旧帝国麦酒・事務所(現・門司麦酒煉瓦館)
旧帝国麦酒・事務所(現・門司麦酒煉瓦館) 国の登録有形文化財
■ 歴史
旧帝国麦酒事務所(旧事務所棟、現・門司麦酒煉瓦館)は、北九州市門司区大里本町3丁目6番1号にあり、明治45年(1912年)門司市の合資会社九州興業仲介所代表社員山田弥八郎らが、当時隆盛を誇った神戸市の鈴木商店の援助を受け、大里町に工場用地を取得し設立した帝国麦酒株式会社の、西日本最古の麦酒工場の事務所として、大正2年(1913年)4月に竣工した歴史的建造物である。建物はドイツ・ゴシック様式で建てられており、左右対称かつ縦軸を強調したドイツ城郭風の装飾の多い外観を特徴としている。ドイツ・ゲルマニア社の図面を参考にして、福岡工業学校出身の建築家・林栄次郎が実施設計したものである。建材の鉱滓煉瓦は八幡製鐵が生産工程で出した残滓を再利用して造ったもので、鉱滓煉瓦造2階、塔屋部3階建ての現存最古の本格的鉱滓煉瓦建築である。
現在、この帝国麦酒門司工場(事務所棟、仕込場、組合棟、倉庫))跡は、大里本町土地区画整理事業の一環で、建物は記念施設として保存・整備され、門司麦酒煉瓦館(旧帝国麦酒門司工場事務所)をはじめ、旧サッポロビール醸造棟(旧帝国麦酒仕込棟)、当初赤煉瓦物産館のちに写真館(旧変電所のちに旧組合棟)、 赤煉瓦交流館(旧倉庫棟)で構成される「門司赤煉瓦プレイス」として平成17年(2005年)5月にオープンした。
「門司赤煉瓦プレイス」として保存された門司麦酒煉瓦館・旧サッポロビール醸造棟・赤煉瓦交流館・赤煉瓦物産館 / 写真館(旧組合棟)の建物群は、西日本における麦酒製造発祥の地として歴史的にも、また建築的意匠においても価値を有する建造物であり、大里本町地区のまちづくりの中核施設として保存、活用されている(運営はNPO法人門司赤煉瓦倶楽部)。これらの煉瓦建物群は、平成19年(2007年)に国の登録有形文化財に登録され、平成21年(2009年)には、近代化産業遺産続33(33九州窯業 – 北九州市の鉱滓煉瓦製造関連遺産)に認定された。
現在、この帝国麦酒門司工場(事務所棟、仕込場、組合棟、倉庫))跡は、大里本町土地区画整理事業の一環で、建物は記念施設として保存・整備され、門司麦酒煉瓦館(旧帝国麦酒門司工場事務所)をはじめ、旧サッポロビール醸造棟(旧帝国麦酒仕込棟)、当初赤煉瓦物産館のちに写真館(旧変電所のちに旧組合棟)、 赤煉瓦交流館(旧倉庫棟)で構成される「門司赤煉瓦プレイス」として平成17年(2005年)5月にオープンした。
「門司赤煉瓦プレイス」として保存された門司麦酒煉瓦館・旧サッポロビール醸造棟・赤煉瓦交流館・赤煉瓦物産館 / 写真館(旧組合棟)の建物群は、西日本における麦酒製造発祥の地として歴史的にも、また建築的意匠においても価値を有する建造物であり、大里本町地区のまちづくりの中核施設として保存、活用されている(運営はNPO法人門司赤煉瓦倶楽部)。これらの煉瓦建物群は、平成19年(2007年)に国の登録有形文化財に登録され、平成21年(2009年)には、近代化産業遺産続33(33九州窯業 – 北九州市の鉱滓煉瓦製造関連遺産)に認定された。
<中学同窓・田中文君撮影>
▼ 新興財閥「鈴木商店」の門司・大里への進出
JR門司駅から小森江駅周辺にかけて、海沿いのエリアに赤煉瓦の古い建物が立ち並ぶ。これらの煉瓦建築のほとんどは、三井・三菱財閥と並ぶ大企業として、大正期〜昭和初期に繁栄した幻の新興財閥・「鈴木商店」が関連した企業の建物である。これらの中には、門司駅前の門司麦酒煉瓦館を含む建築群「門司赤煉瓦プレイス」のように、観光地や商業施設として保存・活用されている建物もあるが、今でも現役で倉庫や工場として利用されている建物もある。
● 洋糖商人から「日本一の総合商社」に成長した「鈴木商店」
鈴木商店は、神戸の洋糖商人から始まり、財閥を圧倒しながら「日本一の総合商社」へと登りつめ、日本の明治・大正期の産業革命を牽引するものの昭和恐慌で破たんした伝説的かつ幻の商社である。すなわち、鈴木商店は、鈴木岩治郎が明治7年(1874年)に洋糖引取商として神戸で創業し、神戸有数の大貿易商にまで急成長する。しかし、明治27年(1894年)、岩治郎が急死したため、「お家さん」こと夫人の鈴木よねが後を引き継ぎ、後に財界のナポレオン・煙突男と呼ばれた金子直吉、そして柳田富士松に店を任せ、再出発した。経営を任された大番頭の金子直吉の手腕により、製糖・製粉・ビール・製鋼などの事業を展開し、後に日本NO.1の総合商社にまで登りつめる。すなわち、最盛期には日本一の売上げ(日本のGDPの約13%)を誇り、日商岩井(現・双日グループ)をはじめ、神戸製鋼所、帝人など数十社の企業の源流となった新興財閥となる。その鈴木商店の痕跡が日本で一番残っているのが、関門海峡を挟んだ両岸一帯である。
● 新興財閥「鈴木商店」の門司・大里への進出
本社を神戸に置く鈴木商店が、門司・大里へ進出した理由の一つは、洋糖商として確固たる地盤を築くためには製糖部門への進出が緊急の課題であったことである。当初、大番頭の金子直吉は、台湾民政長官・後藤新平との親しい関係から、台湾の基隆に台湾随一の製糖工場を建設しようと計画したが、後藤と鈴木との関係が議会で問題視されたため、台湾における製糖事業を断念した。一方、国内では、大日本製糖が関西糖業界を牛耳っており、これに対抗する必要があった。
折しも、当時の門司では、明治22年(1889年)、門司港が石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目を扱う国の特別輸出港に指定され、旧門司税関が設置され、明治23年(1890年)には第一船溜まりなど、港湾が整備された。(明治30年(1897年)には、その北側に第二船溜まりが完成している)。これを契機に、明治24年(1891年)に、九州で初めての鉄道会社として明治21年(1888年)に設立された九州鉄道会社が、門司−高瀬(現在の玉名駅、熊本県)間の鉄道を開通させ、門司駅(現在の門司港駅)が開業され、あわせて明治24年(1891年)、本社屋(現・九州鉄道記念館)が建設された。
時代は石炭ブームであり、港と鉄道ができたことで、九州鉄道は、石炭産出地の筑豊と積出港である門司港をつなぐ輸送手段として大きな役割を果たすことになる。そして、明治27〜28年(1894〜95年)の日清戦争を経て、門司港は九州の玄関口として、石炭の積出港として急速な発展を遂げることになる。
そして、船と鉄道の結節点となった門司港には、旧日本郵船(門司郵船ビル)や旧大阪商船(商船三井ビル)などの商船会社や大企業の金融関連会社などが結集し、それぞれの社屋が建設され、急激に市街地が形成されていった。
ちなみに、門司港は、開港後の輸出入も順調に伸び、明治34年(1901年)には貿易額で大阪に次いで全国第4位と国内有数の貿易港へ発展し、明治42年(1909年)11月5日に、旧門司税関が日本で7番目の税関として発足した。国際貿易港の一大拠点として、日清戦争後には朝鮮や台湾、その後は大連や中国大陸への航路の拠点となり、昭和10年(1935年)頃が最盛期であったという。
このように、大里地区の北側にある門司港が明治22年に国際貿易港として開港し、その2年後には鉄道が敷かれ、現在の門司港駅も開業し、港と鉄道が整い、大手財閥が競って進出しているという背景を考えれば、その利便性からして、門司港に近い大里に目を向けることは当然の成り行きだったかもしれない。すなわち、鉄道で原材料や製品を運ぶことができ、船を使っても運ぶことができる。さらには門司港から外国に輸出することも可能である。この大里エリアは、八幡製鐵所誘致の最終候補地の一つにも選ばれるほど(惜しくも製鐵所の誘致には至らなかったが)、企業においては魅力的な場所であった。製糖工場の建設地を探していた鈴木商店にとっては願ってもない魅力的な場所であったに違いない。
これらに加えて、鈴木商店が門司・大里へ進出した更なる理由は、大里の水質が製糖に適していること、豊富な石炭と労働力が得られること、原料であるジャワ糖の輸入コストを削減できることなど、大里に多くの利点が存在することであった。鈴木商店にとっては、国内で関西糖業界を牛耳っている大日本製糖に対抗するためにも、北九州・大里における大里製糖所(現・関門製糖)の設立とその成功は、究極の願いであり、大里に我が国初の臨海工場を建設する最大の理由でもあった。
鈴木商店は、明治36年、大里に大里製糖所(現関門製糖)の設立に着手した。これは、鈴木商店が本格的に生産部門に進出し多角化に進む契機となった事業でもあるが、鈴木商店と大阪辰巳屋(藤田助七)の共同出資による船出であった。試行錯誤の末、ようやく良質の砂糖の製造に漕ぎつけ、大里の砂糖は全国に普及し始めた。大里製糖所の躍進に脅威を感じた先発の日本精糖(大阪)と日本精製糖(東京)の2社は合併して「大日本製糖」を設立して対抗するが、大里の勢いは強く、圧倒された大日本製糖は大里との合併を申し入れてきた。
鈴木商店・大番頭の金子直吉は、合併に応じない代わりに、買収に応じることとし、明治40年(1907年)に大里製糖所を大日本製糖に650万円にて売却、見返りに一手販売権を取得した。こうして得た巨額の売却資金がその後の鈴木商店の発展の大きな原動力(多角化展開の原資)となった。
一方の大日本製糖は、その後も鈴木系製糖会社を始め多くの製糖会社との合併を経て現・大日本明治製糖として今日に至る。なお、旧大里製糖所のレンガ造りの工場では、大日本明治製糖(三菱系)と日本甜菜製糖の合弁会社「関門製糖」が両社の受託を受けて現在も砂糖製造を行っている。
多角化の手始めに、鈴木商店は大里の地の利を活かし、まず明治44年(1911年)に大里製粉所を設立した。後に鈴木系の札幌製粉、日本製粉、東亜製粉と合併し、日本製粉として現在に続く。
その後、大里地区の臨海部には、大里製塩所、帝國麦酒(現・サッポロビール)、麦酒瓶製造の大里硝子製造所、大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー)、大里倉庫(現・岡野バルブ製造)、大里製銅、日本冶金(現東邦金属)、神戸製鋼所・小森江工場(現神鋼メタルプロダクツ)、鈴木商店精米工場などが、また同時期に対岸の下関地区にも日本金属・彦島製錬所、彦島坩堝ほか鈴木系の工場が次々と建設され、関門地区に鈴木コンツェルンの一大工場群が建設されていった。
折しも、当時の門司では、明治22年(1889年)、門司港が石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目を扱う国の特別輸出港に指定され、旧門司税関が設置され、明治23年(1890年)には第一船溜まりなど、港湾が整備された。(明治30年(1897年)には、その北側に第二船溜まりが完成している)。これを契機に、明治24年(1891年)に、九州で初めての鉄道会社として明治21年(1888年)に設立された九州鉄道会社が、門司−高瀬(現在の玉名駅、熊本県)間の鉄道を開通させ、門司駅(現在の門司港駅)が開業され、あわせて明治24年(1891年)、本社屋(現・九州鉄道記念館)が建設された。
時代は石炭ブームであり、港と鉄道ができたことで、九州鉄道は、石炭産出地の筑豊と積出港である門司港をつなぐ輸送手段として大きな役割を果たすことになる。そして、明治27〜28年(1894〜95年)の日清戦争を経て、門司港は九州の玄関口として、石炭の積出港として急速な発展を遂げることになる。
そして、船と鉄道の結節点となった門司港には、旧日本郵船(門司郵船ビル)や旧大阪商船(商船三井ビル)などの商船会社や大企業の金融関連会社などが結集し、それぞれの社屋が建設され、急激に市街地が形成されていった。
ちなみに、門司港は、開港後の輸出入も順調に伸び、明治34年(1901年)には貿易額で大阪に次いで全国第4位と国内有数の貿易港へ発展し、明治42年(1909年)11月5日に、旧門司税関が日本で7番目の税関として発足した。国際貿易港の一大拠点として、日清戦争後には朝鮮や台湾、その後は大連や中国大陸への航路の拠点となり、昭和10年(1935年)頃が最盛期であったという。
このように、大里地区の北側にある門司港が明治22年に国際貿易港として開港し、その2年後には鉄道が敷かれ、現在の門司港駅も開業し、港と鉄道が整い、大手財閥が競って進出しているという背景を考えれば、その利便性からして、門司港に近い大里に目を向けることは当然の成り行きだったかもしれない。すなわち、鉄道で原材料や製品を運ぶことができ、船を使っても運ぶことができる。さらには門司港から外国に輸出することも可能である。この大里エリアは、八幡製鐵所誘致の最終候補地の一つにも選ばれるほど(惜しくも製鐵所の誘致には至らなかったが)、企業においては魅力的な場所であった。製糖工場の建設地を探していた鈴木商店にとっては願ってもない魅力的な場所であったに違いない。
これらに加えて、鈴木商店が門司・大里へ進出した更なる理由は、大里の水質が製糖に適していること、豊富な石炭と労働力が得られること、原料であるジャワ糖の輸入コストを削減できることなど、大里に多くの利点が存在することであった。鈴木商店にとっては、国内で関西糖業界を牛耳っている大日本製糖に対抗するためにも、北九州・大里における大里製糖所(現・関門製糖)の設立とその成功は、究極の願いであり、大里に我が国初の臨海工場を建設する最大の理由でもあった。
鈴木商店は、明治36年、大里に大里製糖所(現関門製糖)の設立に着手した。これは、鈴木商店が本格的に生産部門に進出し多角化に進む契機となった事業でもあるが、鈴木商店と大阪辰巳屋(藤田助七)の共同出資による船出であった。試行錯誤の末、ようやく良質の砂糖の製造に漕ぎつけ、大里の砂糖は全国に普及し始めた。大里製糖所の躍進に脅威を感じた先発の日本精糖(大阪)と日本精製糖(東京)の2社は合併して「大日本製糖」を設立して対抗するが、大里の勢いは強く、圧倒された大日本製糖は大里との合併を申し入れてきた。
鈴木商店・大番頭の金子直吉は、合併に応じない代わりに、買収に応じることとし、明治40年(1907年)に大里製糖所を大日本製糖に650万円にて売却、見返りに一手販売権を取得した。こうして得た巨額の売却資金がその後の鈴木商店の発展の大きな原動力(多角化展開の原資)となった。
一方の大日本製糖は、その後も鈴木系製糖会社を始め多くの製糖会社との合併を経て現・大日本明治製糖として今日に至る。なお、旧大里製糖所のレンガ造りの工場では、大日本明治製糖(三菱系)と日本甜菜製糖の合弁会社「関門製糖」が両社の受託を受けて現在も砂糖製造を行っている。
多角化の手始めに、鈴木商店は大里の地の利を活かし、まず明治44年(1911年)に大里製粉所を設立した。後に鈴木系の札幌製粉、日本製粉、東亜製粉と合併し、日本製粉として現在に続く。
その後、大里地区の臨海部には、大里製塩所、帝國麦酒(現・サッポロビール)、麦酒瓶製造の大里硝子製造所、大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー)、大里倉庫(現・岡野バルブ製造)、大里製銅、日本冶金(現東邦金属)、神戸製鋼所・小森江工場(現神鋼メタルプロダクツ)、鈴木商店精米工場などが、また同時期に対岸の下関地区にも日本金属・彦島製錬所、彦島坩堝ほか鈴木系の工場が次々と建設され、関門地区に鈴木コンツェルンの一大工場群が建設されていった。
▼ 帝国麦酒(株)の設立
明治末期、明治45年(1912年)の酒税法改正に伴い、ビール事業が大規模化され国内のビール需要が飛躍的に伸び始めたのを機に、門司市の合資会社である九州興業仲介所代表社員の山田弥八郎らは、九州で最初のビール会社設立を画策。当時、門司・大里においては、すでに製糖・製粉などの事業を展開し総合商社として隆盛を誇っていた鈴木商店(神戸市)の援助を受けた形で、大里町に工場用地を取得し、九州最初の本格的ビール会社・帝国麦酒>(株)を設立させた。翌年の大正2年(1913年)に帝国麦酒(株)工場が竣工し、醸造を開始。ブランド名「サクラビール」を発表して、ビール業界へ参入した。
その後、大正3年(1914年)7月28日に、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟とイギリス、フランス、ロシアの三国協定との対立が発端で第一次世界大戦(〜大正7年(1918年)11月11日)が勃発し、ビールの本場であるヨーロッパが戦場となり、ヨーロッパからのビール輸出が途絶えたため、帝国麦酒(株)の「サクラビール」の需要は急増し、鈴木商店のネットワークを利用して、近隣諸国だけでなく、インド、シャム(タイ王国)、アフリカ、北米など世界各国へ輸出を拡大させた(戦時バブル)。その間、大正5年(1916年)、パナマ平和博覧会で、金賞を受賞している。
大正7年(1918年)には、年間製造能力4万石の製麦場が竣工し、大里地区で最大級の工場になる。大正期、日本の4大工業地帯の1つに数えられ、大里地区は北九州一の工場都市として発展を続けたが、なかでも「帝国麦酒」は、大正9年(1920年)まで拡張・新設し、大里地区最大級の工場として、海岸線を占有するまでになった。国際港や鉄道など交通の要衝という立地条件にも恵まれ、「サクラビール」の国内外の需要は拡大していった。
しかし、この戦時バブル(=日本の大戦景気)は、大戦の終結とともに崩壊し、後に起こる昭和恐慌の発端となったのである。すなわち、ヨーロッパの製品がアジア市場に戻って来て、大正9年(1920年)には戦後恐慌が発生した。それが終息に向かおうとしていた矢先、大正11年(1922年)の銀行恐慌、大正12年(1923年)には関東大震災が次々と起こって再び恐慌に陥った(震災恐慌)。さらに、関東大震災による経済の混乱がおさまらない中、昭和2年(1927年)、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招き、銀行の破綻に端を発した昭和金融恐慌が発生、さらに続いて昭和4年(1929年)10月にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌が日本にも影響を及ぼし、翌昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた。すなわち、戦前の日本における最も深刻な恐慌、いわゆる昭和恐慌を引き起こした。
この昭和恐慌は鈴木商店にも波及し、鈴木商店は破綻することになったが、帝国麦酒(株)は経営の危機を乗り越え、サクラビールは、日本第3位のビール会社として約1割のシェアを維持し、約30年間販売が続いた。その間、世界恐慌が起きた昭和4年(1929年)には、帝国麦酒からビールブランドである「桜麦酒」に社名変更し、昭和10年(1935年)には新聞等による公募でマスコット「保呂利陽太」を決定している。
しかし、第二次世界大戦中は、ビールの原材料が逼迫し、昭和18年(1943年)には会社工場ともに大日本麦酒に統合される(戦時統合)。終戦後、門司の工場は日本麦酒(株)側に分割され、その後、サッポロビールの九州工場として稼働したが、老朽化等により、平成8年(1996年)、大分県日田市の新九州工場(現:九州日田工場)への移転が決定し、平成12年(2000年)、新工場竣工に伴って旧・九州工場は閉鎖となった。創業以来、「桜麦酒」『大日本麦酒』「日本麦酒」「サッポロビール」と社名変更、合併、分割と会社形態の変遷をたどりながらも北九州門司の産業を支え続けてきた大里地区最大級の工場であるが、この地における87年間のビール製造の歴史に幕を閉じた。現在は、門司麦酒煉瓦館をはじめとする「門司赤煉瓦プレイス」として生まれ変わり、九州唯一のビール資料館として、鈴木商店時代からの創業の歴史などを展示している。
その後、大正3年(1914年)7月28日に、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟とイギリス、フランス、ロシアの三国協定との対立が発端で第一次世界大戦(〜大正7年(1918年)11月11日)が勃発し、ビールの本場であるヨーロッパが戦場となり、ヨーロッパからのビール輸出が途絶えたため、帝国麦酒(株)の「サクラビール」の需要は急増し、鈴木商店のネットワークを利用して、近隣諸国だけでなく、インド、シャム(タイ王国)、アフリカ、北米など世界各国へ輸出を拡大させた(戦時バブル)。その間、大正5年(1916年)、パナマ平和博覧会で、金賞を受賞している。
大正7年(1918年)には、年間製造能力4万石の製麦場が竣工し、大里地区で最大級の工場になる。大正期、日本の4大工業地帯の1つに数えられ、大里地区は北九州一の工場都市として発展を続けたが、なかでも「帝国麦酒」は、大正9年(1920年)まで拡張・新設し、大里地区最大級の工場として、海岸線を占有するまでになった。国際港や鉄道など交通の要衝という立地条件にも恵まれ、「サクラビール」の国内外の需要は拡大していった。
しかし、この戦時バブル(=日本の大戦景気)は、大戦の終結とともに崩壊し、後に起こる昭和恐慌の発端となったのである。すなわち、ヨーロッパの製品がアジア市場に戻って来て、大正9年(1920年)には戦後恐慌が発生した。それが終息に向かおうとしていた矢先、大正11年(1922年)の銀行恐慌、大正12年(1923年)には関東大震災が次々と起こって再び恐慌に陥った(震災恐慌)。さらに、関東大震災による経済の混乱がおさまらない中、昭和2年(1927年)、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招き、銀行の破綻に端を発した昭和金融恐慌が発生、さらに続いて昭和4年(1929年)10月にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌が日本にも影響を及ぼし、翌昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた。すなわち、戦前の日本における最も深刻な恐慌、いわゆる昭和恐慌を引き起こした。
この昭和恐慌は鈴木商店にも波及し、鈴木商店は破綻することになったが、帝国麦酒(株)は経営の危機を乗り越え、サクラビールは、日本第3位のビール会社として約1割のシェアを維持し、約30年間販売が続いた。その間、世界恐慌が起きた昭和4年(1929年)には、帝国麦酒からビールブランドである「桜麦酒」に社名変更し、昭和10年(1935年)には新聞等による公募でマスコット「保呂利陽太」を決定している。
しかし、第二次世界大戦中は、ビールの原材料が逼迫し、昭和18年(1943年)には会社工場ともに大日本麦酒に統合される(戦時統合)。終戦後、門司の工場は日本麦酒(株)側に分割され、その後、サッポロビールの九州工場として稼働したが、老朽化等により、平成8年(1996年)、大分県日田市の新九州工場(現:九州日田工場)への移転が決定し、平成12年(2000年)、新工場竣工に伴って旧・九州工場は閉鎖となった。創業以来、「桜麦酒」『大日本麦酒』「日本麦酒」「サッポロビール」と社名変更、合併、分割と会社形態の変遷をたどりながらも北九州門司の産業を支え続けてきた大里地区最大級の工場であるが、この地における87年間のビール製造の歴史に幕を閉じた。現在は、門司麦酒煉瓦館をはじめとする「門司赤煉瓦プレイス」として生まれ変わり、九州唯一のビール資料館として、鈴木商店時代からの創業の歴史などを展示している。
■ 復元・保存への道
門司・大里に、九州で最初のビール会社として誕生した帝国麦酒株式会社門司工場は、大正2年(1913年)4月に竣工して以来、「桜麦酒」『大日本麦酒』「日本麦酒」「サッポロビール」と社名変更、合併、分割と会社形態の変遷をたどりながらも北九州門司の産業を支え続けてきた大里地区最大級の工場であるが、老朽化等により、平成12年(2000年)、大分県日田市の新九州工場(現:九州日田工場)の竣工と同時に、旧・門司工場は閉鎖となり、創業以来、この地における87年間のビール製造の歴史に幕を閉じた。
閉鎖された帝国麦酒株式会社門司工場跡の土地及び建物の扱いについては、北九州市等により検討が行われ、JR門司駅の構内遊休地と併せて再開発を行うことが決定された。すなわち、事業の実施は平成12年度〜平成18年度にわたる「北九州都市計画事業大里本町土地区画整理事業」の一環として基盤整備を行い、建物の保存と活用に関しては建設省の平成12年度より創設の「まちづくり総合支援事業」を適用して、記念施設として保存・整備する。また、敷地はサッポロビール所有のままの部分と北九州市が同社より無償譲渡で取得した部分があり、北九州市が無償譲渡で取得した部分については平成17年(2005年)にまず旧工場事務所を転用した門司麦酒煉瓦館が先行開業させ、管理運営をJR九州メンテナンスに委託する。他施設は翌平成18年(2006年)に開業させ、サッポロビールよりNPO法人赤煉瓦倶楽部が無償譲渡で取得して管理運営をする。
閉鎖された帝国麦酒株式会社門司工場跡の土地及び建物の扱いについては、北九州市等により検討が行われ、JR門司駅の構内遊休地と併せて再開発を行うことが決定された。すなわち、事業の実施は平成12年度〜平成18年度にわたる「北九州都市計画事業大里本町土地区画整理事業」の一環として基盤整備を行い、建物の保存と活用に関しては建設省の平成12年度より創設の「まちづくり総合支援事業」を適用して、記念施設として保存・整備する。また、敷地はサッポロビール所有のままの部分と北九州市が同社より無償譲渡で取得した部分があり、北九州市が無償譲渡で取得した部分については平成17年(2005年)にまず旧工場事務所を転用した門司麦酒煉瓦館が先行開業させ、管理運営をJR九州メンテナンスに委託する。他施設は翌平成18年(2006年)に開業させ、サッポロビールよりNPO法人赤煉瓦倶楽部が無償譲渡で取得して管理運営をする。
▼ 北九州都市計画事業大里本町土地区画整理事業
● 事業の趣旨:
■ NPOが中核となって歴史的産業遺産を保存・活用
1)保存したレンガ建物群は、西日本における麦酒製造発祥の地として歴史的にも、また建築的意匠においても価値を有する建造物である。2)こうした建物を、街づくり総合支援事業を活用して修復した後、NPOが従前の所有者より無償譲渡などを受け、その後の管理運営を担う。
■ 周辺一体の整備のトリガーとなる先導事業
本企画は、門司港に臨む工場・ヤード跡地の一角にあり、土地区画整理事業によって地区全体の土地を転換利用するための先導的な事業であり、沿道型商業施設(35,400u)、戸建て住宅や低層・中高層住宅(67,700u)など、総合的なまちづくりを牽引するものである。
1)保存したレンガ建物群は、西日本における麦酒製造発祥の地として歴史的にも、また建築的意匠においても価値を有する建造物である。2)こうした建物を、街づくり総合支援事業を活用して修復した後、NPOが従前の所有者より無償譲渡などを受け、その後の管理運営を担う。
■ 周辺一体の整備のトリガーとなる先導事業
本企画は、門司港に臨む工場・ヤード跡地の一角にあり、土地区画整理事業によって地区全体の土地を転換利用するための先導的な事業であり、沿道型商業施設(35,400u)、戸建て住宅や低層・中高層住宅(67,700u)など、総合的なまちづくりを牽引するものである。
● 事業概要:
「北九州都市計画事業大里本町土地区画整理事業」の概要は、1)事業年度:平成12年度〜平成18年度(清算期間1年を含む)、2)事業主体:北九州市大里本町土地区画整理組合(組合12名) 恵比寿ガーデンプレイス株式会社、九州旅客鉄道株式会社、九州旅客鉄道株式会社、王子不動産株式会社、清和肥料工業株式会社、九州海陸運送協同組合、北九州市住宅供給公社、若葉建設株式会社 他、3)総事業費:約150億円、4)事業概要:公共施設として、@ 都市計画道路(改築:国道199号)(新設:門司駅北口駅前線)(新設:大里本町通り線)(新設:歩行者専用道路13号線)、A 駅前広場:民間施設、B 中高層マンション、戸建て住宅等、C 商業施設、アミューズメント施設、飲食施設等、D 計画人口:1,200人(500戸)であった。
▼ まちづくり総合支援事業
また、平成12年度より開始された建設省創設の「まちづくり総合支援事業」の補助内容は、1)事業主体:市町村、2)平成12年度予算額:35,000百万円、3)要件(事業計画策定の場合は@のみ):@ 地域の抱える課題の解決のために、総合的なまちづくりが必要であると認められること。A まちづくり事業計画が市町村により策定されていること。
※中心市街地の活性化等の特定の重要課題解決のために連携して行われることにより相乗効果が期待でき、又は相互に補完しあうことが期待できる各種市町村事業及びこれらと関連して一体的・総合的に推進すべき関連事業を記載した「まちづくり事業計画」(以下、事業計画)を市町村が策定。4)対象事業:@ 調査:事業計画策定、特定事業調査、A 施設:道路、都市公園、下水道、河川、駐車場、駐車場有効利用システム、地域生活基盤施設、高質空間形成施設、高次都市施設、B 面整備:土地区画整理事業、市街地再開発事業、住宅街区整備事業、地区再開発事業、5)支援措置:@ 個々の事業ではなく、事業計画に基づき一括採択し、年度毎に総額で補助金を交付。※事業計画の範囲内であれば、具体の配分・変更は市町村の裁量に委ね、事業執行の自由度を拡大。A ハード事業から、まちに魅力と潤いをもたらすソフト事業まで、多彩なメニューで支援。B 補助率は、メニューごとに従来事業の率を適用。というものであった。
※中心市街地の活性化等の特定の重要課題解決のために連携して行われることにより相乗効果が期待でき、又は相互に補完しあうことが期待できる各種市町村事業及びこれらと関連して一体的・総合的に推進すべき関連事業を記載した「まちづくり事業計画」(以下、事業計画)を市町村が策定。4)対象事業:@ 調査:事業計画策定、特定事業調査、A 施設:道路、都市公園、下水道、河川、駐車場、駐車場有効利用システム、地域生活基盤施設、高質空間形成施設、高次都市施設、B 面整備:土地区画整理事業、市街地再開発事業、住宅街区整備事業、地区再開発事業、5)支援措置:@ 個々の事業ではなく、事業計画に基づき一括採択し、年度毎に総額で補助金を交付。※事業計画の範囲内であれば、具体の配分・変更は市町村の裁量に委ね、事業執行の自由度を拡大。A ハード事業から、まちに魅力と潤いをもたらすソフト事業まで、多彩なメニューで支援。B 補助率は、メニューごとに従来事業の率を適用。というものであった。
▼「門司赤煉瓦プレイス」として再生
上述のごとく、事業の基盤整備は「北九州都市計画事業大里本町土地区画整理事業」として実施し、歴史的建造物の保存と活用に関しては、建設省創設の「まちづくり総合支援事業」の補助により「門司赤煉瓦プレイス」と銘打って、記念施設として保存・整備が実施された。
本事業は、保存した旧帝国麦酒工場(旧サッポロビール九州工場)のレンガ建物群は、西日本における麦酒製造発祥の地として歴史的にも、また建築的意匠においても価値を有する建造物である。これらを「門司赤煉瓦プレイス」として、大里本町地区のまちづくりの中核施設として保存、活用するために整備を行なうものである。
すなわち、事務所棟を展示施設や市民ギャラリーに、倉庫群を広く市民に開放されたホールや会議室としての地域交流ゾーンとビアレストランとしての飲食物販ゾーンに整備するものである。具体的には、旧帝国麦酒事務所棟が展示施設や市民ギャラリーとして「門司麦酒煉瓦館」に、旧帝国麦酒仕込み場が記念施設として「旧サッポロビール醸造棟」に、旧変電所のちに旧組合棟が観光物産コーナーとして「赤煉瓦物産館」のちに「赤煉瓦写真館」に、旧倉庫棟が地域交流センターやビアレストランとして活用する「赤煉瓦交流館」に整備される。
こうして、帝国麦酒門司工場(事務所棟、仕込場、組合棟、倉庫))跡は、「門司赤煉瓦プレイス」として、建物は記念施設として保存・整備され、平成17年(2005年)5月21日に門司麦酒煉瓦館(旧帝国麦酒門司工場事務所)をはじめ、旧サッポロビール醸造棟(旧帝国麦酒仕込棟)、当初赤煉瓦物産館のちに赤煉瓦写真館(旧変電所、旧組合棟)、 赤煉瓦交流館(旧倉庫棟)などが部分オープンし、平成18年1月にその他の施設もオープン(フルオープン)した。(都市みらい推進機構理事長賞)
本事業は、保存した旧帝国麦酒工場(旧サッポロビール九州工場)のレンガ建物群は、西日本における麦酒製造発祥の地として歴史的にも、また建築的意匠においても価値を有する建造物である。これらを「門司赤煉瓦プレイス」として、大里本町地区のまちづくりの中核施設として保存、活用するために整備を行なうものである。
すなわち、事務所棟を展示施設や市民ギャラリーに、倉庫群を広く市民に開放されたホールや会議室としての地域交流ゾーンとビアレストランとしての飲食物販ゾーンに整備するものである。具体的には、旧帝国麦酒事務所棟が展示施設や市民ギャラリーとして「門司麦酒煉瓦館」に、旧帝国麦酒仕込み場が記念施設として「旧サッポロビール醸造棟」に、旧変電所のちに旧組合棟が観光物産コーナーとして「赤煉瓦物産館」のちに「赤煉瓦写真館」に、旧倉庫棟が地域交流センターやビアレストランとして活用する「赤煉瓦交流館」に整備される。
こうして、帝国麦酒門司工場(事務所棟、仕込場、組合棟、倉庫))跡は、「門司赤煉瓦プレイス」として、建物は記念施設として保存・整備され、平成17年(2005年)5月21日に門司麦酒煉瓦館(旧帝国麦酒門司工場事務所)をはじめ、旧サッポロビール醸造棟(旧帝国麦酒仕込棟)、当初赤煉瓦物産館のちに赤煉瓦写真館(旧変電所、旧組合棟)、 赤煉瓦交流館(旧倉庫棟)などが部分オープンし、平成18年1月にその他の施設もオープン(フルオープン)した。(都市みらい推進機構理事長賞)
● 門司赤煉瓦プレイス事業概要:
○ 名称 門司麦酒煉瓦館、赤煉瓦交流館
○ 所在地 北九州市門司区大里本町3丁目6番1号(旧事務所棟)
○ 事業名 まちづくり総合支援事業(大里地区)
○ 事業主体 恵比寿ガーデンプレイス(株)、大里本町土地区画整理組合
○ 事業期間 平成15年〜平成17年
○ 所在地 北九州市門司区大里本町3丁目6番1号(旧事務所棟)
○ 事業名 まちづくり総合支援事業(大里地区)
○ 事業主体 恵比寿ガーデンプレイス(株)、大里本町土地区画整理組合
○ 事業期間 平成15年〜平成17年
● 事業の経緯:
・平成8年に北九州工場の移転計画を発表
・これを機に、隣接する旧国鉄操車場跡地を含めた地区整備の検討委員会が発足
・平成12年に土地区画整理事業の都市計画決定、組合発足
・煉瓦建物保存のためのNPO設立活動も始まる
・平成14年、整備方針を決定
・平成15年改修工事着手、門司赤煉瓦倶楽部 特定非営利活動法人の認証を受ける
・平成17年、門司麦酒煉瓦館、赤煉瓦館オープン、平成18年その他の施設もオープン
・平成17年度来館者数 約19,000人(平成17年5月:部分オープン、平成18年1月:フルオープン)
・これを機に、隣接する旧国鉄操車場跡地を含めた地区整備の検討委員会が発足
・平成12年に土地区画整理事業の都市計画決定、組合発足
・煉瓦建物保存のためのNPO設立活動も始まる
・平成14年、整備方針を決定
・平成15年改修工事着手、門司赤煉瓦倶楽部 特定非営利活動法人の認証を受ける
・平成17年、門司麦酒煉瓦館、赤煉瓦館オープン、平成18年その他の施設もオープン
・平成17年度来館者数 約19,000人(平成17年5月:部分オープン、平成18年1月:フルオープン)
▼ 大里本町地区の住宅市街地総合整備事業
● 事業の内容:
大里本町地区は、小倉都心と観光拠点門司港レトロ地区との中間に位置し、JR門司駅に隣接する利便性の高い地区である。しかし、平成12年、サッポロビール九州工場の移転を契機に、現在は未利用地化する状況にある。
当事業は、土地区画整理事業を併用しながら、この大規模工場跡地を市民に開放すべく土地利用の転換を進めるものであり、小倉都心部まで5分のJR門司駅に隣接する立地条件を活かし、都心居住の定着を図るため幅広い需要に対応した多様な住宅の供給を誘導促進する。また、駅南側に拡がる既成市街地との機能分担を図りながら、駅を中心とした商業、業務及び住宅の調和のとれた魅力ある文化性の高い地区整備を行うものである。
当事業は、土地区画整理事業を併用しながら、この大規模工場跡地を市民に開放すべく土地利用の転換を進めるものであり、小倉都心部まで5分のJR門司駅に隣接する立地条件を活かし、都心居住の定着を図るため幅広い需要に対応した多様な住宅の供給を誘導促進する。また、駅南側に拡がる既成市街地との機能分担を図りながら、駅を中心とした商業、業務及び住宅の調和のとれた魅力ある文化性の高い地区整備を行うものである。
● 計画の概要:
1)事業箇所:北九州市門司区大里本町三丁目 他、2)事業面積:約21.9ヘクタール(拠点開発区域約19.0ヘクタール)、3)事業主体:北九州市、北九州市住宅供給公社、民間他、4)事業期間:平成17年度〜平成25年度、5)総事業費:約140億円、6)事業内容:住宅建設戸数(平成26年3月時点の実績)。建設着工戸数:827戸(共同(民間/市公社)分譲集合住宅:389戸、民間分譲集合住宅:171戸、民間賃貸集合住宅:49戸、民間分譲戸建住宅:218戸)公共公益施設:道路、公園。
▼ 当時のままに復元され「門司麦酒煉瓦館」として再生
西日本最古の麦酒工場である門司工場の事務所棟は、当時の姿のままに改装され、「門司麦酒煉瓦館」として生まれ変わり、保存活用されている。その外観は、ドイツ城郭風の装飾の多い有機的な外観で、また内部も工場幹部の執務室や来客用の迎賓館的な役割を兼ねていたため、華麗な設計になっている。星形のシャンデリアがあり、マントルピース(暖炉)が多く、設立当初は1階に5か所、2階に3か所あったという。天井は細かな模様が型押しされた鉄板を組み合わせて塗装した「鉄の打ち出し細工」となっており、現在ではこのような装飾板は製造されておらず、非常にめずらしいものである。復元においては、取り外してかつての天井の色に塗装し直されている。
また、復元にあたっては、旧材を再利用することが遵守され、階段手すりの親柱には、「サクラビール」の象徴である桜の花弁の彫刻が施されており、階段には、ケヤキの一枚板が使用されている。また、段板を受け支える「ささらげた」(階段両側の斜めの板材)は、一本木が使用された貴重なものであるが、板は曲がり、ねじれて変形しており、少し上がりにくくなっている。
また、復元にあたっては、旧材を再利用することが遵守され、階段手すりの親柱には、「サクラビール」の象徴である桜の花弁の彫刻が施されており、階段には、ケヤキの一枚板が使用されている。また、段板を受け支える「ささらげた」(階段両側の斜めの板材)は、一本木が使用された貴重なものであるが、板は曲がり、ねじれて変形しており、少し上がりにくくなっている。
■ 館内施設
西日本最古の麦酒工場である門司工場の事務所棟は、当時の姿のままに改装され、「門司麦酒煉瓦館」として生まれ変わり、九州唯一のビール資料館として平成17年5月21日にオープンした。鈴木商店時代からの創業の歴史などが展示されている。現在、館内は帝国麦酒やサッポロビール九州工場の歴史などについての展示室と貸しギャラリーになっている。
1階の大正浪漫の部屋には、大正3年(1914年)、第1次世界大戦勃発による帝国麦酒(株)の「サクラビール」の需要急増、鈴木商店のネットワークを利用して、近隣諸国だけでなく、インド、シャム(タイ王国)、アフリカ、北米など世界各国へ輸出を拡大させた戦時バブル、その間、大正5年(1916年)、醸造場の拡張工事が完了、パナマ平和博覧会での金賞受賞などの歴史を展示している。
2階の昭和・平成浪漫の部屋には、明治45年の「帝国麦酒」設立から、「桜麦酒」『大日本麦酒』「日本麦酒」「サッポロビール」と社名変更、合併、分割と会社形態の変遷をたどりながらも北九州門司の産業を支え続けてきた大里地区最大級の工場の平成12年(2000年)の閉鎖に至る87年間のビール製造の歴史などが展示されている。また、同じ昭和・平成浪漫の部屋には、昭和46年(1967)のポスターや昭和50年代のサッポロビールのポスターが展示されている。2階の交流サロンは来客用の迎賓館的な役割を兼ねていたため、華麗な設計になっており、星形のシャンデリア、多くのマントルピース(暖炉)、天井は細かな模様が型押しされた鉄板を組み合わせて塗装した「鉄の打ち出し細工」となっている。
1階の大正浪漫の部屋には、大正3年(1914年)、第1次世界大戦勃発による帝国麦酒(株)の「サクラビール」の需要急増、鈴木商店のネットワークを利用して、近隣諸国だけでなく、インド、シャム(タイ王国)、アフリカ、北米など世界各国へ輸出を拡大させた戦時バブル、その間、大正5年(1916年)、醸造場の拡張工事が完了、パナマ平和博覧会での金賞受賞などの歴史を展示している。
2階の昭和・平成浪漫の部屋には、明治45年の「帝国麦酒」設立から、「桜麦酒」『大日本麦酒』「日本麦酒」「サッポロビール」と社名変更、合併、分割と会社形態の変遷をたどりながらも北九州門司の産業を支え続けてきた大里地区最大級の工場の平成12年(2000年)の閉鎖に至る87年間のビール製造の歴史などが展示されている。また、同じ昭和・平成浪漫の部屋には、昭和46年(1967)のポスターや昭和50年代のサッポロビールのポスターが展示されている。2階の交流サロンは来客用の迎賓館的な役割を兼ねていたため、華麗な設計になっており、星形のシャンデリア、多くのマントルピース(暖炉)、天井は細かな模様が型押しされた鉄板を組み合わせて塗装した「鉄の打ち出し細工」となっている。