東京大学医学部を辞し、静岡県立大学へ赴任の経緯(Rel)部分(構成)|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

新設の静岡県立大学へ赴任した経緯

東京大学医学部(客員教授として長期米国出張中)を辞し、新設の静岡県立大学へ

■ 東京大学医学部(客員教授として長期海外出張中)を辞し、新設の静岡県立大学へ赴任した経緯
Background that quit Faculty of Medicine, the University of Tokyo (during long-term overseas business trip as a visiting professor in the United States) and appointed to a newly established University of Shizuoka
東京大学大学院時代は、ガスクロマトグラフィーによる糖類の超微量(ナノグラムレベル)分析法を開発し、血液型物質(抗原)(血液型の決定は抗原である糖タンパク質の糖鎖末端の種差によることを証明) 、がん特異抗原(フコース多含の糖タンパクを発見し、このフコシダーゼが「がんマーカー」となる)、膜情報伝達系に関与する細胞表面抗原(糖タンパク質や糖脂質)などを分離精製し、その糖鎖構造の解析を行っていた。

医学部衛生学教室の助手に就任し、予防医学の研究に関わり始めてからは、その中心的概念ならびに手法は中毒学であり、リスクアセスメント確立のための毒性学(トキシコロジー)であった。1965〜1975年当時の日本はヒ素、鉛、水銀、カドミウムなどの重金属を中心とした公害大国であり、社会医学の対象領域も伝染病に替わり、環境汚染を対象とした公害研究が主流であった。

従って、予防医学に携わり始めた1974年以降は、サイドワークとして、種々の公害問題に関わることになった。◉ 食品公害問題では、台湾におけるPCB中毒(油症)事件の招聘研究指導(台湾政府委託)、◉ 大気汚染問題では、NOx排気ガス規制(3年間、福田赳夫総理、通産省委託)の政府諮問委員としての安全性評価、◉ 食品衛生問題では、プラスチック製食器・食品包装材等の安全性評価およびプラスチック添加剤(安定化剤、可塑剤、硬化剤など、のちに言う環境ホルモン物質多含:この中に有機スズも触媒剤として含まれていた)の安全性に関する研究(5年間、美濃部亮吉都知事・東京都委託)などに身を以って関わって来たが、これら一連の環境問題は大半が「後追い対策」であることに気付き、予防医学としての「前向き対策」を考え始めた。

そこで、10年先を見据え、自然界や食物連鎖を通して安定に残存し得る物質(すなわち、酸素、炭酸ガス、水などに対して安定な物質)をポーリング(Pauling)の電気陰性度などを駆使して選出し、電気陰性度1.7~2.0に入るカドミウム、ケイ素、ゲルマニウム、鉛、スズ、アンチモン、水銀、ビスマス、ヒ素、ホウ素などの有機金属の中から、産業界での頻用度を考慮しながら、10年先までに問題となる物質(先行環境汚染物質)として、「有機スズ」を取り上げ、本腰を入れて、スズの研究を開始した。

すなわち、当時、問題視されていた水銀、鉛の代替として、産業界ではプラスチックなど高分子化学の触媒剤として、また農林水産業界では防腐剤、防汚船底塗料、殺菌剤、殺虫剤、殺黴剤、殺藻剤、殺ダニ剤などにおいて広範囲に頻用され、その利用量は米国に次いで世界第2位であることを見出し、今後頻用され得る物質はスズ、特に有機スズであると予測した。

まず、世界各国から各種スズ化合物の標準品を1〜2年がかりで買い集め、それらの分析法(ガスクロマトグラフィー、高速液体クロマトグラフィー、スズ特異蛍光試薬の発明ならびにその試薬による蛍光液体クロマトグラフィー、蛍光組織染色法など)を開発し、生体組織内代謝(吸収、分布、貯留、代謝、分解、排泄など)や蛍光顕微鏡下での同様の細胞内代謝の解析を手始めに、各種生体機能(脳神経系、免疫系、内分泌系など)に対する有用性(栄養、薬効)や有害性(毒)を中心に、スズ化合物の「生物活性」を丸ごと把握する研究から開始した。

すると、3年後には、この研究が有機スズのプラスチック製品からの溶出による食品衛生上の安全性を懸念するWHO特別委員会船底塗料(あるいは漁網塗料)からの溶出による海洋汚染を問題視する米国商務省標準局(NBS)および海軍研究所などの目に留まり、これらの機関および研究助成によるロックフェラー大学など全米の大学からの招聘、講演、研究協力依頼などへと発展し、国際的規模の有機スズ海洋汚染に関する研究の発端となった。そして、さらにこの海洋汚染は性転換や生殖機能障害誘発による「生態系の破壊」から環境ホルモン(内分泌かく乱物質)の問題へと発展した。

詳細研究を続ける中で、有機スズは、脳神経系免疫系内分泌系などの生体機能のいずれに対しても強力な生物活性を持っていることが分かり、これらの毒性学的研究から、異性体(ジ体とトリ体)による差はあるが、脳神経系では記憶学習障害嗅覚障害(アルツハイマー酷似症状)、血液脳関門の老化、免疫系では胸腺ならびに胸腺依存性部位の選択的委縮T細胞依存性免疫機能の抑制、内分泌系では精巣委縮テストステロン量の低下などの生殖機能障害、などを誘発することを見出した。

さらに、その発現メカニズムの解析から、1)ヒスタミン・セロトニン系の第1相の炎症ではなく、ハイドロコーチゾンと類似の第2相のプロスタグランジン系を量依存性に抑制する抗炎症作用を発見した。(これは、副作用の多いハイドロコーチゾンに代わる非ステロイド系の抗炎症剤となり得るかもしれないということで、ノーベル賞授与のカロリンスカ研をはじめ、500通あまりの参考文献依頼と講演依頼が届いた)。
そして、無機・有機(金属)化学の生物活性を探究する国際学会などにおいて(とくに最高峰とされる3年に1度開催のヨーロッパ化学会連盟主催(担当国:イタリア)やNATO連盟主催最先端研究(担当国:ベルギー)の国際会議における特別招待講演などにおいて)、自ら招待講演を熟すと共に、各国多数の研究者からの称賛講演や会場でのスタンデイングオベーションを賜った。

2)また、亜鉛の活性部位(貯留部位)におけるスズによる置き替わりを見出し、亜鉛欠乏の発症メカニズムを並行して詳細に検討した結果、有機スズ暴露亜鉛欠乏が類似症状(脳機能・記憶障害、免疫機能障害、嗅覚障害、味覚障害、生殖機能障害、脱毛障害など)を呈することを発見した。しかも、それぞれの発症メカニズムを比較解析した結果、両者の症状発現プロセスには、共通の接点(膜情報伝達系、RNA・DNA合成系の阻害を介する細胞増殖抑制の系および酸化ストレスやミトコンドリア機能障害等に絡むカスパーゼ依存性のアポトーシスの経路など)が存在することを発見した。

すなわち、ジ体暴露の場合は細胞内リン脂質の輸送や代謝を阻害し、膜介在の増殖情報伝達系ならびにRNA・DNA合成系を障害するネクローシスが主(抗がん剤へと発展)であり、亜鉛欠乏との接点は主としてRNA・DNA合成系の障害を介する細胞増殖抑制であるが、トリ体暴露と亜鉛欠乏との接点は、スズによる海馬亜鉛の消失の如きスズと亜鉛の置き換わりによる記憶学習障害やカルシウム過剰蓄積による嗅覚障害や血液脳関門の破壊なども見られるが、これらの現象も含め、脳神経系や血液脳関門、嗅覚神経系など感覚神経系に見られる細胞死は、いずれも酸化ストレスを介して、ミトコンドリア機能障害からカスパーゼ・カスケードの活性化、そして最終的にはDNAの断片化へと進むアポトーシスの経路を発見した。

併せて、スズ暴露と亜鉛欠乏の発症メカニズムにおける共通の現象として、亜鉛結合部位での亜鉛とスズの置き換わりの如き活性部位における微量元素間置き替わりや相互作用による局所的過剰蓄積(スズ、カルシウム、銅、鉄など)や欠乏(亜鉛)など、元素バランスの異常な攪乱が見られ、これが酸化ストレス小胞体ストレスを誘発し、下流の不利反応の引きがねとなっていることを証明した。

以上の如く、1つの生命体を毒性の面(有機スズ暴露)からと栄養の面(亜鉛欠乏)からと相反する環境悪化で異常現象を誘発させた場合、両者間で悉く類似症状(脳機能・記憶障害、免疫機能障害、嗅覚障害、味覚障害、生殖機能障害、脱毛障害など)を呈するということは、その誘導プロセスにおいて共通の接点(経路)が存在することを意味しており、生命科学の仕組みを探究する上で、極めて有効な手段(モデル)となった。

すなわち、相反誘因なるも類似症状を呈する有機スズ暴露(毒)と亜鉛欠乏(栄養)による病的老化を利用して生理的老化の引き金(要因)となる接点経路を探索した。その結果、両者間で見られる免疫系機能低下や中枢神経系機能低下などの病的老化を見る限り、異常環境に起因する病的老化の誘導プロセスは、それぞれの機能や形態における生理的老化と同じ現象(生理的老化の修飾)であり、この現象を発現する要因こそが老化プロセスとの接点であることが示唆された。すなわち、両者において共通に見られる要因の中で、生体に不利益な反応または物質の蓄積、例えば上流初期に見られる「カルシウム、鉄、銅などの局在的過剰蓄積や亜鉛の局所的欠乏など、微量元素の攪乱」、「情報伝達の誤り」などは老化を誘発する「不利効果の蓄積」の1つと見なすことが出来る。

またジ体の特性例として、3)免疫系では、リンパ球増殖抑制による選択的な胸腺委縮を誘発し、中枢免疫機能を抑制すること。このことから、4)細胞増殖抑制作用を発見し、さらには種々の悪性腫瘍細胞増殖抑制を発見した。さらに、5)この抗がん作用のメカニズムは、従来の核アタックのDNA合成阻害によるものではなく、最も上流の膜介在情報伝達系阻害が主因であること(悪性腫瘍細胞の新たな増殖抑制機構)を発見した。(この発見は、現在頻用されている腎毒性のあるシスプラチン抗がん剤に替わるものとして注目を浴び、世界各国の化学者の興味の対象となり、数多くの化合物が合成され始め、米国立がん研究所NCIにおいて抗がん性をテストされた金属の中で、スズはシスプラチンの1500種を抜いて最多の2000種以上となっている)。
そして、「スズと悪性腫瘍細胞増殖」をとした国際会議・シンポジウムの設置や、無機・有機(金属)化学の生物活性を探究する国際学会などにおいて(とくに最高峰とされる3年に1度開催のヨーロッパ化学会連盟主催(担当国:イタリア)やNATO連盟主催最先端研究(担当国:ベルギー)の国際会議における特別招待講演などにおいて)、自ら招待講演を熟すと共に、米国立がん研究所NCI・制癌部長称賛講演をはじめ、各国多数の研究者からの称賛講演や会場でのスタンデイングオベーションを賜った。

また、運良くこの時期に、文科省の従来の長期在外研究員の制度(甲種:出張扱いなしのため退職あるいは休職が必要)に、大学(全学部中)1人の枠ではあるが、乙種として長期出張扱いとなる新制度が追加発布されたので応募してはどうかとの医学部事務長からの知らせがあり、応募した結果、その初代第1号に選出され、海外での研究を思い立った。

そこで、この発見した膜介在情報伝達系のメカニズムをさらに詳細に研究するために、膜物性学を研究し、かつ研究設備の整った大学として、理論化学者ヘンリー・アイリング(アメリカ化学会理事長、アメリカ科学振興協会理事長、量子化学、絶対反応速度論で有名)の弟子たちでもある、米国ユタ大学医学部麻酔科学教室(そこでは、麻酔メカニズムを熱力学 thermodynamics の面から膜物性学的に研究している)を出張先に選択した。(偶然にも、この大学の医学部生理学教室には初代学長となる内薗耕二東大医学部名誉教授が在籍していたことを現地で知った。)

以上のような事由で、米国ユタ大学医学部客員教授 および文科省長期在外研究員新設乙種・初代第1号(長期出張扱い:大学枠1名)として米国滞在中に、初代学長となる内薗耕二東大医学部名誉教授(第2生理学、国立生理学研究所所長)と伊藤正男東大医学部部長(第1生理学、のち日本学術会議会長、日本学士院会員)の推薦で、静岡県立大学創設のための文科省大学設置申請要員として、また設置後は栄養生命科学系(未だこの時点では、学部名や研究室名は決まっていない)の初代主任教授としての就任はどうかとの打診があり、生命科学を中心に、日本一の「健康科学」をリードする学部を作りたいというフレコミであったので、東大で伝統や講座枠に縛られた研究よりは学際的な研究をとの考えで、研究が十分に出来ることを条件に、一応承諾した。

(これには、裏話があり、時効が故に吐露すると、この話が私の所に来る前に、医学部長としては、学部内でもとくに保健学科に対外進出の難しい40代・50代の助教授や助手が大勢溜まっており、その捌け口を優先させたかったが、内薗学長は「そういうレベルは要らない。若いバリバリでないとダメ」ということで、私に白羽の矢が向いたとのことであった。)

そしてまた、もう1つ大きな裏話があり、初代学長予定の内薗先生は、自分の後継者として、わが恩師の山本俊一東大医学部名誉教授(衛生学)を第一候補に挙げていたが、山本先生は同じクリスチャンでもある聖路加看護大学日野原重明学長(当時点での職位)のたっての要望で、看護学研究科および公衆衛生学研究科の大学院博士後期課程(博士課程)設置申請のために、副学長候補(当時点での職位)として、また千葉在住でもあり、通勤圏内であることから、東京の聖路加看護大学(のちの聖路加国際大学)の方を選ばれ、この翌年にはスムーズに設置が認可された(看護学研究科としては、日本初の大学院博士後期課程(博士課程)の設置である)という経緯がある。
帰国後、内薗先生からも「俊ちゃん(山本俊一先生)が来てくれれば(取り敢えず副学長あるいは学部長として)、文科省の大学設置申請も一発で通過でき、将来的にも全てが万々歳なのだが、・・・」とその無念さを何度も聞かされた。

さらに、帰国後、その無念さが良く解かった。学部の方向性陣容をみてはっきりした。「わざわざ旧大学を解体してまで、夢のある一流大学を描いたのに、これでは(旧態依然では)解体した意味がない。将来、また同じように大学解体の憂き目に遇う。大学解体で辞めていった人たちにも申し訳ない」。今度はこのセリフを何度も聞かされることになった。

現実は、予想して来た「生命科学」とは程遠い、また一歩譲って「生命栄養学」でもない、農学系の「食品・栄養」という「栄養素学」を中心とした、名称を変えただけの家政科の域を出ないものであった。農学部と同じ方向性や範疇では、農学部の「姥捨て山」的ポスト拡大に過ぎず、新規創設の意味もなく、存在価値(アイデンティティ)もない。

帰国後の最初の教授会での挨拶で、「この学部名では、家政科の域を出ない。「生命科学」系の名称に変えるべきだ。」と発言した。すると、会議室全体が沈黙に包まれた。その時は不可思議に思ったが、後日、学部名の名付け親は学部長となった星猛教授であったことを知る。そこで、星猛教授にも直談判したが、「生命科学を熟せる人間はここにはほとんど居ない」が回答であった。学部編成時が問題なのだが・・。

そのような経緯もあってか、事あるごとに、学長室に呼ばれ、相談を受けることが頻繁であった。そして、内薗学長は、『斎藤滋与史・静岡県知事と会う度に、「要望は何でも応ずるから、どんどん上げてくれ」と言ってくれるが、新設初期であるにもかかわらず、『肝心の学部長からは全く要望が上がってこない』、『学長願望が故の、着任後の保身・迎合なる態度・性行豹変か、余りにもレスポンスが無さすぎる』、『学長選挙での投票の頭数まで企んでか』、『保身・迎合に走り、やる気鋭気を感じない』、『大学を良くする気はあるのか』と悔やまれていた。やむを得ず、最終的には、学長が自ら各学部から有意・有望の人物を1人ずつ選出し、学部長を通さない、独立した「将来構想学長諮問委員会」を立ち上げ、毎週土曜日に参集し、「教育体制の改革、大学の組織改革、大学の開放、大学の国際化、大学院の創設」などについて、議論し、結論を「学長答申」という形で学長に上げ、これを各学部に下し、大学改革をして行こうというシステムを作ることになった。

(開学したばかりであるにもかかわらず、体制の改革、組織の改革・・・と、議論をしなければならないとは、なんと憐れな、お粗末なことになってしまったことか、旧大学を解体してまで、旧教員を辞めさせてまで、学部編成というまたとないチャンスを与えられたはずであるにもかかわらず、台無しにしてしまった。返す返すも、利己的な保身・迎合に走らない「先見の識あるいは慧眼」なる資質を有する者にリーダーシップを取らせるべきであった。)

然れども、内薗学長の「何とかせねば」との責任感は強く、@ 東京工業大学と理化学研究所の主催で行われた10日間の「産官学共同戦略セミナー」に、参加費50万円を投じて、学長代理で参加させられたり、またA キャンパス内に、ホテルやレストラン完備のリサーチパーク(研究施設)を持ち、近くのシリコンバレーなどとも連携し、学生の時代から給料をもらいながら勉学・研究ができるシステムなど、産官学共同研究システムが充実している米国ユタ大学の現状を紹介すると、学長自ら県役員を随行して視察に行ったり、さらにはB 免疫ノーベル賞を取ったばかりの利根川進博士に会いに、2人で千葉の幕張メッセ(講演で来日中)まで出かけ、本学での招待講演を取り付けたり、叶うことなら、次期学長をと期待したが、(実力や業績も無いくせに肩書ばかりを欲しがり、またしがみつくような、そんじょ其処らの器の小さな小者とは次元が違い)、高邁なる学究心で、継続中の研究続行を望まれた。また、C 江橋節郎東大医学部名誉教授(薬理学、現・国立生理学研究所所長)や糸川嘉則京都大医学部名誉教授(衛生学)に次期学長をお願いしてみたり、D 三島・大仁温泉で国際シンポジウムを開催し国際化への意識を高めたり、新設大学のレベルアップや活性化を通した意識改革により、旧態依然とした状態からの脱出を願い、奔走された。私も、学長の意を汲んで助力した。E 新設の県立大学が故の県民への還元として、大学の紹介を兼ねた県民の知識向上のために、「大学公開講座」を設置した。そして、F ”県立大学”の新しいモデルとしての「可視性認知性の向上強化」に努めた。

確かに、現実の学部の方向性や陣容をみても、赴任の話が来た当初の「生命科学を中心に、日本一の「健康科学」をリードする学部を作りたいというフレコミ」からは程遠く、また旧態依然とした保身・排他・視野狭窄の保守的な人間組織の塊からしても、どう考えてもこの赴任は失敗で、騙された感が強かったが、内薗学長の誠意や熱意には報いようと、前向きに努力を開始した。

ところが、こうした経緯の後、長年にわたり、正体明白なる次元の低い稚拙かつ陰険・卑劣な「妨害嫌がらせ」が多発した。昔からこの種の土着的妨害(手口)は、地方への新任時に頻発すると言われるが、その下劣でお粗末な相変わらずの手口にあきれ果てた。
詳細は、他所(書)に譲るとして、ここでは具体例を1つだけ紹介する。本人直接ではなく、裏で、デマを流し拡散(犯罪)、あるいは学生を含む研究室員への弄り、騙し、そそのかし、焚き付けなど、煽惑、使嗾、教唆による異常行動不良行動破綻への変容誘導などが繰り返された。これが、本大学への赴任において、私が最も失望してしまった点である。

こうした度量や品性に欠けた性状の小人雑輩なる「群れ」を同僚として相手にし、真面に付き合うほどの価値も見出せず、その人間性を憐れみながら、また時にはその「惑業苦」の応報を冷眼傍観しながら、そして殷鑑遠からず、必ずや蒙るであろう「天網恢恢」の行く末を案じながら、次第に徒労と化す「対内への注力」よりは、学究者として成すべき貴重な時間を国際レベルで切磋琢磨する「対外への注力」にスタンスを切り替えたこともここにあった。
ちなみに、見方を換えれば、公との関係性を築く大学の広報すなわち本来のPR(Public Relation)効果は後者の方が格段に有効であり、大学にとっては格段に貢献性が高い。

せっかくの機会であるので、今後の大学の存続のためにも、後輩の発展のためにも、参考になればと、老婆心ながら付記しておきたい。

環境研設置を便乗させての「大学院設置」の申請および認可に至るまでの経緯

■ 大学院設置(便乗・環境研)の申請および認可までの経緯
The Circumstances of application and approval for the establishment of Graduate School (Piggybacking: Institute of Environmental Science)
そしてまた、大学院設置(便乗・環境研)の申請・認可についても、その誕生に直接関わった者として概略だけでも付記しておきたい。

赴任前の米国滞在中より、赴任の条件として「研究が十分に出来ること」を強調していたにもかかわらず、帰国してみれば、若手の教授は、最年少の私(荒川)以外に外部からの新任3名(小橋、竹石、野沢)、旧任1名(伊勢村)、合わせて5名しかおらず、しかも、教授の頭数に対して助手の数半分以下というお粗末な編成であった。すなわち、助手は専属の研究室を持たない編成であった。これでは研究云々のレベルではない。ましてや、大学院設置申請など、烏滸がましいにも程がある。

早速、大学院設置審査委員会の主要な審査委員でもある懇意の京都大学医学部系の教授(現在では公表可:糸川嘉則)に現状を話し、少なくとも各研究室に1名の助手を配置することを設置審査資格条件とするよう頼んだ。その結果、各研究室に1名の助手を配置することが実現した。

また、この時期、内薗学長が突然私の研究室に来られて、「薬学部の矢内原学部長が、多数在籍の40代・50代の助教授・講師・助手の対外進出(栄転や異動)が難しい。ポスト拡大のために、「分析センター」の設立を、わが学部の大学院設置申請便乗させてほしいと頼んで来たが、君はどう思うか、意見を聞かせてくれ」と問われた。「分析センターのオペレーターでは可哀そう過ぎる。便乗設置するならば、職位の付く正式な大学付属研究所とした方が良いのでは」と回答した。

その後、薬学部の矢内原学部長からも訪問があり、種々の話の中で「環境科学研究所なる名称を使いたいと思っているが、そのためには、出来れば、私の方の大学院の申請講座名には、「環境」の文字を使わないでいただけないだろうか」との要望があった。「いきなり環境科学ではハードルが高すぎる」「気象・地理系の自然的環境は別として、生体系等の社会的環境では、各種生体機能に対する有害性(阻害性)を見極める中毒学毒性学などを熟知あるいは探究できなければ、単なる分析オペレーターになってしまう」とは申し上げたが、意を汲んで私の方は、環境の文字を削り、あくまでも生命科学の領域を維持し、本邦初の名称「生体衛生学」とした。

実は、静岡において時の主流である「環境」を唱えられる人材が居なかったため、大学院の申請講座名の1つとして、人を取り巻く全ての事象を「環境」(広義)とする「環境衛生学」を候補に挙げていたが、この件(環境研便乗申請依頼)が、私自身の今後のスタンス(将来への方向性)を再考する良い切っ掛けともなった。

国内でも名を売り、肩書を求めていく「上っ面」な生き方であれば、(あるいは、器の小さい小者に有りがちな「己の実力や能力をわきまえず」、不相応の地位や肩書を追い求める生き方であれば)、このまま国内を中心に、ニュースバリューのある環境問題を次々に手掛け、マスコミに乗り、著名度を高めることも可能かつ容易な状況(最も恵まれた優位な立ち位置)にあったが、(また、現大学の研究環境下では、この方が格段に安易な道であったが)、これでは学究者としてはあまりに平易で空しく、また虚しい人生となる。

逆に、学究者にとって、考え方、能力、内容など質の高いレベルの次元で切磋琢磨する醍醐味は、何物にも代え難く、今後もこれまで通り国際舞台で切磋琢磨し、リードして行くことを続けるのであれば、それに値するだけのレベルの高いアカデミックな「新知見」の発掘・生産や究明そして発信、提示が必要である。

結局、必須科目の「環境衛生学実験」など、学生への講義における学科目上の問題はあるが、これまでに、国内外を問わず、環境生命科学領域の仕事は誰よりも十二分に経験して来たことでもあり、また今後の栄養生命科学領域への進展を考慮すれば、敢えて研究室名を「環境・・」と名乗る必要もなく、これまで通り、国際舞台で切磋琢磨し、リードして行くことを前提に、国際レベルアカデミックに「環境」を生体への有用性(栄養)と有害性(毒)の両面から捉えた「生命科学の領域」に身を置くことが本望であると考えた。

こうして始まった大学院の申請であるが、予想通り、この申請も一筋縄ではいかなかった。わが学部においても申請陣容の資格問題は多々ありはしたが、とくに、便乗申請である薬学部からの環境科学研究所の申請について、東京大学薬学部系の先輩教授(現在では公表可:)からは、東京での会合の折、「あの申請陣容では「環境科学」を専門に唱えられるレベルの申請者は1人もいない。レベル的にも経験的にも不合格」と自らが審査委員であることを知らしめるべく、評価を伝えてくれた。環境科学のレベルからして、もともとゴリ押しの感は拭えず、当然ながら1度目の申請ならず、2度目の申請でも不合格であった。3度目の申請で、「環境科学における専門知識と経験のある人材を核に置くことと今後の精進を担保に、要経過観察の条件で何とか見切り発車が許された。これがのちの環境研である。

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