郷里の氏社・戸上神社|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

郷里の氏社・戸上神社

郷里の氏社・戸上神社(門司・大里)

■ 戸上神社
御祭神:(主祭三柱)天御中主神、伊邪那岐神、伊邪那美神 (合祀十七柱)奥津日子神、奥津比売神、須佐之男神、大山祇神、大穴牟遅神、少名比古那神、豊日別命、宇迦之御魂神、保食神、高淤加美神、高淤加美命、闇淤加美命、罔象女神、建御名方神、猿田彦神、安徳天皇、平宗盛

戸上神社

境内案内 神社HPより
戸上神社(とのえじんじゃ)は、北九州市門司区の最高峰・戸上山(海抜521m)の山頂に「上宮」、麓に「本宮」が鎮座し、同一祭神を奉祀している1100年余りの歴史を持つ緑に囲まれた神社であり、幼少の頃より、毎年新年の初詣に行っていた氏神神社である。

神社の御由緒では、宇多天皇の寛平年間(889〜898年)、約1100余年の昔、宇多天皇の御勅旨により、鎮西の霊峰・戸上山上に天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、伊邪那美神(いざなみのかみ)の三柱の大神を奉祀したことに始まると伝えている。奉祀の際、御霊代(みたましろ)を枝折戸(しおりど)に奉戴して山上に奉安したことから、山の名を戸上と号し、神社を戸上神社と称するようになったという。また、寛平元年(898年)、馬寄村の漁夫の網にかかった御神像を枝折戸に奉載して山上に奉ったことから戸上神社となり、山名を戸上山と称するようになったという説も伝わっている。
他に合祀されている十七柱は、奥津日子神、奥津比売神、須佐之男神、大山祇神、大穴牟遅神、少名比古那神、豊日別命、宇迦之御魂神、保食神、高淤加美神、高淤加美命、闇淤加美命、罔象女神、建御名方神、猿田彦神、安徳天皇、平宗盛である。

神仏習合の名残で、境内には戸上神社の隣に「満隆寺(まんりゅうじ)」というお寺がある。このお寺は平安初期、空海(弘法大師)が戸上山に霊感を感じ創建したと伝えられている。縁起書によれば、平城天皇の大同元年(西暦806年)、弘法大師が唐より帰朝の折、関門海峡を通過中、船中より戸上山を仰ぎ、霊感を感じ、当地に下船して、この霊峰に登り密法を修め、山麓に一宇を建立し、随身供養の観音像を安置されたのが起源であるという。
境内には大師堂大日如来像、小笠原忠真公奉納の十二神将などがある。

江戸時代には、小倉藩主の細川家小笠原家、筑後久留米藩主の有馬家など、近世歴代の藩主の崇敬は篤く、国家安穏、天下太平、五穀豊穣と江戸参勤上下の節は海陸交通の安全、武運長久を祈願し、御神徳に感謝し、数々の寄進をしている。また藩主のみならず庶民の崇敬も著しく、古来より大里町民は戸上権現様と称し、海陸交通安全、商売繁盛、家内安全を祈願し、御神徳に感謝し崇敬も篤い。
▼ 戸上神社由緒石碑
戸上神社 
御祭神
 天御中主神 伊邪那岐神 伊邪那美神 外十七柱
御由緒
 宇多天皇寛平年間(約壱千余年前)御神託により創建す 奉祀の際御霊代を枝折戸に奉戴して 山頂に奉安せしに因り 宮を戸上神社と号するに至れり
 江戸時代 小倉藩主細川公 小笠原公の尊崇篤く 社殿造営社領寄進等あり また参勤交代にて九州諸大名大里の宿場通過の砌 武運長久海陸交通安全を祈願せり
 旧柳郷(大里)の氏子は古来戸上権現と称し 開運長寿産業興隆の鎮守の社として崇め奉り 霊験著しく今日に至れり
 満隆寺については裏面に略記す 
例大祭 十月二十日〜二十三日

裏面には、

満隆寺略記
 戸上山満隆寺縁起によれば 平城天皇の大同元年(西暦八〇六)弘法大師唐より帰朝の砌 関門海峡を御通線船 霊峰を望見し当地に御上陸 密法を修行され 山麓に一字を建立 満隆寺と号す
 世移り戦国時代 大友の兵火に罹り 堂字僧坊悉く灰燼に帰す 江戸時代 修験道に属せしも明治初年神仏分離の制度となり 戸上神社として今日に至る 現在の大師堂は満隆寺の名残と伝えられる
鳥居の寄進
 正徳元年(西暦一七一一)筑後久留米藩主有馬公船屋敷衆 石の鳥居を寄進す 
 現存の古い一の鳥居なり
 昭和五十一年四月吉日
<中学同窓・田中文君撮影>

戸上神社 

戸上神社 

久留米藩主有馬公寄進の大鳥居

戸上神社 

戸上神社 拝殿

拝殿 奥に御神殿

戸上神社 

戸上神社 

喜代茂稲荷神社
2018.12.5 12.30〜撮影
▼ 戸上山山頂から見た関門海峡
<中学同窓・田中文君撮影>

戸上山から見た関門海峡

戸上山山頂から見た関門海峡 正面は彦島 彦島の右端の小さな離れ島が巌流島
2009.4.27 14.50〜撮影

門司駅、赤レンガプレイス方面

門司駅、赤レンガプレイス方面

矢筈山より大里小倉方面

矢筈山より大里小倉方面

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