先祖の足跡を訪ねて −佐々木定綱:従兄弟・源頼朝の鎌倉幕府創設を助勢−|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

先祖の足跡を訪ねて

佐々木定綱:従兄弟・源頼朝の鎌倉幕府創設を助勢

定綱を含む秀義の五人の息子は十七国の守護職に就く

■ 佐々木定綱
佐々木定綱(康治元年1142〜元久2年1205.4.9)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の重鎮。御家人。近江国守護。長門国、石見国、隠岐国の守護従五位上,検非違使・左衛門少尉、京都諸司代。近江国の佐々木荘(滋賀県近江八幡市)を本領とし、宇多天皇の皇子を祖とする宇多源氏佐々木源氏の当主。宇多源氏嫡流・佐々木秀義の嫡男。母は清和源氏嫡流・源為義の娘。太郎と称する。

保元元年(1156年)に崇徳上皇後白河天皇が争った保元の乱では、父・秀義は天皇方の源義朝に与して戦うことになり、勝利するが、義朝に与し義朝の嫡子である源義平(鎌倉悪源太、源頼朝・義経らの異母兄)と共に平氏と戦った平治元年(1159年)の平治の乱では、義朝方は敗れる。父・秀義は、子の定綱、経高、盛綱(このとき、高綱は幼少だったため、京都にいる叔母のもとに残した)を連れて伯母(定綱にとっては大伯母)の夫である藤原基衡(奥州の覇者・秀衡の父)を頼って奥州へ落ち延びようとしたが、途中、秀義の武勇に惚れ込んでいた桓武平氏の一族で武蔵国から相模国に至る領地を有した渋谷重国に引き留められ、その庇護を受ける。この地で20年を過ごし、渋谷重国の娘を娶り五男の義清をもうける。子息たちも宇都宮朝綱・渋谷重国・大庭景親など豪族級東国武士の娘を娶った。そして、乱後に伊豆国へ流罪となっていた義朝の嫡子・源頼朝が平氏打倒を決意した時、父・秀義は、相模国渋谷荘(神奈川県藤沢・大和・綾瀬市近辺)に滞在しており、定綱は下野国宇都宮に客居していたが、平家の家人大庭景親から頼朝討伐の密事を聞き、子の定綱を使いに出して頼朝に危急を知らせる。そして、頼朝にとっては従兄弟でもある息子の定綱、経高、盛綱、高綱の四兄弟を助勢に向かわせたのである。

治承4年(1180年)、伊豆に配流されていた従兄弟の源頼朝以仁(もちひと)王の命を受けて平家討伐の兵を挙げると、定綱は弟の経高、盛綱、高綱と共に頼朝を助勢した。治承4年(1180)8月17日、伊豆国の目代(源氏の見張り役とされる山木判官代)である平(山木)兼隆最初の攻撃目標として山木館を襲い、兼隆を討ちとり源氏再興の狼煙を挙げた。

しかし、同年8月、頼朝に与して相模国へと進軍するが、石橋山の戦いで敗れる。この石橋山の戦いでは、定綱は弟たちと共に、敵軍・大庭景親の軍勢により絶体絶命の窮地にあった頼朝を助けている。頼朝は「私が生きていられるのは貴方のお蔭です」と九死に一生を得たことに感謝し、いつの日か、天下を取った暁にはその半分を割いて渡したいと約束したという。

一旦、安房国へ逃れた頼朝は10月20日の富士川の戦いで平氏を破る。平氏軍は戦闘を交えることなく都に撤退してしまう。そこで、上総広常らの薦めで、同年10月、京都で平氏に与する佐竹隆義および子・佐竹秀義(清和源氏。常陸国佐竹郷を本拠とする国司級の武士団の惣領)を攻略する。父・隆義の不在中で、金砂城を守っていた佐竹秀義は奥州(常陸奥郡)の花園(北茨城市)へと逃亡し、父祖の地を失う。父・隆義の死後、一転して頼朝の奥州攻めに参加。宇都宮で帰順を許され、承久の乱では、美濃国山口郷(美濃市ほか)地頭職などを得ている。

ちなみに、この石橋山の合戦では、父・佐々木秀義は渋谷重国の恩に報いるため、五男義清とともに平氏方大庭景親軍に参陣している。しかし、その後は養和元年(1181年)11月5日、頼朝軍の遠江出陣を制止するなど、源氏長老として重きをなしている。挙兵後に行われた初の論功行賞では、父・秀義は平家討伐の挙兵前後における助勢など、種々の功により、石橋山の戦いで平氏方大庭景親軍に義理で参陣したことも許され、旧領の佐々木庄を安堵され、本領・佐々木荘へと戻る。定綱は度重なる軍功により、本領・佐々木荘の地頭に補任され、ついで近江の守護(総追捕使)となる。『吾妻鏡』(文治三年(1187年)二月九日の条)にも、近江国の「守護定綱」とある。

わが家系に伝わる系図にも、定綱の項に「検非遺使左衛門少尉京都諸司代大勤入道 頼朝郷伊豆ニ在国ノ時ヨリ随使シ武功度々ニ及元久二年四月九日卒ス 北條時政ニ従ッテ目代平兼隆ヲ襲ヒ戦功アリ又、佐竹秀義ヲ撃チ功ヲ累テ左衛門少尉トナリ佐々木荘ノ地頭トナル 建久初年近江守護トナル」と付記されている。

*以仁王の令旨を受け、源頼朝が挙兵で最初の標的にしたのは、和泉守・平信兼(平安時代末期の武将。桓武平氏大掾氏の一族)の子・平(山木)兼隆目代:源氏の見張り役とされる山木判官代)および京都で平氏に与する佐竹隆義および子・佐竹秀義(清和源氏。常陸国佐竹郷を本拠とする国司級の武士団の惣領)である。

近江守護となった定綱は、頼朝軍と共に鎌倉に本拠を構え、多くの戦いを経て文治元年(1185年)3月に壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼした。すなわち、頼朝は義仲を滅ぼして源氏の棟梁としての主導権を獲得し、平氏追討の宣旨を得て、義経・範ョ軍が寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)一の谷(兵庫県神戸市)で平氏を破り、これを西国に追い、翌文治元年(1185年)2月に屋島(香川県高松市)を奇襲、3月には壇の浦(山口県下関市)の海戦で平氏一門を滅ぼした。定綱はこの過程で、戦功を挙げ続け、近江だけでなく、長門、石見、隠岐の守護へと補任れる。

一の谷の合戦後、佐々木秀義は近江国に戻って地盤を固めていたが、元暦元年(1184年)七月、伊賀国で平氏家人平田家継が、伊勢国では伊勢平氏の和泉守平信兼が蜂起し、鈴鹿山を占拠して交通を庶断する事件(伊勢・伊賀平氏の挙兵)が起こる。家継らが近江をぬけて京都を狙う気配を察した秀義は、有力な息子たちが不在の中で、老体ながら五男・義清と共に、直ちに出陣して、甲賀郡大原庄で、平氏勢を撃退している。

平田太郎家継・出羽守信兼・同子・忠清法師等各一心取篭、秀義. 一騎責戦、依老屈為彼等被討了、千時七十三才也、然而凶敵九十. 余人伐捕之了」(吾妻鏡))

平信兼らは鈴鹿山中に敗走したが、平氏方は平田家継以下90余人が討たれ、秀義本人も敵の矢に当たって戦死した(吾妻鏡)。その後、信兼は行方をくらますが、事態を重く見た頼朝は信兼の捜索を義経に命じる。義経は子息の兼衡・信衡・兼時らを邸に呼び出し、斬殺、あるいは自害に追い込み(『山槐記』8月10日条)、さらに信兼討伐のため伊勢に出撃し、信兼軍と激戦の末、討ち取ったという(『源平盛衰記』)。また、こうした平氏勢力の蜂起に対して、有力な息子たちが不在の中で、高齢の秀義がすばやい行動を為し得ているということは、佐々木氏が既に近江国における軍事指揮権を掌握していたことを意味しており、近江国における佐々木氏の地位も盤石化しつつあったものと思われる。そして、こうした近江国を秀義の嫡男・定綱が継承していくことになる。享年73。死後、その功績により近江権守を贈られる(『源平盛衰記』第41)。法号は長命寺殿

わが家系に伝わる系図にも、秀義の項に「十三歳ノ時源為義の養子ト成、保元平治ノ時ハ義朝ニ随テ武勇ノ軍功ヲ勵シ、寿永三年七月十九日於伊賀国山田郡平田城軍功ヲ勵ト云モ依老屈城ハ退治スト云モ其身痛手ヲ受テ死ス、時七十三歳、則自関東被定第一勲功、御感ノ餘預没後ノ賞也. 」と付記されている。

贈・近江権守:秀義が没後に追贈された権守の官位は、近江のような大国では、当時は公卿大納言・三位以上)の兼官で、近江守よりも高位の者が補任される名誉ある官位であり、また当時の鎌倉幕府内では、受領に補任される者は源氏一門に限られており、秀義が幕府内で源氏一門として重きをなしていたことを意味している。

建久2年(1191年)、佐々木荘で千僧供養料の貢納(年貢対捍)を巡り延暦寺との争いが生じる。山門側(延暦寺)は配下(日吉社の宮仕)に命じて定綱邸を襲わせた。定綱は不在であったが、次男の定重の反撃にあって山門側は死者を出すとともに持参した神鏡も破壊された。この騒動により山門の衆徒は朝廷幕府に佐々木父子の引き渡しを要求したが、父子を流罪に処することで事態は収拾した。ところが事件の張本人として定重は流刑を改められ斬首に処せられた。長男広綱は隠岐国、三男定高は土佐国、定綱は薩摩国へと配流となった(建久二年の強訴)。
この事件の底には、山門(延暦寺)の鎌倉幕府に対する不信感が流れており、また平氏と近い関係の延暦寺と源氏にゆかりの園城寺の対立もあり、それが近江国における幕府方の代表である守護佐々木氏に向けられたのである。幕府開設早々、武家方に対する山門方の嫌がらせを見せつけられた事件である。

定綱は2年後の建久4年(1193年)3月に召還され(『吾妻鏡』4月29日条)、10月28日に鎌倉に帰ると頼朝は大いに歓び、定綱は本領の回復近江守護職に復する。11月27日、頼朝の永福寺への参拝に従い、12月20日には隠岐、長門、石見の守護職へと復する。建久6年(1195年)3月には東大寺供養のため上洛し南都に赴いた頼朝に随行し、4月15日には石清水八幡宮への参拝も共にする。

その後も、幕府の重鎮として活躍し検非違使・左衛門少尉、京都諸司代に任ぜられ、元久元年(1204年)4月13日には従五位上に叙せられる。頼朝の信頼は厚く(『渋柿』収録の定綱あて書状)、定綱以後、京都中の警固と検非違使への補任が一族の世襲職となった。こうして、近江守護職定綱流に継承され、鎌倉・室町時代を通じての近江国の盟主の地位を確立していった。また、定綱を含む秀義の五人の息子は、源平の争乱における度重なる軍功により、十七国の守護職に補任された。元久2年(1205年)4月7日、定綱は病気によって出家し、わずか2日後の9日に死去した。享年64。鎌倉の西山に葬られた。
■ 佐々木定綱と源頼朝にみる宇多源氏嫡流と清和源氏嫡流の血縁
佐々木定綱にとって、宇多源氏(始祖:敦實親王&源雅信)の嫡流・源成頼は高祖父の父、佐々木義経(佐々木氏・祖)は高祖父、佐々木経方は曾祖父、佐々木季定は祖父、佐々木秀義は父、清和源氏(始祖:源経基)の嫡流・源義家は高祖父、源義親は曾祖父、源為義は祖父、源義朝は伯父、そして源頼朝源義経は従兄弟である。また、付け加えれば、父・秀義の妻は源為朝の娘であり、父・秀義源頼朝源義経の父・源義朝は婿養子兄弟である。

鎌倉幕府創設を支えた佐々木秀義とその息子たち

鎌倉幕府創設を支えた佐々木秀義とその息子たち

鎌倉幕府創設を支えた佐々木秀義とその息子たち

我が家系伝来の宇多源氏流(近江源氏・佐々木源氏)家系図(⇒ 秀義・定綱)

清和源氏と宇多源氏の血縁

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