旧門司港ホテル(プレミアホテル門司港)
旧門司港ホテル(プレミアホテル門司港)
■ 歴史
▼ 門司港レトロ観光の拠点となるホテルの建設
旧門司港ホテル(プレミアホテル門司港)は、北九州市門司区港町9番11号にあり、門司港レトロ地区の観光の拠点として建設されたホテル及びオフィスビルである。門司港には戦前の全盛時代にも本格的なホテルはなく、門司港レトロ計画を完成させるためには、観光の拠点としてのホテル建設が必須であった。ホテルの建設計画は、用地管理者である北九州市港湾局が中心になって進めたが、参入希望の業者と港湾局との折り合いが着かず、計画策定の段階で難航した。平成6年(1994年)10月に計画発表にこぎつけ、翌7年(1995年)11月、第三セクター「門司港開発株式会社」が創立されて、平成8年(1996年)4月ホテル建設に着手、平成10年(1998年)3月、開業されるに至った。
門司港レトロ街の中心に建つランドマーク的存在のデザイナーズホテルで、構造形式は鉄筋コンクリート。地上9階建ての鉄骨鉄筋コンクリート造である。設計者はイタリアの建築家アルド・ロッシで 、氏は「シャークをイメージしてデザインした」と述べている。インテリアデザインは内田繁。施工:フジタ、若築建設 、建築主:門司港開発(株)、敷地面積:5,540 m²、建築面積:3,942 m²(建蔽率71%)、延床面積:17,690 m²(容積率319%)。港湾・船舶関連企業が入居するオフィス(門司港レトロスクエアセンタービル)が併設されている。
管理運営は、開業当初より平成25年(2013年)9月まではジャスマックに委託されていたが、契約切れのため撤退。その後、門司港開発(株)による自主運営となっていたが、平成27年(2015年)1月にケン・コーポレーション(プレミアホテルグループ)がホテルを買収し、現在はケン不動産リース子会社のプレミア門司港ホテルマネジメントが運営。平成28年(2016年)10月に「プレミアホテル門司港」にリブランドされ、現在に至っている。リブランド後、外国人観光客の増加に伴い、客室不足となったため、平成29年(2017年)10月からオフィス部分を改装し、平成30年(2018年)2月に新客室28室が増設され、現在総客室数は162室となっている。
門司港レトロ街の中心に建つランドマーク的存在のデザイナーズホテルで、構造形式は鉄筋コンクリート。地上9階建ての鉄骨鉄筋コンクリート造である。設計者はイタリアの建築家アルド・ロッシで 、氏は「シャークをイメージしてデザインした」と述べている。インテリアデザインは内田繁。施工:フジタ、若築建設 、建築主:門司港開発(株)、敷地面積:5,540 m²、建築面積:3,942 m²(建蔽率71%)、延床面積:17,690 m²(容積率319%)。港湾・船舶関連企業が入居するオフィス(門司港レトロスクエアセンタービル)が併設されている。
管理運営は、開業当初より平成25年(2013年)9月まではジャスマックに委託されていたが、契約切れのため撤退。その後、門司港開発(株)による自主運営となっていたが、平成27年(2015年)1月にケン・コーポレーション(プレミアホテルグループ)がホテルを買収し、現在はケン不動産リース子会社のプレミア門司港ホテルマネジメントが運営。平成28年(2016年)10月に「プレミアホテル門司港」にリブランドされ、現在に至っている。リブランド後、外国人観光客の増加に伴い、客室不足となったため、平成29年(2017年)10月からオフィス部分を改装し、平成30年(2018年)2月に新客室28室が増設され、現在総客室数は162室となっている。
■ ホテル建設への道
▼ 建設計画策定の段階で難航
門司港には、戦前の殷賑を極めた全盛時代でも、旅館ばかりで本格的なホテルはなく、門司港レトロ事業によって、初めて、平成10年(1998年)3月、港湾局管理の市有地に待望のホテルが完成した。門司港レトロ計画を完成させるためには、観光の拠点としてのホテル建設が必須であったが、それに至るまでの道のりは平坦ではなかった。
門司港レトロの復興は、昭和62年(1987年)12月、竹下首相の「ふるさと創生」政策の一環として自治省で創設された「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)への申請、そして昭和63年(1988年)6月24日の採択に始まる。
門司港レトロ事業の開始とともに、市は、まずレトロ構成建造物の候補・旧大阪商船ビルを所有する商船三井にホテル事業の展開を働きかけた。旧大阪商船ビルを市が買収する代わりに、その代替地として、レトロ計画ではC地区(港町8番)とされる第一船だまり周辺の国鉄清算事業団所有地と日本通運所有地を指定し、そこでホテル事業を展開してはどうかと勧めた。ちなみに、このC地区は、のちに市が買い取って港湾局が管理することになり、ホテルの建設計画は、北九州市港湾局が中心になって進めることになる。
当初、商船三井はホテル経営に意欲を示し、コンサルタント会社に調査を依頼したが、「一流ホテルを建てても採算ラインに乗らない」という分析結果から、市としては一流でなくてもよいのだが、プランドイメージを大事にする商船三井としては一流にこだわり、ホテル進出を断念することになる。そして、裏腹に市としては旧大阪商船ビルを金銭で取得する道が開かれたのである。
商船三井の撤退と同時に、他社からの参入希望が相次いだ。まず、港湾局の誘いで、平成4年(1992年)6月、伊藤忠と竹中工務店がホテル計画案を提案した。しかし、これは具体的に煮詰めたものではなかった。同年(1992年)7月には、本戸室長の働きかけで、東京の不動産・ホテル企業ジャスマックと、地元の葬祭・ホテル企業サンレーが、ホテル計画を相次いで提案した。当時、ジャスマックは小倉北区馬借地区の再開発に手を挙げていたが、門司港の現地を視察した葛和満博社長は、一目見て気に入り、「ぜひ当方でやりたい。これはイタリアのデザイナーのイメージにぴったりだ」と、乗り気を示した。同社は、平成元年、福岡市にイタリア建築家アルド・ロッシ氏設計のホテル「イル・パラッツォ」を開業して成功を収めていた。作品は、斬新なデザインで、いくつもの建築賞を受賞し、同社のイメージアップにも貢献していることから、門司港にもロッシ氏設計のホテルを、と思いを馳せたのである。
北九州市はジャスマックに対して、馬借と門司港の両地区を同時に請け負うことを要求したが、さすがの葛和社長も、両地区を同時に請け負うには資金的に無理があるということで、結局、馬借の方は東京第一ホテルの進出に委ね、ジャスマックは門司港一本に絞って、平成4年(1992年)7月、ホテル計画を提案した。しかし、ジャスマック基幹に不安を感じた末吉市長は、有力企業を中核とするよう、港湾局に指示した。これにより港湾局は運輸省人脈を介して若築建設を紹介され、ジャスマック、若築建設、フジタ3社によるジャスマックグループとして、同年(1992年)9月、ホテルを中心とするC、D両地区の開発計画を再提案した。
一方、ジャスマックと同時期にホテル計画を提案していたサンレーも、伊藤忠、竹中工務店とグループを組んで同年(1992年)10月に開発計画を再提案した。提案内容はジャスマックグループの方が格段に優れていたが、福岡市内でラブホテル街を経営しているジャスマックのイメージを懸念して、港湾局内部には同社に対する強い嫌悪感があった。この港湾局のジャスマックに対する強い嫌悪による障碍が1年近くも続き、企画局のレトロ推進室による事業の進捗にも影響を与えた。このことで、企画局長と港湾局長が、助役の前で大議論を展開したこともあったという。
港湾局は感情的にジャスマックを嫌いながらも、計画案の内容が良いだけに両グループのいずれを採択するか決め兼ねていた。そこで、市は平成5年(1993年)5月、開発に関する条件として6項目の必須条件を提示して再度、詳細な提案をしてもらうことにした。
これに対して、サンレーグループは、同年(1993年)9月、「条件の変更が大き過ぎて、必須条件での提案は無理」として撤退を決めた。この時点で、ジャスマックグループ単独となり、平成5年(1993年)11月15日ジャスマックに内定した。
門司港レトロの復興は、昭和62年(1987年)12月、竹下首相の「ふるさと創生」政策の一環として自治省で創設された「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)への申請、そして昭和63年(1988年)6月24日の採択に始まる。
門司港レトロ事業の開始とともに、市は、まずレトロ構成建造物の候補・旧大阪商船ビルを所有する商船三井にホテル事業の展開を働きかけた。旧大阪商船ビルを市が買収する代わりに、その代替地として、レトロ計画ではC地区(港町8番)とされる第一船だまり周辺の国鉄清算事業団所有地と日本通運所有地を指定し、そこでホテル事業を展開してはどうかと勧めた。ちなみに、このC地区は、のちに市が買い取って港湾局が管理することになり、ホテルの建設計画は、北九州市港湾局が中心になって進めることになる。
当初、商船三井はホテル経営に意欲を示し、コンサルタント会社に調査を依頼したが、「一流ホテルを建てても採算ラインに乗らない」という分析結果から、市としては一流でなくてもよいのだが、プランドイメージを大事にする商船三井としては一流にこだわり、ホテル進出を断念することになる。そして、裏腹に市としては旧大阪商船ビルを金銭で取得する道が開かれたのである。
商船三井の撤退と同時に、他社からの参入希望が相次いだ。まず、港湾局の誘いで、平成4年(1992年)6月、伊藤忠と竹中工務店がホテル計画案を提案した。しかし、これは具体的に煮詰めたものではなかった。同年(1992年)7月には、本戸室長の働きかけで、東京の不動産・ホテル企業ジャスマックと、地元の葬祭・ホテル企業サンレーが、ホテル計画を相次いで提案した。当時、ジャスマックは小倉北区馬借地区の再開発に手を挙げていたが、門司港の現地を視察した葛和満博社長は、一目見て気に入り、「ぜひ当方でやりたい。これはイタリアのデザイナーのイメージにぴったりだ」と、乗り気を示した。同社は、平成元年、福岡市にイタリア建築家アルド・ロッシ氏設計のホテル「イル・パラッツォ」を開業して成功を収めていた。作品は、斬新なデザインで、いくつもの建築賞を受賞し、同社のイメージアップにも貢献していることから、門司港にもロッシ氏設計のホテルを、と思いを馳せたのである。
北九州市はジャスマックに対して、馬借と門司港の両地区を同時に請け負うことを要求したが、さすがの葛和社長も、両地区を同時に請け負うには資金的に無理があるということで、結局、馬借の方は東京第一ホテルの進出に委ね、ジャスマックは門司港一本に絞って、平成4年(1992年)7月、ホテル計画を提案した。しかし、ジャスマック基幹に不安を感じた末吉市長は、有力企業を中核とするよう、港湾局に指示した。これにより港湾局は運輸省人脈を介して若築建設を紹介され、ジャスマック、若築建設、フジタ3社によるジャスマックグループとして、同年(1992年)9月、ホテルを中心とするC、D両地区の開発計画を再提案した。
一方、ジャスマックと同時期にホテル計画を提案していたサンレーも、伊藤忠、竹中工務店とグループを組んで同年(1992年)10月に開発計画を再提案した。提案内容はジャスマックグループの方が格段に優れていたが、福岡市内でラブホテル街を経営しているジャスマックのイメージを懸念して、港湾局内部には同社に対する強い嫌悪感があった。この港湾局のジャスマックに対する強い嫌悪による障碍が1年近くも続き、企画局のレトロ推進室による事業の進捗にも影響を与えた。このことで、企画局長と港湾局長が、助役の前で大議論を展開したこともあったという。
港湾局は感情的にジャスマックを嫌いながらも、計画案の内容が良いだけに両グループのいずれを採択するか決め兼ねていた。そこで、市は平成5年(1993年)5月、開発に関する条件として6項目の必須条件を提示して再度、詳細な提案をしてもらうことにした。
これに対して、サンレーグループは、同年(1993年)9月、「条件の変更が大き過ぎて、必須条件での提案は無理」として撤退を決めた。この時点で、ジャスマックグループ単独となり、平成5年(1993年)11月15日ジャスマックに内定した。
▼ ジャスマックグループによる建設
港湾局は、否応なしに、ジャスマックグループと組むことになり、調整しながら計画を詰めていき、平成6年(1994年)10月18日、ホテル建設を含む計画の発表にこぎつけた。
それによると、1)第三セクター「門司港開発株式会社」がホテルの経営主体になる。2)同社は資本金15億円、中核企業の若築建設、フジタ、ジャスマック3社が46%、北九州市が25%出資し、残り29%を地元企業32社が引き受ける。3)ホテルは9階建て、140室程度とする。4)ホテルに港湾業務オフィスビルを併置する。などである。北九州市議会は平成7年(1995年)6月議会で3億7500万円の出資を可決した。
平成7年(1995年)11月30日、門司港開発(株)の設立総会が開催され、社長には江頭利明若築建設副会長が就任した。こうして、平成8年(1996年)3月、ホテル建設が着工された。そして、ホテルは平成10年(1998年)3月22日にオープンした。名称は「門司港ホテル」とした。
それによると、1)第三セクター「門司港開発株式会社」がホテルの経営主体になる。2)同社は資本金15億円、中核企業の若築建設、フジタ、ジャスマック3社が46%、北九州市が25%出資し、残り29%を地元企業32社が引き受ける。3)ホテルは9階建て、140室程度とする。4)ホテルに港湾業務オフィスビルを併置する。などである。北九州市議会は平成7年(1995年)6月議会で3億7500万円の出資を可決した。
平成7年(1995年)11月30日、門司港開発(株)の設立総会が開催され、社長には江頭利明若築建設副会長が就任した。こうして、平成8年(1996年)3月、ホテル建設が着工された。そして、ホテルは平成10年(1998年)3月22日にオープンした。名称は「門司港ホテル」とした。
▼ アルド・ロッシ氏の遺作となった門司港ホテル
話は遡るが、ジャスマックに内定した平成5年(1993年)11月15日、イタリア建築家アルド・ロッシ氏は、ジャスマックの葛和社長の要請で、ホテル建設予定地および関門一帯を視察している。現地を見分した氏の感想は、「関門海峡の自然、地形の素晴らしさに感動し、もう一度計画を考え直してみる。」であったと、末吉市長が12月議会の答弁の中で紹介している。そして、日本への造詣が深かったロッシ氏は、現地視察後、大好きな刺身を堪能し、日没後にもう一度見たいと言いだしたという。中学同窓の稲佐重正君・湾局東部港営事務所長(港湾局開発課係長)が再び案内すると、その夜景に「こんな素晴らしい所はそう滅多にない」と感嘆の声をあげていたという。当初、氏は「船が正面から向かって来る姿をイメージしてデザインした」と言っていたが、平成6年(1994年)2月に提出した計画では「シャークをイメージした」となっていたという。確かに、旧税関2階から眺めると、餃のようなシャープなイメージを表現している。一般には、眺望のよいオフィスビル側を正面と受け取られているが、ロッシ氏自身は、「旧税関2階から見る姿が正面で、オフィスビルの方は裏側なのだ」と洩らしていたという。そのロッシ氏は平成10年(1998年)3月22日のホテル開業を見ることなく、本国で交通事故により死亡した。門司港ホテルが最後の遺作になった。
<資料:中学同窓・稲佐重正君提供>
<写真:中学同窓・田中文君撮影>
<写真:中学同窓・田中文君撮影>
参考資料:1.ルネッサンスの知恵 第3号 門司港レトロヘの道すじ 財団法人北九州都市協会(平成14年2月)、2.北九州市新・新中期計画 北九州市(昭和55年4月)、3.ポート門司 21 北九州市職員研修所(昭和57年)ほかあ