかにある磯や平地部分が港湾として利用されていた。現在規模の門司港はまだ開港されておらず、「郵船寄港制度」による郵船限定の貨客取り扱い港に過ぎなかった。明治22年(1889年)、門司港が石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目を扱う国の特別輸出港に指定されたことで、旧門司税関が長崎税関の出張所として設置され、港湾の整備が開始された。すなわち、同年、門司築港会社が設立され、築港工事が開始された。海面が埋め立てられ、明治23年(1890年)には第一船溜まりができ、第一船溜まりの東側を東海岸、反対側を西海岸といい、白木崎に到る西海岸を埋め立てた。また、第一船溜まりの北側の塩田が埋め立てられ、明治30年(1897年)には、その北側に第二船溜まり(文字ケ関公園隣)が完成し、2つの船溜まりは運河で結ばれた。明治23年に完成した「門司港第一船溜まり」は、まさに「門司港発祥の場所」であるが、その後、石炭や飼料等の港湾荷役に活躍した「(はしけ)」の係留場所として、昭和50年(1975年)ごろまで賑わっていたという。

旧門司税関は、明治22年(1889年)、門司港が石炭、米、麦、麦粉、硫黄を扱う国の特別輸出港に指定されたことで、長崎税関の出張所として設置された。開港後の輸出入も順調に伸び、明治34(1901)年には貿易額で長崎港を上回るようになる。大阪に次いで全国第4位と国内有数の貿易港へ発展したことから、明治42年(1909年)11月5日に長崎税関から独立し、日本で7番目の税関として発足した。旧門司税関の初代庁舎は、完成してすぐに焼失したため、明治45年、同じ場所に2代目庁舎が建設され、門司税関庁舎として昭和2年まで使用された。しかし、港の発展とともに、2代目庁舎(旧門司税関)が建つ第一船溜まりを中心とした施設では手狭となり、大正8年(1919年)から西海岸に新たなる埠頭の建設を開始。昭和7年(1932年)には1万トン級の貨客船が7隻停泊できる巨大な埠頭が完成した。それに伴い、税関は第一船溜まりから西海岸へ移転ことになり、昭和2年(1927年)に鉄筋コンクリート造5階建ての3代目の庁舎となる旧合同庁舎が完成した。旧合同庁舎に隣接する「旧大連航路上屋」は、それに次いでの建設で、昭和4年(1929年)に竣工した。したがって、2代目庁舎である旧門司税関は、税関庁舎として使用された期間は短く、3代目の庁舎となる旧合同庁舎が完成する昭和2年(1927年)までであり、その後、2代目庁舎(旧門司税関)は民間へ払い下げられ、事務所ビルとして利用された。

明治中期の門司港は、大手商社や金融資本の進出により、明治28年(1895年)の輸出額が全国3位となり、さらに大正5年(1916年)には全国一の大港湾都市となり、欧米や南米、オーストラリア、中国との航路が開かれていた。とくに、当時の門司港は、朝鮮や台湾、大連や中国大陸への航路の一大拠点となり、客船だけでも、門司港からは1ヶ月の間に台湾、中国、インド、欧州へ60隻もの客船が出航し、大阪商船ビル日本郵船ビルもその拠点として、外国への渡航客で賑わい、昭和10年(1935年)ごろが最盛期であったという。
▼ 旧門司税関1号上屋・国際ターミナル(旧大連航路上屋)の建設
上述の如く、港の発展とともに、明治45年建設の2代目庁舎(旧門司税関)が建つ第一船溜まりが手狭となったため、大正8年(1919年)から西海岸に新たなる埠頭の建設が開始される。それに伴い、税関も第一船溜まりから西海岸へ移転ことになり、昭和2年(1927年)に鉄筋コンクリート造5階建ての3代目の庁舎となる旧合同庁舎が完成した。それに次いで、昭和4年(1929年)、門司税関1号上屋として国際ターミナル(旧大連航路上屋)が建設された。
1階には上屋や収容貨物置場、保管旅具置き場、貨物事務室、監視係事務室、旅具検査場、旅客溜など、2階には一般待合室や特別待合室、携帯品検査場、郵便電信係室、予備室などがあり、正面ファサードにはチケット売り場と思われるブースが設けられていた。そして、旧大連航路上屋の片側が埠頭になっており、船が上屋に接岸できる仕組みになっていた。2階の待合室空間は、回廊状の外部空間へと続き、回廊にはゲート状の形跡があることから、船に乗り込む桟橋と直結していたことが分かる。
船に乗る乗客たちは、1階で手荷物検査などの出国検査を済ませ、アール・デコ風の親柱のある大階段を上り、2階の天井の高い待合室で船の出発を待っていたという。ちなみに、この建物が「大連航路上屋」あるいは「大連航路待合室」と呼ばれるのは、 中国(旧満州)の大連へ行く便が多かったことに由来する通称であるという。
その後、大連行などの大陸航路は盛況を極め、輸送量が増加したため、税関の上屋は、昭和13年(1938年)に、隣にもう一棟が増築された。そして、昭和4年(1929年)の建設から第二次世界大戦の終戦で航路が断絶するまで、日本の玄関口として重要な役割を果たしてきた。大戦の終戦後は、昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が勃発した時に米軍から接収され、朝鮮戦争・終戦後の昭和47年(1972年)に返還された。しかし、外国航路の待合室としての機能はすでになく、昭和51年(1976年)からは門司税関仮庁舎(門司税関一号上屋)として利用されたが、昭和54年(1979年)に、門司港湾合同庁舎が完成したため、仮庁舎は撤去され、以降は公共倉庫として利用されていた。長年の経年変化により、近年では老朽化が顕著な状態になっていた。

旧門司税関1号上屋 国際ターミナル(旧大連航路上屋)

旧門司税関1号上屋 国際ターミナル(旧大連航路上屋)

完成した「旧門司税関1号上屋 国際ターミナル(旧大連航路上屋)」メインエントランス

旧門司税関1号上屋 国際ターミナル(旧大連航路上屋)

旧門司税関1号上屋 国際ターミナル(旧大連航路上屋)
出入り口脇の監視室(左窓口に「階下旅具検査場」右窓口に「階上待合室」とある)が半円形に飛び出すなど、幾何学的形態を取り入れたアール・デコ様式のデザインが特徴
■ 補修・保存への道
別稿『「レトロ門司」復興への道』で記述したように、門司港レトロの復興は、昭和62年12月、竹下首相の「ふるさと創生」政策の一環として自治省で創設された「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)への申請、そして昭和63年6月24日の採択に始まる。

当時、門司港地区にある門鉄会館(旧門司三井倶楽部)、商船三井ビル(旧大阪商船ビル)、旧門司税関などの歴史的建造物はどれもが所有者の都合で売却処分取り壊しの危機に瀕していた。これら歴史的建造物の解体・消滅の危機を懸念する市民からは、末吉市長や市議会議長宛の「門鉄会館の管理、保存について」の陳情書や住民2385人の署名による請願書、さらには市民団体「門司まちづくり21世紀の会」による「門司港・西海岸地区整備構想」や「門司港・和布刈地区の整備」の提案要請などが提出され、門鉄会館を始めとする歴史的建造物の保存をめぐる動きが活発になって来た。しかし、市は財政が苦しく、保存に乗り出すだけの有効な対応策も見出せず、窮地に陥っていた。

そんな最中、天の啓示のように、竹下首相の「ふるさと創生」政策の一環として自治省が「ふるさとづくり特別事業」(「ふる特」)を創設すると公表した。昭和62年12月、藁をもつかむ思いで申請し、そして昭和63年6月24日に採択が決まった。すなわち、自治省門司港レトロ事業を「ふる特」に採択したと発表してから半年後の昭和63年12月23日、市がまとめた「門司港レトロめぐり・海峡めぐり推進事業」の基本計画が、自治省の「ふる特」に正式に承認された。「門司港レトロの復興」すなわち「門鉄会館の移築を含む門司港レトロ計画」は、「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)への採択によって実現可能となり、門司港地区の歴史的建造物復元保存が、門司港レトロ事業の中に包含することで可能になった。もし「ふる特」に採択されなかったならば、旧門司三井倶楽部(門鉄会館)ひいては旧三井物産門司支店(旧JR九州本社ビル)(通称は旧門鉄ビル)の保存はおろか、門司港レトロも開始できなかったかもしれない。

門司港地区の歴史的建造物の中で、旧門司税関(2代目庁舎)は、もともと港湾局の守備範囲であって、企画局が主導する「ふる特」の直接の対象ではなかったため、(基本計画では一応帆船記念館として位置づけ、門司港レトロ事業(ポートルネッサンスと呼称)の一環として復元を計画していたが)、その復元は自治省ならびに文化庁の「ふる特」とは別に、港湾局が独自に運輸省の補助を受けて実施した。
すなわち、旧門司税関(2代目庁舎)の復元・保存は、折よく始まった運輸省の歴史的港湾環境創造事業に採択され、見る影もなく荒廃し、取り壊し寸前だった旧門司税関が、修復工事に丸2年を要して、最終的には12億円の経費を要したものの、平成6年12月9日に峻工し、平成7年(1995年)3月25日には、門司港レトロ事業(ポートルネッサンスと呼称)の要として、他の施設と共にグランドオープンした。また、平成19年(2007年)11月30日には、近代化産業遺産(31北九州炭鉱 - 筑豊炭田からの石炭輸送・貿易関連遺産)に認定された。

同様に、旧門司税関1号上屋 国際ターミナル(旧大連航路上屋)についても、門司港レトロ事業の一環として、アールデコ様式が目を引く名物施設をこのまま朽ち果てさせては惜しいと、北九州市買い取って観光施設に再利用することを決めた。平成18年(2006年)度から平成25年(2013年)度にかけて、老朽化が深刻な状態になっていた旧大連航路上屋整備事業計画が実施された。すなわち、旧大連航路上屋(延べ面積4,766u)の復元・保存工事は、往時の国際貿易港・門司の繁栄を象徴する近代化遺産でもあることから、1)出来るだけ往時の状態に復元・補修・保存し活用するための工事、2)建築基準法に準拠した耐震補強のための改修工事、3)現存する係船柱敷石を活用して往時の岸壁のイメージを復元するための上屋周辺の外構工事などを事業目標とし、向かい側にある平成15年(2003年)4月開設の門司港レトロ地区の中核・屋内型観光施設(博物館)「海峡ドラマシップ」と連携させながら、門司港西海岸地区の往年の華やかさや賑わいを創り出すために、総事業費12億円をかけて実施された。その結果、7年の歳月をかけて、旧大連航路上屋の往時をしのぶ空間構成意匠が再現され、平成25年(2013年)7月19日には市制施行50周年記念事業の一環として、多目的施設にリニューアルされた姿がグランドオープンされた。
■ 館内施設
門司税関1号上屋・国際ターミナル(旧大連航路上屋)の幾何学的形態を取り入れたアールデコ様式のデザインは、かつての門司港が、常に先進の感覚を持ち、世界の流行の最先端を走っていた港町であったかを示す証であり、90年を経た現在においても通用するモダンな雰囲気を醸し出している。この「旧大連航路上屋」が、建築基準法に準拠した耐震補強をされ、往時の岸壁のイメージを復原すべく上屋周辺が整備され、約7年の歳月をかけて建設当時の姿に補修・保存され、市民の交流の場、憩いの場、イベントや文化・芸術の発表の場として活用できる多目的施設として甦った。すなわち、市制施行50周年記念事業の一環として行われた改修工事によって、1階はエントランスホール(フロア面積約400m2)、多目的スパース(同800m2)、2階は旅客ターミナル時代の雰囲気を残した休憩室や芝生広場、関門海峡が見渡せる120mの回廊などで構成されている。
平成25年(2013年)7月19日には、市制50周年記念事業の一環として、改修された旧大連航路上屋のオープニングイベントがあり、日本最大の豪華客船飛鳥Uの寄港などがあった。

施設の活用内容
エントランスホールでは施設全体のインフォメーション、港や客船を中心とした海事資料の展示、大連と北九州との関わりなどを紹介。展示室A・Bでは門司港出身の松永武氏が昭和20年代以降に収集した1万2千点を超える貴重な映画関連の資料を公開展示。多目的室A−1では会議・イベント・作品展示などにご利用。多目的室A−2では楽器・ダンスの練習などにご利用。多目的室Bでは音楽・演劇の練習、文化活動の一環としての作品発表、講演会などにご利用。多目的スペースでは市民によるイベント会場として活用。また修学旅行などの大人数での休憩にも利用可。ホールでは往時の待合室の雰囲気を再現した空間で、休憩室として利用、映画の上映、コンサートなどコミュニティスペースとして活用。休憩室では飲物の自動販売機コーナーがある憩いのスペース。回廊では海岸を眺望し往時の歴史を振り返る展望ゾーンとして利用。
<資料:中学同窓・稲佐重正君提供>
<写真:中学同窓・田中文君撮影>
参考資料:1.ルネッサンスの知恵 第3号 門司港レトロヘの道すじ 財団法人北九州都市協会(平成14年2月)、2.北九州市新・新中期計画 北九州市(昭和55年4月)、3.ポート門司 21 北九州市職員研修所(昭和57年)ほか

PageTop