「佐々木秀義や藤原秀衡の母が安倍宗任女」は誤記載か!
史書記載の「佐々木秀義や藤原秀衡の母が安倍宗任女」は年代的に不合理!
『明応本』、『平家』、『東鏡』『盛衰記』などの記事の中には、伝承・史料から拾い合わせ、時には改変して掲載したものもある。佐々木氏や奥州藤原氏と奥州安倍氏との縁戚を物語る伝承・史料もその1つで、歴史を紐解く上で、糸口としての伝承的価値は極めて大きいが、年代的考察に乏しく、史実的には不正確で、混乱を招いている事例である。
▼ 考察
1.明応本『佐々木系図』には、以下のように、(秀義)「六条判宮為義猶予、佐々木三郎」「母安倍宗任女」とある。
(秀義)「六条判宮為義猶子(盛衰記の「左馬頭義朝の養子」は誤写)、佐々木三郎」「母安倍宗任女」
(定綱)「従五下、太郎」「使左衛門尉、母下野宇津宮(源為義娘)」「近江長門石見隠岐四ヶ国守護」(括弧内の「源為義娘」が正しい)
(経高)「号蒜間中務丞、佐々木次郎、法名経蓮」「住相模滋(渋)谷、母同上」「淡路阿波土佐等守護」(続群書類従にある括弧内の「渋」が正しい )
(盛綱)「号加地三郎兵衛尉、佐々木三郎」本名秀綱、住相模俣野、備前児島渡了」「伊予讃岐守護」「法名西念」
(高綱)「佐々木四郎、左衛門尉」「母同上」「籠居高野山」「備中備後安芸周防因幡伯耆出雲等守護」
(義清)「従五位下左衛門尉、隠岐守」「佐々木五郎」「母大庭権守景宗女」 云々。
2.『東鏡』(治承4年8月9日条)割注には、以下のように、「秀義の媒母の夫が藤原秀衡である」とある。
「有近江国住人佐々木源三秀義者、平治逆乱時、候左典厩御方、於戦場掲兵略、而武衛坐事之後、不奉忘旧好号、不諛平家権勢之故、得替相伝地佐々木庄之間、相率子息等、恃秀衡〔秀義媒母夫也〕、赴奥州、至相模国之刻、渋谷庄司重国感秀義勇敢之余、令之留置之間、住当国、既送二十年畢、此間於子息定綱・盛綱等者、所候干武衛之門下也 云々。」
3.また、『東鏡』(文治5年9月17日条)の毛越寺記事「藤原基衡室」の割注には、「安倍宗任女」とある。
「安倍宗任女」の出自については、これ以外に見つけ出せないが、これらの記事をそのまま受け入れるとすれば、「秀義の母が安倍宗任女で、母の姉妹も安倍宗任女でかつ秀衡の室であり、秀衡の父の基衡の室が安倍宗任女でかつ秀衡の母であるかもしれない。すなわち、秀衡にとっては、妻も母も安倍宗任女ということになる。また、秀義にとっては、秀衡は10歳下の叔父ということになる。」という相関図が描かれる。しかも、以下のように、
「秀義の母あるいは媒母が、父・宗任(1032年生れ)50歳の子とすれば、秀義(1112年生れ)は母が30歳の時の子となるが、媒母(母の姉妹)の夫が基衡(1102年生れ)ならば、妻の年齢が20歳も上となり、子の秀衡(1122年生れ)は媒母40歳の時の子となる。媒母(母の姉妹)の夫が秀衡(1122年生れ)ならば、妻の年齢が40歳も上となる。また、母あるいは媒母が父・宗任30歳の子とすれば、秀義は母が50歳の時の子となるが、媒母(母の姉妹)の夫が基衡(1102年生れ)ならば、妻の年齢が40歳も上となり、子の秀衡(1122年生れ)は媒母60歳の時の子となる。媒母(母の姉妹)の夫が秀衡(1122年生れ)ならば、妻の年齢が60歳も上となる。」
そして、秀義(1112-1184年)の母あるいは媒母が安倍宗任(1032-1108年)の女であるか否かに拘わらず、媒母の夫が基衡(1102-1157年)か、その子の秀衡(1122-1187年)かによって史実が大きく異なる。種々の史書に書かれているように、秀義が平治の乱(1159年)後に頼って行こうとした「奥州の媒母の夫」が、基衡ならば、頼る相手は2年前の1157年に既に死亡しており、死んだ相手を頼ることになる。したがって、頼る相手としては、種々の史書に書かれている「媒母の夫・基衡」ではなく、「基衡の妻である媒母」か年齢的には難しいが10歳年下の「媒母の夫・秀衡」(『東鏡』 治承4年)の方が理であることになる。
ということになり、年代的に無理な結び付けをしていることが分かる。そして同時に、史実自体が疑われることになる。
(秀義)「六条判宮為義猶子(盛衰記の「左馬頭義朝の養子」は誤写)、佐々木三郎」「母安倍宗任女」
(定綱)「従五下、太郎」「使左衛門尉、母下野宇津宮(源為義娘)」「近江長門石見隠岐四ヶ国守護」(括弧内の「源為義娘」が正しい)
(経高)「号蒜間中務丞、佐々木次郎、法名経蓮」「住相模滋(渋)谷、母同上」「淡路阿波土佐等守護」(続群書類従にある括弧内の「渋」が正しい )
(盛綱)「号加地三郎兵衛尉、佐々木三郎」本名秀綱、住相模俣野、備前児島渡了」「伊予讃岐守護」「法名西念」
(高綱)「佐々木四郎、左衛門尉」「母同上」「籠居高野山」「備中備後安芸周防因幡伯耆出雲等守護」
(義清)「従五位下左衛門尉、隠岐守」「佐々木五郎」「母大庭権守景宗女」 云々。
2.『東鏡』(治承4年8月9日条)割注には、以下のように、「秀義の媒母の夫が藤原秀衡である」とある。
「有近江国住人佐々木源三秀義者、平治逆乱時、候左典厩御方、於戦場掲兵略、而武衛坐事之後、不奉忘旧好号、不諛平家権勢之故、得替相伝地佐々木庄之間、相率子息等、恃秀衡〔秀義媒母夫也〕、赴奥州、至相模国之刻、渋谷庄司重国感秀義勇敢之余、令之留置之間、住当国、既送二十年畢、此間於子息定綱・盛綱等者、所候干武衛之門下也 云々。」
3.また、『東鏡』(文治5年9月17日条)の毛越寺記事「藤原基衡室」の割注には、「安倍宗任女」とある。
「安倍宗任女」の出自については、これ以外に見つけ出せないが、これらの記事をそのまま受け入れるとすれば、「秀義の母が安倍宗任女で、母の姉妹も安倍宗任女でかつ秀衡の室であり、秀衡の父の基衡の室が安倍宗任女でかつ秀衡の母であるかもしれない。すなわち、秀衡にとっては、妻も母も安倍宗任女ということになる。また、秀義にとっては、秀衡は10歳下の叔父ということになる。」という相関図が描かれる。しかも、以下のように、
「秀義の母あるいは媒母が、父・宗任(1032年生れ)50歳の子とすれば、秀義(1112年生れ)は母が30歳の時の子となるが、媒母(母の姉妹)の夫が基衡(1102年生れ)ならば、妻の年齢が20歳も上となり、子の秀衡(1122年生れ)は媒母40歳の時の子となる。媒母(母の姉妹)の夫が秀衡(1122年生れ)ならば、妻の年齢が40歳も上となる。また、母あるいは媒母が父・宗任30歳の子とすれば、秀義は母が50歳の時の子となるが、媒母(母の姉妹)の夫が基衡(1102年生れ)ならば、妻の年齢が40歳も上となり、子の秀衡(1122年生れ)は媒母60歳の時の子となる。媒母(母の姉妹)の夫が秀衡(1122年生れ)ならば、妻の年齢が60歳も上となる。」
そして、秀義(1112-1184年)の母あるいは媒母が安倍宗任(1032-1108年)の女であるか否かに拘わらず、媒母の夫が基衡(1102-1157年)か、その子の秀衡(1122-1187年)かによって史実が大きく異なる。種々の史書に書かれているように、秀義が平治の乱(1159年)後に頼って行こうとした「奥州の媒母の夫」が、基衡ならば、頼る相手は2年前の1157年に既に死亡しており、死んだ相手を頼ることになる。したがって、頼る相手としては、種々の史書に書かれている「媒母の夫・基衡」ではなく、「基衡の妻である媒母」か年齢的には難しいが10歳年下の「媒母の夫・秀衡」(『東鏡』 治承4年)の方が理であることになる。
ということになり、年代的に無理な結び付けをしていることが分かる。そして同時に、史実自体が疑われることになる。
<参考資料>
▼ 安倍宗任
安倍氏は、平安時代の陸奥国の俘囚の長とされる豪族で、安倍忠頼を家祖とし、奥州六郡(現在の岩手県内陸部)を拠点として糠部(現在の青森県東部)から亘理・伊具(現在の宮城県南部)にいたる地域を勢力範囲とした。婚姻などによって勢力を拡大し、安倍忠良の子、安倍頼時の代に最も勢力を広げた。
安倍宗任(1032-1108年)は、平安時代中期の武将。陸奥国の俘囚の長・安倍頼時の三男で、母は隣国出羽の豪族・清原氏娘。鳥海柵の主で、鳥海三郎とも呼ばれた。兄弟に貞任、家任、行任、姉妹に亘理の豪族で奥州藤原氏当主・藤原経清の室、在庁官人・平永衡の室。子に宗良、仲任、季任、3人の娘(種々の史書では、長女:藤原基衡の室、末女:佐々木季定の室とあるが、これらの結び付けは史実的にも年代的にも無理)。
安倍宗任(1032-1108年)は、平安時代中期の武将。陸奥国の俘囚の長・安倍頼時の三男で、母は隣国出羽の豪族・清原氏娘。鳥海柵の主で、鳥海三郎とも呼ばれた。兄弟に貞任、家任、行任、姉妹に亘理の豪族で奥州藤原氏当主・藤原経清の室、在庁官人・平永衡の室。子に宗良、仲任、季任、3人の娘(種々の史書では、長女:藤原基衡の室、末女:佐々木季定の室とあるが、これらの結び付けは史実的にも年代的にも無理)。
■ 前九年の役(1051-1061年)
平安時代初期、東北地方はまだ蝦夷の支配する国であったが、蝦夷の族長アテルイと征夷大将軍・坂上田村麻呂の戦い(802年)により、蝦夷は朝廷に服従し、平安中期には奥州鎮守府(多賀城)の支配下に入っていた。しかし、貴族が下向することは少なく、実際は蝦夷出身の俘囚の長・安倍氏が仕切り、次第に財力を蓄えるようになった。そして、遂に中央政権(朝廷)と対立し、鎮守府将軍・源頼義&義家率いる官軍との間で前九年の役が起こる。
父・安倍頼時は途中で戦死し、兄の安倍貞任が後を継いだが、隣国の俘囚主・清原氏の頼義側への加勢により安倍氏は敗れる。貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害され、妹婿・藤原経清は処刑された。しかし、安倍宗任らは、降伏し、源義家により都へ連行される。朝廷や公家衆は宗任の処刑を求めたが、源頼義・義家親子は、宗任の知略・武略を惜しみ、死一等を減じて朝廷から貰い受け、監視が効き、源頼義の領地である四国の伊予国(今治市)に配流する(宗任32歳)。配流としながらも、後年には肥前国・松浦の領地で活躍の場を与えており、源義家が源氏の勢力拡大のために送ったとの説もある。五男の正任は肥後に流される。
また、藤原経清の妻(妹:有加一乃末陪)は、戦利品として清原武貞の妻となり、息子・清衡(後の藤原清衡)も武貞の養子となり生き残るが、安倍氏の地位を受け継いだ清原氏が子孫の代で、後継を巡る内紛を起こす(後三年の役)。源義家の調停を不服として異母弟・家衡が清衡を攻撃したが、清衡を応援した義家軍により清原氏惣領家は滅亡した。勝利した清衡は奥州の覇権を握り、実父の姓・藤原に戻し、奥州藤原氏初代となり、奥州藤原氏が興隆することになる。
父・安倍頼時は途中で戦死し、兄の安倍貞任が後を継いだが、隣国の俘囚主・清原氏の頼義側への加勢により安倍氏は敗れる。貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害され、妹婿・藤原経清は処刑された。しかし、安倍宗任らは、降伏し、源義家により都へ連行される。朝廷や公家衆は宗任の処刑を求めたが、源頼義・義家親子は、宗任の知略・武略を惜しみ、死一等を減じて朝廷から貰い受け、監視が効き、源頼義の領地である四国の伊予国(今治市)に配流する(宗任32歳)。配流としながらも、後年には肥前国・松浦の領地で活躍の場を与えており、源義家が源氏の勢力拡大のために送ったとの説もある。五男の正任は肥後に流される。
また、藤原経清の妻(妹:有加一乃末陪)は、戦利品として清原武貞の妻となり、息子・清衡(後の藤原清衡)も武貞の養子となり生き残るが、安倍氏の地位を受け継いだ清原氏が子孫の代で、後継を巡る内紛を起こす(後三年の役)。源義家の調停を不服として異母弟・家衡が清衡を攻撃したが、清衡を応援した義家軍により清原氏惣領家は滅亡した。勝利した清衡は奥州の覇権を握り、実父の姓・藤原に戻し、奥州藤原氏初代となり、奥州藤原氏が興隆することになる。
■ 筑前大島への再配流
さて、宗任は伊予に3年間居留したが、少しずつ勢力を固め、再び本国へ逃げる恐れがあるとして、さらに豊後国宇佐郡(大分)へ、そして筑前国宗像郡の筑前大島(福岡)へと再配流された。すなわち、冶暦三年(1067年)、朝廷は宗任を九州大宰府の管内に再配流することにし、孤島で、しかも大宰府に近く、監視の効く国司や郡司のいる所として、また宗像大宮司家の管領でもある所として、筑前大島を配流地に選んだのである。一方、妻のおないの方は三人の娘を連れて東北の遠野に逃げ延びたという(「エミシの国の女神」菊池展明)。
宗任は、家臣の豊福、万沢、板矢、屋形や、実子の長男・宗良16歳、二男・仲任14歳、三男・季任12歳らと共に、大島西海岸の湊尻から上陸した。その後、宗任は、宗像氏の下で、日朝・日宋貿易において重要な役割を果たし、この地に根付き、肥前(佐賀)松浦党の娘・真百合を嫁に迎え、産まれた娘(市埜)を松浦党の始祖である源久に嫁がせたとされている。
宗任の娘に関しては、陸奥への郷愁、執念を捨てきれず、新たに奥州の主となった藤原清衡の息子、藤原基衡に娘を無理矢理嫁がせ、舅の立場を利用して陸奥へ帰ろうとしたが叶わなかったという説もあるが、疑わしい。また、松浦市史によると、同市内に宗任の居城や邸宅跡、起請した神社などがあるほか、源久の娘・真百合との間にできた子が松浦氏の祖となり、松浦党の主力をなす各氏に分かれたという系図もあるという。さらに、この肥前国(佐賀)松浦党に関しては、後述の如く、宗任の三男・安倍季任が肥前国松浦へ行き、松浦党の娘婿となり、松浦実任となって、松浦水軍の一族を形成したという説や、逆に長男・宗良が松浦へ行き、松浦党の祖となり、三男・季任が大島に残ったとする説もある。
以上のように、松浦党(松浦水軍)と安倍氏との関わりについては、諸説あり、解釈に苦しむが、長崎県の松浦市には初代の源久(渡辺久・松浦久)の築いた草創期の城・梶谷城跡があり、佐賀には松浦党の城跡がいくつか残っていることから、松浦党(松浦水軍)は嵯峨源氏・渡辺氏流・松浦氏系の松浦久(渡辺久、源久)を祖とするものが大半で、一部に前九年の役で破れ、宗像・大島に配流された奥州安倍氏の生き残り安倍宗任系のものがあると解釈される。
宗任は、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。宗任の墓は安昌院にある。寺の記録によれば、鳥羽天皇の嘉承3年・天仁元年(1108年)2月4日に77歳で逝去している。法名「安昌院殿海音高潮大居士」。宝篋印塔には、後に安倍氏の家紋である「立ち梶の葉」と松浦党の帆印「三星一引」の紋がある、正面には東北の荒吐族(あらばきそく)の信仰の中心であった「大日輪」が刻んである。
宗任は、家臣の豊福、万沢、板矢、屋形や、実子の長男・宗良16歳、二男・仲任14歳、三男・季任12歳らと共に、大島西海岸の湊尻から上陸した。その後、宗任は、宗像氏の下で、日朝・日宋貿易において重要な役割を果たし、この地に根付き、肥前(佐賀)松浦党の娘・真百合を嫁に迎え、産まれた娘(市埜)を松浦党の始祖である源久に嫁がせたとされている。
宗任の娘に関しては、陸奥への郷愁、執念を捨てきれず、新たに奥州の主となった藤原清衡の息子、藤原基衡に娘を無理矢理嫁がせ、舅の立場を利用して陸奥へ帰ろうとしたが叶わなかったという説もあるが、疑わしい。また、松浦市史によると、同市内に宗任の居城や邸宅跡、起請した神社などがあるほか、源久の娘・真百合との間にできた子が松浦氏の祖となり、松浦党の主力をなす各氏に分かれたという系図もあるという。さらに、この肥前国(佐賀)松浦党に関しては、後述の如く、宗任の三男・安倍季任が肥前国松浦へ行き、松浦党の娘婿となり、松浦実任となって、松浦水軍の一族を形成したという説や、逆に長男・宗良が松浦へ行き、松浦党の祖となり、三男・季任が大島に残ったとする説もある。
以上のように、松浦党(松浦水軍)と安倍氏との関わりについては、諸説あり、解釈に苦しむが、長崎県の松浦市には初代の源久(渡辺久・松浦久)の築いた草創期の城・梶谷城跡があり、佐賀には松浦党の城跡がいくつか残っていることから、松浦党(松浦水軍)は嵯峨源氏・渡辺氏流・松浦氏系の松浦久(渡辺久、源久)を祖とするものが大半で、一部に前九年の役で破れ、宗像・大島に配流された奥州安倍氏の生き残り安倍宗任系のものがあると解釈される。
宗任は、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。宗任の墓は安昌院にある。寺の記録によれば、鳥羽天皇の嘉承3年・天仁元年(1108年)2月4日に77歳で逝去している。法名「安昌院殿海音高潮大居士」。宝篋印塔には、後に安倍氏の家紋である「立ち梶の葉」と松浦党の帆印「三星一引」の紋がある、正面には東北の荒吐族(あらばきそく)の信仰の中心であった「大日輪」が刻んである。
■ 宗任の末裔
宗任の長男・宗良は島に留まり大島太郎・安倍権頭として大島の統領を継いだ。子孫は宗像大宮司家・神職などの他、安倍・安部・阿部などの縁故が宗像・糟屋地方に多い。宗任から42世の孫・安倍頼任は、九州の剣豪として知られ、秋月藩に仕え(250石)、剣術流派・安倍立剣道を開いた。宗任没後、574年目の延宝九年(1681年)の夏に、安昌院で先祖の大供養をした供養塔(位牌)がある。
二男・仲任は薩摩に行ったと歴史辞典などにあるが不明。
三男・季任(実任)は松浦に行き、下松浦(平戸)で松浦氏の娘婿となり、松浦三郎太夫実任と名乗った。その子孫は松浦に残り、北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。
そして、季任(実任)の子孫・松浦高俊は、宗任から5世にあたるが、平家の武将・平清盛の側近となり、源平の海戦で、平氏方の水軍として壇ノ浦で戦い、破れて山口県大津郡(長門市)油谷町に配流された。その地で妻を娶り、土着し、娘を産んだ。娘は長じて平知盛の庶子であるという平智貞に嫁したが、源氏の迫害から逃れるために、安倍の姓を名乗ったという。(ただし平家の家系図には平知貞という人物は存在せず、詳細は不明)。この安倍一族が、戦前の衆院議員・安倍寛氏、元外務大臣・安倍晋太郎氏や総理大臣・安倍晋三氏のルーツであるという。晋太郎氏や晋三氏は自らを安倍宗任の末裔と公言されているが、その詳細は不明である。
一応、上記の説を採用表記したが、水軍松浦党との関わり方によっては、話が全く逆転する。すなわち、上述の如く、父の宗任自身が肥前(佐賀)松浦党の娘・真百合を嫁に迎え、産まれた娘(市埜)を松浦党の始祖である源久に嫁がせたとする説や、逆に源久の娘・真百合との間にできた子が松浦氏の祖となり、松浦党の主力をなす各氏に分かれたという説、また以下の「姓氏家系大辞典」三巻 「筑前の安倍氏」にみられるように、長男・宗良が松浦へ行き、松浦党の祖となり、三男・季任が大島に残ったとする全く逆の説などがある。後に子孫を残して、実任は大分県宇佐郡駅川町熊に行ったという。
すなわち、「姓氏家系大辞典」三巻 「筑前の安倍氏」の項目・旧志略には、「宗任伊予国に配流せられ、後本嶋に流され、終に此の地にて死せり。その子三人、長子は松浦に行き、松浦党の祖となり、次男は薩摩に行き、三男此の嶋に留り、大嶋三郎季任と云い、その子孫今に此の嶋に残れり」と、「配流された蝦夷の頭目」という扱いで載っている。
一方、宗任の妻のおないの方は三人の娘を連れて東北の遠野に逃げ延び、遠野の里人のために、難産難病の治療にあたり、地元の伊豆権現に、三人の娘とともに合祀されたという。そして、その伊豆権現の祭神は、瀬織津姫。別名:天照大神の三女神(宗像三神)の内、夫が流された宗像大島に鎮座する湍津姫だったという(「エミシの国の女神」菊池展明)。これらの記載を含めて、種々の史書で、宗任の娘の内、長女は藤原基衡の室&藤原秀衡の母、末女は佐々木季定の室&佐々木秀義の母とあるが、これらの結び付けは史実的にも年代的にも無理である。
二男・仲任は薩摩に行ったと歴史辞典などにあるが不明。
三男・季任(実任)は松浦に行き、下松浦(平戸)で松浦氏の娘婿となり、松浦三郎太夫実任と名乗った。その子孫は松浦に残り、北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。
そして、季任(実任)の子孫・松浦高俊は、宗任から5世にあたるが、平家の武将・平清盛の側近となり、源平の海戦で、平氏方の水軍として壇ノ浦で戦い、破れて山口県大津郡(長門市)油谷町に配流された。その地で妻を娶り、土着し、娘を産んだ。娘は長じて平知盛の庶子であるという平智貞に嫁したが、源氏の迫害から逃れるために、安倍の姓を名乗ったという。(ただし平家の家系図には平知貞という人物は存在せず、詳細は不明)。この安倍一族が、戦前の衆院議員・安倍寛氏、元外務大臣・安倍晋太郎氏や総理大臣・安倍晋三氏のルーツであるという。晋太郎氏や晋三氏は自らを安倍宗任の末裔と公言されているが、その詳細は不明である。
一応、上記の説を採用表記したが、水軍松浦党との関わり方によっては、話が全く逆転する。すなわち、上述の如く、父の宗任自身が肥前(佐賀)松浦党の娘・真百合を嫁に迎え、産まれた娘(市埜)を松浦党の始祖である源久に嫁がせたとする説や、逆に源久の娘・真百合との間にできた子が松浦氏の祖となり、松浦党の主力をなす各氏に分かれたという説、また以下の「姓氏家系大辞典」三巻 「筑前の安倍氏」にみられるように、長男・宗良が松浦へ行き、松浦党の祖となり、三男・季任が大島に残ったとする全く逆の説などがある。後に子孫を残して、実任は大分県宇佐郡駅川町熊に行ったという。
すなわち、「姓氏家系大辞典」三巻 「筑前の安倍氏」の項目・旧志略には、「宗任伊予国に配流せられ、後本嶋に流され、終に此の地にて死せり。その子三人、長子は松浦に行き、松浦党の祖となり、次男は薩摩に行き、三男此の嶋に留り、大嶋三郎季任と云い、その子孫今に此の嶋に残れり」と、「配流された蝦夷の頭目」という扱いで載っている。
一方、宗任の妻のおないの方は三人の娘を連れて東北の遠野に逃げ延び、遠野の里人のために、難産難病の治療にあたり、地元の伊豆権現に、三人の娘とともに合祀されたという。そして、その伊豆権現の祭神は、瀬織津姫。別名:天照大神の三女神(宗像三神)の内、夫が流された宗像大島に鎮座する湍津姫だったという(「エミシの国の女神」菊池展明)。これらの記載を含めて、種々の史書で、宗任の娘の内、長女は藤原基衡の室&藤原秀衡の母、末女は佐々木季定の室&佐々木秀義の母とあるが、これらの結び付けは史実的にも年代的にも無理である。