旧帝国麦酒・変電所 / 組合棟(現・赤煉瓦写真館)
旧帝国麦酒・変電所 / 組合棟(現・赤煉瓦写真館)(国の登録有形文化財)
■ 歴史
旧サッポロビール九州工場(事務所棟、醸造棟、組合棟、倉庫)の前身である旧帝国麦酒門司工場(事務所棟、仕込場のちに醸造棟、変電所のちに組合棟、倉庫))は、北九州市門司区大里本町3丁目6番1号にあり、明治45年(1912年)門司市の合資会社九州興業仲介所代表社員山田弥八郎らが、当時隆盛を誇った神戸市の鈴木商店の援助を受け、大里町に工場用地を取得し設立した西日本最古の麦酒工場である。大正2年(1913年)4月にビール工場が竣工し、醸造を開始した。
旧帝国麦酒門司工場の旧変電所(旧組合棟)は、「門司赤煉瓦プレイス」を構成する他の事務所棟、仕込棟(旧サッポロビール・醸造棟)、旧倉庫棟より4年遅れて大正6年(1917年)に、工場拡張のため、受変電施設の上屋として建設され、その後、労働組合の事務所として利用された赤煉瓦造り平屋建ての建物である(建築面積107.43u、延床面積107.43u)。外部は赤煉瓦積みで、周囲に半円アーチの欄間付き窓を開き、要石(アーチの最頂部に差し入れて、全体を固定するくさび形の石)や窓台に花崗岩を使用し、軒蛇腹の下にも色違い装飾が施すなど、工場の付属施設としては装飾性が高い造りとなっている。基本設計は、醸造棟と同じく、ドイツのゲルマニア社で、実設計は林栄次郎とされる。
旧帝国麦酒門司工場の旧変電所(旧組合棟)は、「門司赤煉瓦プレイス」を構成する他の事務所棟、仕込棟(旧サッポロビール・醸造棟)、旧倉庫棟より4年遅れて大正6年(1917年)に、工場拡張のため、受変電施設の上屋として建設され、その後、労働組合の事務所として利用された赤煉瓦造り平屋建ての建物である(建築面積107.43u、延床面積107.43u)。外部は赤煉瓦積みで、周囲に半円アーチの欄間付き窓を開き、要石(アーチの最頂部に差し入れて、全体を固定するくさび形の石)や窓台に花崗岩を使用し、軒蛇腹の下にも色違い装飾が施すなど、工場の付属施設としては装飾性が高い造りとなっている。基本設計は、醸造棟と同じく、ドイツのゲルマニア社で、実設計は林栄次郎とされる。
<中学同窓・田中文君撮影>
▼ 帝国麦酒門司工場の設立
明治末期、明治45年(1912年)の酒税法改正に伴い、ビール事業が大規模化され国内のビール需要が飛躍的に伸び始めたのを機に、門司市の合資会社である九州興業仲介所代表社員の山田弥八郎らは、九州で最初のビール会社設立を画策。当時、門司・大里においては、すでに製糖・製粉などの事業を展開し総合商社として隆盛を誇っていた鈴木商店(神戸市)の援助を受けた形で、大里町に工場用地を取得し、九州最初の本格的ビール会社・帝国麦酒(株)を設立させた。翌年の大正2年(1913年)に帝国麦酒(株)工場が竣工し、醸造を開始。ブランド名「サクラビール」を発表して、ビール業界へ参入した。
その後、大正3年(1914年)7月28日に、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟とイギリス、フランス、ロシアの三国協定との対立が発端で第一次世界大戦(〜大正7年(1918年)11月11日)が勃発し、ビールの本場であるヨーロッパが戦場となり、ヨーロッパからのビール輸出が途絶えたため、帝国麦酒(株)の「サクラビール」の需要は急増し、鈴木商店のネットワークを利用して、近隣諸国だけでなく、インド、シャム(タイ王国)、アフリカ、北米など世界各国へ輸出を拡大させた(戦時バブル)。その間、大正5年(1916年)、パナマ平和博覧会で、金賞を受賞している。
大正7年(1918年)には、年間製造能力4万石の製麦場が竣工し、大里地区で最大級の工場になる。大正期、日本の4大工業地帯の1つに数えられ、大里地区は北九州一の工場都市として発展を続けたが、なかでも「帝国麦酒」は、大正9年(1920年)まで拡張・新設し、大里地区最大級の工場として、海岸線を占有するまでになった。国際港や鉄道など交通の要衝という立地条件にも恵まれ、「サクラビール」の国内外の需要は拡大していった。
しかし、この戦時バブル(=日本の大戦景気)は、大戦の終結とともに崩壊し、後に起こる昭和恐慌の発端となったのである。すなわち、ヨーロッパの製品がアジア市場に戻って来て、大正9年(1920年)には戦後恐慌が発生した。それが終息に向かおうとしていた矢先、大正11年(1922年)の銀行恐慌、大正12年(1923年)には関東大震災が次々と起こって再び恐慌に陥った(震災恐慌)。さらに、関東大震災による経済の混乱がおさまらない中、昭和2年(1927年)、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招き、銀行の破綻に端を発した昭和金融恐慌が発生、さらに続いて昭和4年(1929年)10月にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌が日本にも影響を及ぼし、翌昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた。すなわち、戦前の日本における最も深刻な恐慌、いわゆる昭和恐慌を引き起こした。
この昭和恐慌は鈴木商店にも波及し、鈴木商店は破綻することになったが、帝国麦酒(株)は経営の危機を乗り越え、サクラビールは、日本第3位のビール会社として約1割のシェアを維持し、約30年間販売が続いた。その間、世界恐慌が起きた昭和4年(1929年)には、帝国麦酒からビールブランドである「桜麦酒」に社名変更し、昭和10年(1935年)には新聞等による公募でマスコット「保呂利陽太」を決定している。
しかし、第二次世界大戦中は、ビールの原材料が逼迫し、昭和18年(1943年)には会社工場ともに大日本麦酒に統合される(戦時統合)。終戦後、門司の工場は日本麦酒(株)側に分割され、その後、サッポロビールの九州工場として稼働したが、老朽化等により、平成8年(1996年)、大分県日田市の新九州工場(現:九州日田工場)への移転が決定し、平成12年(2000年)、新工場竣工に伴って旧・九州工場は閉鎖となった。
創業以来、「桜麦酒」『大日本麦酒』「日本麦酒」「サッポロビール」と社名変更、合併、分割と会社形態の変遷をたどりながらも北九州門司の産業を支え続けてきた大里地区最大級の工場であるが、この地における87年間のビール製造の歴史に幕を閉じた。
その後、大正3年(1914年)7月28日に、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟とイギリス、フランス、ロシアの三国協定との対立が発端で第一次世界大戦(〜大正7年(1918年)11月11日)が勃発し、ビールの本場であるヨーロッパが戦場となり、ヨーロッパからのビール輸出が途絶えたため、帝国麦酒(株)の「サクラビール」の需要は急増し、鈴木商店のネットワークを利用して、近隣諸国だけでなく、インド、シャム(タイ王国)、アフリカ、北米など世界各国へ輸出を拡大させた(戦時バブル)。その間、大正5年(1916年)、パナマ平和博覧会で、金賞を受賞している。
大正7年(1918年)には、年間製造能力4万石の製麦場が竣工し、大里地区で最大級の工場になる。大正期、日本の4大工業地帯の1つに数えられ、大里地区は北九州一の工場都市として発展を続けたが、なかでも「帝国麦酒」は、大正9年(1920年)まで拡張・新設し、大里地区最大級の工場として、海岸線を占有するまでになった。国際港や鉄道など交通の要衝という立地条件にも恵まれ、「サクラビール」の国内外の需要は拡大していった。
しかし、この戦時バブル(=日本の大戦景気)は、大戦の終結とともに崩壊し、後に起こる昭和恐慌の発端となったのである。すなわち、ヨーロッパの製品がアジア市場に戻って来て、大正9年(1920年)には戦後恐慌が発生した。それが終息に向かおうとしていた矢先、大正11年(1922年)の銀行恐慌、大正12年(1923年)には関東大震災が次々と起こって再び恐慌に陥った(震災恐慌)。さらに、関東大震災による経済の混乱がおさまらない中、昭和2年(1927年)、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招き、銀行の破綻に端を発した昭和金融恐慌が発生、さらに続いて昭和4年(1929年)10月にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌が日本にも影響を及ぼし、翌昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた。すなわち、戦前の日本における最も深刻な恐慌、いわゆる昭和恐慌を引き起こした。
この昭和恐慌は鈴木商店にも波及し、鈴木商店は破綻することになったが、帝国麦酒(株)は経営の危機を乗り越え、サクラビールは、日本第3位のビール会社として約1割のシェアを維持し、約30年間販売が続いた。その間、世界恐慌が起きた昭和4年(1929年)には、帝国麦酒からビールブランドである「桜麦酒」に社名変更し、昭和10年(1935年)には新聞等による公募でマスコット「保呂利陽太」を決定している。
しかし、第二次世界大戦中は、ビールの原材料が逼迫し、昭和18年(1943年)には会社工場ともに大日本麦酒に統合される(戦時統合)。終戦後、門司の工場は日本麦酒(株)側に分割され、その後、サッポロビールの九州工場として稼働したが、老朽化等により、平成8年(1996年)、大分県日田市の新九州工場(現:九州日田工場)への移転が決定し、平成12年(2000年)、新工場竣工に伴って旧・九州工場は閉鎖となった。
創業以来、「桜麦酒」『大日本麦酒』「日本麦酒」「サッポロビール」と社名変更、合併、分割と会社形態の変遷をたどりながらも北九州門司の産業を支え続けてきた大里地区最大級の工場であるが、この地における87年間のビール製造の歴史に幕を閉じた。
■ 復元・保存への道
門司・大里に、九州で最初のビール会社として誕生した帝国麦酒株式会社門司工場は、大正2年(1913年)4月に竣工して以来、「桜麦酒」『大日本麦酒』「日本麦酒」「サッポロビール」と社名変更、合併、分割と会社形態の変遷をたどりながらも北九州門司の産業を支え続けてきた大里地区最大級の工場であるが、老朽化等により、平成12年(2000年)、大分県日田市の新九州工場(現:九州日田工場)の竣工と同時に、旧・門司工場は閉鎖となり、創業以来、この地における87年間のビール製造の歴史に幕を閉じた。
▼ 復元・保存事業
閉鎖された帝国麦酒株式会社門司工場跡の土地及び建物の扱いについては、北九州市等により検討が行われ、JR門司駅の構内遊休地と併せて再開発を行うことが決定された。すなわち、事業の実施は平成12年度〜平成18年度にわたる「北九州都市計画事業大里本町土地区画整理事業」の一環として基盤整備を行い、建物の保存と活用に関しては建設省の平成12年度より創設の「まちづくり総合支援事業」を適用して、記念施設として保存・整備する。また、敷地はサッポロビール所有のままの部分と北九州市が同社より無償譲渡で取得した部分があり、北九州市が無償譲渡で取得した部分については平成17年(2005年)にまず旧工場事務所を転用した門司麦酒煉瓦館が先行開業させ、管理運営をJR九州メンテナンスに委託する。他施設は翌平成18年(2006年)に開業させ、サッポロビールよりNPO法人赤煉瓦倶楽部が無償譲渡で取得して管理運営をする。
▼「門司赤煉瓦プレイス」として再生
上述のごとく、事業の基盤整備は「北九州都市計画事業大里本町土地区画整理事業」として実施し、歴史的建造物の保存と活用に関しては、建設省創設の「まちづくり総合支援事業」の補助により「門司赤煉瓦プレイス」と銘打って、記念施設として保存・整備が実施された。
本事業は、保存した旧帝国麦酒工場(旧サッポロビール九州工場)のレンガ建物群は、西日本における麦酒製造発祥の地として歴史的にも、また建築的意匠においても価値を有する建造物である。これらを「門司赤煉瓦プレイス」として、大里本町地区のまちづくりの中核施設として保存、活用するために整備を行なうものである。すなわち、事務所棟を展示施設や市民ギャラリーに、倉庫群を広く市民に開放されたホールや会議室としての地域交流ゾーンとビアレストランとしての飲食物販ゾーンに整備するものである。具体的には、旧帝国麦酒事務所棟が展示施設や市民ギャラリーとして「門司麦酒煉瓦館」に、旧帝国麦酒仕込み場が記念施設として「旧サッポロビール醸造棟」に、旧変電所のちに旧組合棟が観光物産コーナーとして「赤煉瓦物産館」のちに「赤煉瓦写真館」に、旧倉庫棟が地域交流センターやビアレストランとして活用する「赤煉瓦交流館」に整備される。
こうして、帝国麦酒門司工場(事務所棟、仕込場、組合棟、倉庫))跡は、「門司赤煉瓦プレイス」として、建物は記念施設として保存・整備され、平成17年(2005年)5月21日に門司麦酒煉瓦館(旧帝国麦酒門司工場事務所)をはじめ、旧サッポロビール醸造棟(旧帝国麦酒仕込棟)、当初赤煉瓦物産館のちに赤煉瓦写真館(旧変電所、旧組合棟)、 赤煉瓦交流館(旧倉庫棟)などが部分オープンし、平成18年1月にその他の施設もオープン(フルオープン)した。
「門司赤煉瓦プレイス」として保存された門司麦酒煉瓦館・旧サッポロビール醸造棟・赤煉瓦交流館・赤煉瓦物産館 / 写真館(旧組合棟)の建物群は、西日本における麦酒製造発祥の地として歴史的にも、また建築的意匠においても価値を有する建造物であり、大里本町地区のまちづくりの中核施設として保存、活用されている(運営はNPO法人門司赤煉瓦倶楽部)。これらの煉瓦建物群は、平成19年(2007年)に国の登録有形文化財に登録され、平成21年(2009年)には、近代化産業遺産続33(33九州窯業 – 北九州市の鉱滓煉瓦製造関連遺産)に認定された。(都市みらい推進機構理事長賞)
本事業は、保存した旧帝国麦酒工場(旧サッポロビール九州工場)のレンガ建物群は、西日本における麦酒製造発祥の地として歴史的にも、また建築的意匠においても価値を有する建造物である。これらを「門司赤煉瓦プレイス」として、大里本町地区のまちづくりの中核施設として保存、活用するために整備を行なうものである。すなわち、事務所棟を展示施設や市民ギャラリーに、倉庫群を広く市民に開放されたホールや会議室としての地域交流ゾーンとビアレストランとしての飲食物販ゾーンに整備するものである。具体的には、旧帝国麦酒事務所棟が展示施設や市民ギャラリーとして「門司麦酒煉瓦館」に、旧帝国麦酒仕込み場が記念施設として「旧サッポロビール醸造棟」に、旧変電所のちに旧組合棟が観光物産コーナーとして「赤煉瓦物産館」のちに「赤煉瓦写真館」に、旧倉庫棟が地域交流センターやビアレストランとして活用する「赤煉瓦交流館」に整備される。
こうして、帝国麦酒門司工場(事務所棟、仕込場、組合棟、倉庫))跡は、「門司赤煉瓦プレイス」として、建物は記念施設として保存・整備され、平成17年(2005年)5月21日に門司麦酒煉瓦館(旧帝国麦酒門司工場事務所)をはじめ、旧サッポロビール醸造棟(旧帝国麦酒仕込棟)、当初赤煉瓦物産館のちに赤煉瓦写真館(旧変電所、旧組合棟)、 赤煉瓦交流館(旧倉庫棟)などが部分オープンし、平成18年1月にその他の施設もオープン(フルオープン)した。
「門司赤煉瓦プレイス」として保存された門司麦酒煉瓦館・旧サッポロビール醸造棟・赤煉瓦交流館・赤煉瓦物産館 / 写真館(旧組合棟)の建物群は、西日本における麦酒製造発祥の地として歴史的にも、また建築的意匠においても価値を有する建造物であり、大里本町地区のまちづくりの中核施設として保存、活用されている(運営はNPO法人門司赤煉瓦倶楽部)。これらの煉瓦建物群は、平成19年(2007年)に国の登録有形文化財に登録され、平成21年(2009年)には、近代化産業遺産続33(33九州窯業 – 北九州市の鉱滓煉瓦製造関連遺産)に認定された。(都市みらい推進機構理事長賞)
■ 館内施設
門司麦酒煉瓦館(旧事務所棟)と旧サッポロビール・醸造棟(旧帝国麦酒門司工場の仕込棟)の間にある赤煉瓦写真館(旧帝国麦酒門司工場の旧変電所のちに旧組合棟)は、大正6年(1917年)に、工場拡張のため、受変電施設の上屋として建設され、その後、労働組合の事務所として利用された赤煉瓦造り平屋建ての建物である。
平成17年(2005年)5月21日に「門司赤煉瓦プレイス」として再出発する際に改修され、門司赤煉瓦プレイスのオープン当初は、「赤煉瓦物産館」という名称で、観光客向けの土産物店を営業していたが、同じ観光施設である門司麦酒煉瓦館との営業上の相互補充が難しく、現在は写真スタジオが入居している。赤煉瓦の内外観と周囲のロケーションを活かして、婚礼写真、七五三、成人式など一般撮影・モデル撮影・コマーシャル撮影などに活用されている。また、倉庫施設としての特性を生かして、地下空間を写真展などにも使用されている。
平成17年(2005年)5月21日に「門司赤煉瓦プレイス」として再出発する際に改修され、門司赤煉瓦プレイスのオープン当初は、「赤煉瓦物産館」という名称で、観光客向けの土産物店を営業していたが、同じ観光施設である門司麦酒煉瓦館との営業上の相互補充が難しく、現在は写真スタジオが入居している。赤煉瓦の内外観と周囲のロケーションを活かして、婚礼写真、七五三、成人式など一般撮影・モデル撮影・コマーシャル撮影などに活用されている。また、倉庫施設としての特性を生かして、地下空間を写真展などにも使用されている。