旧日本郵船門司支店(門司郵船ビル)
旧日本郵船門司支店(門司郵船ビル)
■ 歴史
旧日本郵船門司支店(門司郵船ビル)は、北九州市門司区港町7-8にあり、明治18年(1885年)9月29日に創立された船会社・日本郵船の門司支店として、昭和2年(1927年)に建設された鉄筋コンクリート造4階建の建物である。
設計:八島知(日本郵船株式会社)、施工:大林組、起工:大正15年(昭和元年)7月27日、竣工:昭和2年(1927年)10月、 敷地面積:1,411.07u、延床面積:3,119.66u、空調設備:個別パッケージ方式、給湯設備:各階湯沸室に湯沸器設置、昇降設備:1基、湯沸器設置、昇降設備:1基、交通:JR鹿児島本線「門司港駅」徒歩1分、備考:現在、入居テナント専用ビル。
日本郵船は、三菱財閥(三菱グループ)の中核企業であり、三菱重工とともに三菱グループの源流企業である。日本の3大海運会社の一つであり、その沿革は明治3年(1870年)九十九商会(後の三川商会、三菱商会へ)として大阪市西区に設立。明治8年(1875年)国有会社である日本国郵便蒸気船会社の経営を岩崎弥太郎が任される(三菱商会が郵便汽船三菱会社へ改称)。同年、郵便汽船三菱会社はen:Pacific Mail Steamship Company と契約。政府の援助や吉岡銅山の利益をもとに、洋銀78万ドルを支払って部分的な事業譲渡を受ける。明治18年(1885年)、国有会社であった日本国郵便蒸気船会社と三菱商会が合併して設立した「郵便汽船三菱会社」と、三井系国策会社である「共同運輸会社」とが値下げ競争で対立したため、日本の海運業の衰退を危惧した政府の仲介で、両社が合併し、明治26年(1893年)12月15日に日本郵船株式会社が設立された。
明治20年代当時の門司港地区は、遠浅の砂浜部分は塩田として利用され、わずかにある磯や平地部分が港湾として利用されていた。現在規模の門司港はまだ開港されておらず、「郵船寄港制度」による郵船限定の貨客取り扱い港に過ぎなかった。明治22年(1889年)、門司港が石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目を扱う国の特別輸出港に指定されたことで、旧門司税関が長崎税関の出張所として設置され、港湾の整備が開始された。すなわち、同年、門司築港会社が設立され、築港工事が開始された。海面が埋め立てられ、明治23年(1890年)には第一船溜まりができ、第一船溜まりの東側を東海岸、反対側を西海岸といい、白木崎に到る西海岸を埋め立てた。また、第一船溜まりの北側の塩田が埋め立てられ、明治30年(1897年)には、その北側に第二船溜まり(文字ケ関公園隣)が完成し、2つの船溜まりは運河で結ばれた。明治23年に完成した「門司港第一船溜まり」は、まさに「門司港発祥の場所」であるが、その後、石炭や飼料等の港湾荷役に活躍した「艀(はしけ)」の係留場所として、昭和50年(1975年)ごろまで賑わっていたという。
また一方では、明治22年(1889年)、門司港が国の特別輸出港に指定されたことを契機に、明治21年(1888年)に設立された九州鉄道会社(九州で初めての鉄道会社)は、明治24年(1891年)に、門司−高瀬(現在の玉名駅、熊本県)間の鉄道を開通させるとともに、明治24年(1981年)4月1日、九州鉄道の起点駅となる旧門司駅(現門司港駅)を開業した。そして、本社屋(現・九州鉄道記念館)を現在の駅舎よりやや山側の場所(門司清滝)に建設し、本社を博多の仮本社から門司に移した。
時代は折しも石炭ブームであり、港と鉄道ができたことで、それまで若松と芦屋に集められていた筑豊の石炭が、折尾を経由して直接門司駅に輸送され、門司港から輸出されるようになった。九州鉄道は、石炭産出地の筑豊と積出港である門司港をつなぐ輸送手段として大きな役割を果たすことになる。そして、明治27〜28年(1894〜95年)の日清戦争を経て、門司港は九州の玄関口として、石炭の積出港として急速な発展を遂げることになる。
そして、船と鉄道の結節点となった門司港には商船会社や金融関連会社などが結集し、社屋が建設され、急激に市街地が形成されていった。
旧日本郵船門司支店(門司郵船ビル)は、ライバル会社の大阪商船に遅れること1年、明治25年(1892年)に赤間関支店の出張所として初めて門司港に進出を果たしたが、海岸道路の西側通りとJR鉄道との海陸2つの路線が交わる門司駅前地点に建ち、門司市内の重要な移動手段であった路面電車道路からも至便な位置を確保した。日清戦争後の門司港の繁栄とともに明治36年(1903年)には門司支店に昇格し、代わりに下関支店が出張所に格下げとなる。ちなみに、大阪商船は明治30年(1897年)に赤間関支店所属から独立して門司支店に昇格している。
大正6年(1917年)にライバル会社である大阪商船の門司支店が新築開業したのに遅れること10年、昭和2年(1927年)に現在の旧日本郵船門司支店ビル(門司郵船ビル)が船と鉄道、海陸2つの路線が交わる旧門司駅(門司港駅)の正面という好立地に建設された。この地域で最初のアメリカ式オフィスビルで、エレベーターや暖房器具(ラジエーター)、集約型の給湯室、水洗トイレなど、当時の最新設備を備えていた。(ちなみに、10年後の昭和12年(1937年)に、同じアメリカ式オフィスビルである旧三井物産門司支店ビルが斜め向かいに建てられた)。デザインは、アール・デコの影響を受け、直線的で装飾性の低い機能的・合理的な実用性の高い様式である。改修により外観はかつての装飾性を失っているが、玄関ホールのモザイクタイルや階段の手すり、照明などに当時の面影が残っている。また、鉄骨枠組みが露出した斬新なエレベーターがあり、竣工当時は最新のエレベーターを見るための長蛇の列ができたと伝えられている。建物は、入出港する客船の乗降手続きの事務所として使用されたが、当時は建物の前面道路のすぐ横に海があり、利用者は目の前の桟橋から横付けされた船に直接乗り込んでいたという。当時の門司港は、朝鮮や台湾、大連や中国大陸への航路の一大拠点となり、客船だけでも、門司港からは1ヶ月の間に台湾、中国、インド、欧州へ60隻もの客船が出航し、大阪商船ビルや日本郵船ビルもその拠点として、外国への渡航客で賑わい、昭和10年(1935年)ごろが最盛期であったという。旧三井物産門司支店、旧大阪商船門司支店、旧門司水上警察、旧日本郵船門司支店などの近代建築が並立しており、大陸をはじめ諸外国との交易で経済活動が活発だった当時の門司港の繁栄ぶりを象徴している。
設計:八島知(日本郵船株式会社)、施工:大林組、起工:大正15年(昭和元年)7月27日、竣工:昭和2年(1927年)10月、 敷地面積:1,411.07u、延床面積:3,119.66u、空調設備:個別パッケージ方式、給湯設備:各階湯沸室に湯沸器設置、昇降設備:1基、湯沸器設置、昇降設備:1基、交通:JR鹿児島本線「門司港駅」徒歩1分、備考:現在、入居テナント専用ビル。
日本郵船は、三菱財閥(三菱グループ)の中核企業であり、三菱重工とともに三菱グループの源流企業である。日本の3大海運会社の一つであり、その沿革は明治3年(1870年)九十九商会(後の三川商会、三菱商会へ)として大阪市西区に設立。明治8年(1875年)国有会社である日本国郵便蒸気船会社の経営を岩崎弥太郎が任される(三菱商会が郵便汽船三菱会社へ改称)。同年、郵便汽船三菱会社はen:Pacific Mail Steamship Company と契約。政府の援助や吉岡銅山の利益をもとに、洋銀78万ドルを支払って部分的な事業譲渡を受ける。明治18年(1885年)、国有会社であった日本国郵便蒸気船会社と三菱商会が合併して設立した「郵便汽船三菱会社」と、三井系国策会社である「共同運輸会社」とが値下げ競争で対立したため、日本の海運業の衰退を危惧した政府の仲介で、両社が合併し、明治26年(1893年)12月15日に日本郵船株式会社が設立された。
明治20年代当時の門司港地区は、遠浅の砂浜部分は塩田として利用され、わずかにある磯や平地部分が港湾として利用されていた。現在規模の門司港はまだ開港されておらず、「郵船寄港制度」による郵船限定の貨客取り扱い港に過ぎなかった。明治22年(1889年)、門司港が石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目を扱う国の特別輸出港に指定されたことで、旧門司税関が長崎税関の出張所として設置され、港湾の整備が開始された。すなわち、同年、門司築港会社が設立され、築港工事が開始された。海面が埋め立てられ、明治23年(1890年)には第一船溜まりができ、第一船溜まりの東側を東海岸、反対側を西海岸といい、白木崎に到る西海岸を埋め立てた。また、第一船溜まりの北側の塩田が埋め立てられ、明治30年(1897年)には、その北側に第二船溜まり(文字ケ関公園隣)が完成し、2つの船溜まりは運河で結ばれた。明治23年に完成した「門司港第一船溜まり」は、まさに「門司港発祥の場所」であるが、その後、石炭や飼料等の港湾荷役に活躍した「艀(はしけ)」の係留場所として、昭和50年(1975年)ごろまで賑わっていたという。
また一方では、明治22年(1889年)、門司港が国の特別輸出港に指定されたことを契機に、明治21年(1888年)に設立された九州鉄道会社(九州で初めての鉄道会社)は、明治24年(1891年)に、門司−高瀬(現在の玉名駅、熊本県)間の鉄道を開通させるとともに、明治24年(1981年)4月1日、九州鉄道の起点駅となる旧門司駅(現門司港駅)を開業した。そして、本社屋(現・九州鉄道記念館)を現在の駅舎よりやや山側の場所(門司清滝)に建設し、本社を博多の仮本社から門司に移した。
時代は折しも石炭ブームであり、港と鉄道ができたことで、それまで若松と芦屋に集められていた筑豊の石炭が、折尾を経由して直接門司駅に輸送され、門司港から輸出されるようになった。九州鉄道は、石炭産出地の筑豊と積出港である門司港をつなぐ輸送手段として大きな役割を果たすことになる。そして、明治27〜28年(1894〜95年)の日清戦争を経て、門司港は九州の玄関口として、石炭の積出港として急速な発展を遂げることになる。
そして、船と鉄道の結節点となった門司港には商船会社や金融関連会社などが結集し、社屋が建設され、急激に市街地が形成されていった。
旧日本郵船門司支店(門司郵船ビル)は、ライバル会社の大阪商船に遅れること1年、明治25年(1892年)に赤間関支店の出張所として初めて門司港に進出を果たしたが、海岸道路の西側通りとJR鉄道との海陸2つの路線が交わる門司駅前地点に建ち、門司市内の重要な移動手段であった路面電車道路からも至便な位置を確保した。日清戦争後の門司港の繁栄とともに明治36年(1903年)には門司支店に昇格し、代わりに下関支店が出張所に格下げとなる。ちなみに、大阪商船は明治30年(1897年)に赤間関支店所属から独立して門司支店に昇格している。
大正6年(1917年)にライバル会社である大阪商船の門司支店が新築開業したのに遅れること10年、昭和2年(1927年)に現在の旧日本郵船門司支店ビル(門司郵船ビル)が船と鉄道、海陸2つの路線が交わる旧門司駅(門司港駅)の正面という好立地に建設された。この地域で最初のアメリカ式オフィスビルで、エレベーターや暖房器具(ラジエーター)、集約型の給湯室、水洗トイレなど、当時の最新設備を備えていた。(ちなみに、10年後の昭和12年(1937年)に、同じアメリカ式オフィスビルである旧三井物産門司支店ビルが斜め向かいに建てられた)。デザインは、アール・デコの影響を受け、直線的で装飾性の低い機能的・合理的な実用性の高い様式である。改修により外観はかつての装飾性を失っているが、玄関ホールのモザイクタイルや階段の手すり、照明などに当時の面影が残っている。また、鉄骨枠組みが露出した斬新なエレベーターがあり、竣工当時は最新のエレベーターを見るための長蛇の列ができたと伝えられている。建物は、入出港する客船の乗降手続きの事務所として使用されたが、当時は建物の前面道路のすぐ横に海があり、利用者は目の前の桟橋から横付けされた船に直接乗り込んでいたという。当時の門司港は、朝鮮や台湾、大連や中国大陸への航路の一大拠点となり、客船だけでも、門司港からは1ヶ月の間に台湾、中国、インド、欧州へ60隻もの客船が出航し、大阪商船ビルや日本郵船ビルもその拠点として、外国への渡航客で賑わい、昭和10年(1935年)ごろが最盛期であったという。旧三井物産門司支店、旧大阪商船門司支店、旧門司水上警察、旧日本郵船門司支店などの近代建築が並立しており、大陸をはじめ諸外国との交易で経済活動が活発だった当時の門司港の繁栄ぶりを象徴している。
旧日本郵船門司支店(左)に続く近代的なアメリカ式高層オフィスビル・旧三井物産ビル(右)
第一船溜まりから見た旧大阪商船ビル(橙色)、左奥に旧日本郵船ビル
旧大阪商船ビル(橙色)、左奥に旧日本郵船ビル(白色)
旧日本郵船門司支店(門司郵船ビル)
■ 改修・保存
別稿『「レトロ門司」復興への道』で記述したように、門司港レトロの復興は、昭和62年12月、竹下首相の「ふるさと創生」政策の一環として自治省で創設された「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)への申請、そして昭和63年6月24日の採択に始まる。
当時、門司港地区にある門鉄会館(旧門司三井倶楽部)、商船三井ビル(旧大阪商船ビル)、旧門司税関などの歴史的建造物はどれもが所有者の都合で売却処分や取り壊しの危機に瀕していた。これら歴史的建造物の解体・消滅の危機を懸念する市民からは、末吉市長や市議会議長宛の「門鉄会館の管理、保存について」の陳情書や住民2385人の署名による請願書、さらには市民団体「門司まちづくり21世紀の会」による「門司港・西海岸地区整備構想」や「門司港・和布刈地区の整備」の提案や要請などが提出され、門鉄会館を始めとする歴史的建造物の保存をめぐる動きが活発になって来た。しかし、市は財政が苦しく、保存に乗り出すだけの有効な対応策も見出せず、窮地に陥っていた。
そんな最中、天の啓示のように、竹下首相の「ふるさと創生」政策の一環として自治省が「ふるさとづくり特別事業」(「ふる特」)を創設すると公表した。昭和62年12月、藁をもつかむ思いで申請し、そして昭和63年6月24日に採択が決まった。すなわち、自治省が門司港レトロ事業を「ふる特」に採択したと発表してから半年後の昭和63年12月23日、市がまとめた「門司港レトロめぐり・海峡めぐり推進事業」の基本計画が、自治省の「ふる特」に正式に承認された。「門司港レトロの復興」すなわち「門鉄会館の移築を含む門司港レトロ計画」は、「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)への採択によって実現可能となり、門司港地区の歴史的建造物の復元や保存が、門司港レトロ事業の中に包含することで可能になった。もし「ふる特」に採択されなかったならば、旧門司三井倶楽部(門鉄会館)ひいては旧三井物産門司支店(旧JR九州本社ビル)(通称は旧門鉄ビル)の保存はおろか、門司港レトロも開始できなかったかもしれない。
北九州市にとって、「門司港レトロ計画」を成功させるためには、門司港地区の歴史的建造物の復元や保存が必須である。大正6年(1917年)にライバル会社である大阪商船の門司支店が新築開業したのに遅れること10年、昭和2年(1927年)に、船と鉄道、海陸2つの路線が交わる旧門司駅(門司港駅、現在では国の重要文化財)の正面に建設された門司郵船ビル(旧日本郵船門司支店ビル)も当然、門司港レトロ群を構成する歴史的建造物の1つに加えられた。改装の度に、外観はかつてのアールデコ風の装飾性を失っているが、玄関ホールのモザイクタイルや階段の手すり、照明、鉄骨枠組みが露出した斬新なエレベーターなどに当時の面影が残っている。
昭和28年(1953年)10月1日、日本郵船株式会社は、自社所有の土地、建物の管理・運営を行うことを主たる目的に、100%親会社である郵船不動産株式会社を創立し、旧日本郵船門司支店ビル(門司郵船ビル)内に「郵船不動産株式会社門司支店」を置く。その後、65有余年を経て、今日ではオフィスビル・賃貸住宅・商業施設等の運営など、賃貸・管理業務を主軸として、日本郵船グループの不動産事業の中核を担う総合不動産会社として発展している。
当時、門司港地区にある門鉄会館(旧門司三井倶楽部)、商船三井ビル(旧大阪商船ビル)、旧門司税関などの歴史的建造物はどれもが所有者の都合で売却処分や取り壊しの危機に瀕していた。これら歴史的建造物の解体・消滅の危機を懸念する市民からは、末吉市長や市議会議長宛の「門鉄会館の管理、保存について」の陳情書や住民2385人の署名による請願書、さらには市民団体「門司まちづくり21世紀の会」による「門司港・西海岸地区整備構想」や「門司港・和布刈地区の整備」の提案や要請などが提出され、門鉄会館を始めとする歴史的建造物の保存をめぐる動きが活発になって来た。しかし、市は財政が苦しく、保存に乗り出すだけの有効な対応策も見出せず、窮地に陥っていた。
そんな最中、天の啓示のように、竹下首相の「ふるさと創生」政策の一環として自治省が「ふるさとづくり特別事業」(「ふる特」)を創設すると公表した。昭和62年12月、藁をもつかむ思いで申請し、そして昭和63年6月24日に採択が決まった。すなわち、自治省が門司港レトロ事業を「ふる特」に採択したと発表してから半年後の昭和63年12月23日、市がまとめた「門司港レトロめぐり・海峡めぐり推進事業」の基本計画が、自治省の「ふる特」に正式に承認された。「門司港レトロの復興」すなわち「門鉄会館の移築を含む門司港レトロ計画」は、「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)への採択によって実現可能となり、門司港地区の歴史的建造物の復元や保存が、門司港レトロ事業の中に包含することで可能になった。もし「ふる特」に採択されなかったならば、旧門司三井倶楽部(門鉄会館)ひいては旧三井物産門司支店(旧JR九州本社ビル)(通称は旧門鉄ビル)の保存はおろか、門司港レトロも開始できなかったかもしれない。
北九州市にとって、「門司港レトロ計画」を成功させるためには、門司港地区の歴史的建造物の復元や保存が必須である。大正6年(1917年)にライバル会社である大阪商船の門司支店が新築開業したのに遅れること10年、昭和2年(1927年)に、船と鉄道、海陸2つの路線が交わる旧門司駅(門司港駅、現在では国の重要文化財)の正面に建設された門司郵船ビル(旧日本郵船門司支店ビル)も当然、門司港レトロ群を構成する歴史的建造物の1つに加えられた。改装の度に、外観はかつてのアールデコ風の装飾性を失っているが、玄関ホールのモザイクタイルや階段の手すり、照明、鉄骨枠組みが露出した斬新なエレベーターなどに当時の面影が残っている。
昭和28年(1953年)10月1日、日本郵船株式会社は、自社所有の土地、建物の管理・運営を行うことを主たる目的に、100%親会社である郵船不動産株式会社を創立し、旧日本郵船門司支店ビル(門司郵船ビル)内に「郵船不動産株式会社門司支店」を置く。その後、65有余年を経て、今日ではオフィスビル・賃貸住宅・商業施設等の運営など、賃貸・管理業務を主軸として、日本郵船グループの不動産事業の中核を担う総合不動産会社として発展している。
第一船溜まりから見たレトロ建造物群
対岸前景中央左より旧三井倶楽部、旧大阪商船ビル、右端は旧門司港ホテル、
後景左より旧三井物産ビル、旧日本郵船ビル
対岸前景中央左より旧三井倶楽部、旧大阪商船ビル、右端は旧門司港ホテル、
後景左より旧三井物産ビル、旧日本郵船ビル
■ 館内施設
明治25年(1892年)に初めて門司港に進出した日本郵船の出張所は、明治36年(1903年)に門司支店に昇格し、昭和2年(1927年)に現在の日本郵船門司支店(門司郵船ビル)が船と鉄道、海陸2つの路線が交わる旧門司駅(門司港駅)の正面に新築された。この地域では最初のアメリカ式オフィスビルで、エレベーターや暖房器具(ラジエーター)、集約型の給湯室、水洗トイレなど、当時の最新設備を備えていた。デザインは、アール・デコの影響を受け、直線的で装飾性の低い機能的・合理的な実用性の高い様式である。改修により外観はかつての装飾性を失っているが、玄関ホールのモザイクタイルや階段の手すり、照明などに当時の面影が残っている。また、鉄骨枠組みが露出した斬新なエレベーターがあり、竣工当時は最新のエレベーターを見るための長蛇の列ができたと伝えられている。現在、屋上にある看板は「日本郵船」のままであるが、名称は「門司郵船ビル」となっている。
建設当初は、入出港する客船の乗降手続きの事務所として使用されていたが、その後、昭和28年(1953年)10月1日、日本郵船株式会社は、自社所有の土地、建物の管理・運営を行うことを主たる目的に、100%親会社である郵船不動産株式会社を創立し、旧日本郵船門司支店ビル(門司郵船ビル)内に「郵船不動産株式会社門司支店」を置き、オフィスとして利用している。また、併用して、入居テナント専用ビルとしても利用し、現在は1階から4階まで種々の会社のオフィスが入居中である。1階にはブティック「mammy baby」、「great unknown mojiko shop」、「flagshop」、「golden ray」、「門司港茶寮」、コンビニ「ファミマ」(景観保護対応店のため、基調色は黒)、4階には、門司港ブランド「アルテジオ」がある。「アール・デコ」をコンセプトに誕生した門司港のオリジナルブランドで、地元作家によるアクセサリー・陶磁器などを展示している。
建設当初は、入出港する客船の乗降手続きの事務所として使用されていたが、その後、昭和28年(1953年)10月1日、日本郵船株式会社は、自社所有の土地、建物の管理・運営を行うことを主たる目的に、100%親会社である郵船不動産株式会社を創立し、旧日本郵船門司支店ビル(門司郵船ビル)内に「郵船不動産株式会社門司支店」を置き、オフィスとして利用している。また、併用して、入居テナント専用ビルとしても利用し、現在は1階から4階まで種々の会社のオフィスが入居中である。1階にはブティック「mammy baby」、「great unknown mojiko shop」、「flagshop」、「golden ray」、「門司港茶寮」、コンビニ「ファミマ」(景観保護対応店のため、基調色は黒)、4階には、門司港ブランド「アルテジオ」がある。「アール・デコ」をコンセプトに誕生した門司港のオリジナルブランドで、地元作家によるアクセサリー・陶磁器などを展示している。
<資料:中学同窓・稲佐重正君提供>
<写真:中学同窓・田中文君撮影>
<写真:中学同窓・田中文君撮影>
参考資料:1.ルネッサンスの知恵 第3号 門司港レトロヘの道すじ 財団法人北九州都市協会(平成14年2月)、2.北九州市新・新中期計画 北九州市(昭和55年4月)、3.ポート門司 21 北九州市職員研修所(昭和57年)ほかあ