崇徳天皇、源為義・為朝を祀る影像所蔵の白峯神宮(京都)
崇徳天皇、淳仁天皇と伴に源為義・為朝を祭神として祀る白峯神宮(京都)
京都での学会の帰途、白峯神宮を訪問。突然の訪問であったが、神宮禰宜のご厚意で、本宮社に伝わる崇徳天皇、源為義・為朝父子の影像を開帳し、拝覧させていただいた。 2018年6月10日 雨中、タクシーを借り切っての訪問
■ 白峯神宮
白峯神宮は、京都府京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町にあり、配流されてその地で歿した崇徳天皇および淳仁天皇を御祭神として祀る。また、白峰神宮の摂社である伴緒(とものお)社は、源為義とその息子・為朝を祭神として祀っている。明治天皇は父・孝明天皇の遺志を継ぎ、保元の乱により讃岐国(香川県)へ配流になった第75代・崇徳天皇を慰霊するため、明治元年(1868年)に讃岐の白峯陵より神霊を迎えて本社殿を創建された(旧名:白峯宮)。次いで、明治6年(1873年)には奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争い(藤原仲麻呂の乱)に巻き込まれて淡路島に配流の第47代・淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊を淡路から迎えて合祀し、官幣中社とした。昭和15年(1940年)に官幣大社に昇格し、神宮号の宣下を受けて白峯神宮となった。
白峯神宮の本殿には、和歌でも有名な崇徳天皇と日本書紀を編集した舎人親王の皇子である淳仁天皇の御霊が御祭神として祀られている。境内には、上記の源為義とその息子・為朝を祀る伴緒社のほかに、潜龍社や地主社などの境内社がある。白峯神宮の社地は、もともと蹴鞠の宗家であった堂上家(公家)・飛鳥井家の屋敷跡地であり、境内の地主社には蹴鞠の神様「精大明神」が祀られている。また、樹齢約800年とも言われる「小賀玉の木」は京都市の天然記念物に指定されている。
白峯神宮の本殿には、和歌でも有名な崇徳天皇と日本書紀を編集した舎人親王の皇子である淳仁天皇の御霊が御祭神として祀られている。境内には、上記の源為義とその息子・為朝を祀る伴緒社のほかに、潜龍社や地主社などの境内社がある。白峯神宮の社地は、もともと蹴鞠の宗家であった堂上家(公家)・飛鳥井家の屋敷跡地であり、境内の地主社には蹴鞠の神様「精大明神」が祀られている。また、樹齢約800年とも言われる「小賀玉の木」は京都市の天然記念物に指定されている。
白峯神宮・本殿
白峯神宮・拝殿 左近の桜 右近の橘
崇徳天皇欽仰之碑 白峯神宮
伴緒社 源為義・為朝を祀る 白峯神宮
天皇皇后両陛下 幣饌料御下賜
白峯神宮 手水舎
白峯神宮 蹴鞠碑
白峯神宮 飛鳥井と小賀玉の木(樹齢約800年)
白峯神宮 神門(工事中)
雨中断の間に蹴鞠の練習
■ 崇徳天皇、源為義、源為朝の影像
白峯神宮には、崇徳上皇在世中の宸筆と伝えられる宸影(鎌倉時代)と、源為義・為朝親子の影像が伝わっている。源為義・為朝親子の影像は、ご神体として神殿に納められている。この影像は、「崇徳天皇廟所」『京都史蹟の研究』(西田直二郎、吉川弘文館、1961年)によると、もともとは崇徳天皇廟とともにあった崇徳天皇御影堂が伝えたものであるとしている。
突然の訪問であったが、神宮禰宜のご厚意で、本宮社にて所蔵の崇徳上皇、源為義・為朝父子の影像を開帳し、拝覧させていただいた。(2018年6月10日 雨中、タクシーを借り切っての訪問)
突然の訪問であったが、神宮禰宜のご厚意で、本宮社にて所蔵の崇徳上皇、源為義・為朝父子の影像を開帳し、拝覧させていただいた。(2018年6月10日 雨中、タクシーを借り切っての訪問)
神宮禰宜のご厚意で、本宮社に伝わる崇徳天皇、源為義・為朝父子の影像を開帳し、拝覧させていただいた。
左:源為朝、中央:崇徳天皇、右:源為義
左:源為朝、中央:崇徳天皇、右:源為義
■ 佐々木秀義と源為義にみる宇多源氏と清和源氏の血縁と武将の宿命
源為義は、宇多源氏の嫡流・佐々木秀義の養義父、佐々木定綱の祖父であり、清和源氏の嫡流・源義家の孫、源義朝の父、源頼朝の祖父。すなわち佐々木秀義と源義朝は養子兄弟、佐々木定綱と源頼朝や源義経は従兄弟どうしである。
我が家系伝来の宇多源氏流(近江源氏・佐々木源氏)家系図(⇒ 秀義・定綱)
▼ 源為義
源為義 (1096-1156) は、平安時代末期の武将。清和天皇の皇子を祖とする清和源氏の嫡流:源氏の棟梁。祖父は「前九年の役」や「後三年の役」で武勇の士として有名な源「八幡太郎」義家、父は源義親。義親の西国での乱行により、祖父義家は三男・義忠を継嗣に定め、同時に孫の為義を次代の嫡子に命じたが、叔父の源義忠が家督就任3年後に暗殺されたため、河内源氏の棟梁となる。幼少時の為義は、京において祖父義家の養子として育てられ、祖父の死後は叔父の義忠に育てられている。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。検非遣使となり六条堀川の館に居住したことから通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父である。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが、家族の度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、久寿元年(1154年)、鎮西に派遣した八男の源為朝の乱行により責任を取って、翌二年(1155年)に解官。家督を長男義朝に譲る。一方、長男の義朝は妻の実家の熱田大宮司家(季範)を通じて鳥羽法皇に接近し、摂関家と結ぶ為義とは競合・対立していくことになる。
翌・保元元年(1156年)鳥羽法皇死後の皇位継承争いから、崇徳上皇と後白河天皇が対立し、さらに摂関家(藤原氏)内部の権力争いから左大臣頼長が上皇と関白忠通が天皇と結びついて、それぞれ配下の武士を召集したことから「保元の乱」が起こる。
主君に仕える武将の宿命か、為義は、主君・頼長の召集に応じて子の頼賢、為朝ら一族を率いて崇徳上皇方につき、後白河天皇方の長男義朝や婿養子秀義、平清盛らと戦うことになる。
為義は崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、東国へ落ち延びようとしたが、後白河天皇方についた長男の義朝のもとに降伏。出家する。後白川院の勅に対して、息子の義朝は自らの戦功に代えて、父・為義と弟たちの助命を願うが許されず、保元2年7月30日に義朝により(実際は配下の鎌田兵衛正清に申つけて)斬首された(場所は『保元物語』では七条朱雀、『兵範記』では船岡山)。享年61歳。天皇より贈られた源為義の位牌「贈内大臣義法大居士六條判官為義公 尊儀」(尊儀=天皇)
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが、家族の度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、久寿元年(1154年)、鎮西に派遣した八男の源為朝の乱行により責任を取って、翌二年(1155年)に解官。家督を長男義朝に譲る。一方、長男の義朝は妻の実家の熱田大宮司家(季範)を通じて鳥羽法皇に接近し、摂関家と結ぶ為義とは競合・対立していくことになる。
翌・保元元年(1156年)鳥羽法皇死後の皇位継承争いから、崇徳上皇と後白河天皇が対立し、さらに摂関家(藤原氏)内部の権力争いから左大臣頼長が上皇と関白忠通が天皇と結びついて、それぞれ配下の武士を召集したことから「保元の乱」が起こる。
主君に仕える武将の宿命か、為義は、主君・頼長の召集に応じて子の頼賢、為朝ら一族を率いて崇徳上皇方につき、後白河天皇方の長男義朝や婿養子秀義、平清盛らと戦うことになる。
為義は崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、東国へ落ち延びようとしたが、後白河天皇方についた長男の義朝のもとに降伏。出家する。後白川院の勅に対して、息子の義朝は自らの戦功に代えて、父・為義と弟たちの助命を願うが許されず、保元2年7月30日に義朝により(実際は配下の鎌田兵衛正清に申つけて)斬首された(場所は『保元物語』では七条朱雀、『兵範記』では船岡山)。享年61歳。天皇より贈られた源為義の位牌「贈内大臣義法大居士六條判官為義公 尊儀」(尊儀=天皇)
▼ 佐々木秀義
佐々木秀義 (1112-1184) は、平安時代末期の武将。宇多天皇の皇子を祖とする宇多源氏の嫡流:佐々木氏の当主。諱は秀義。源三と称す。贈・近江権守。法号は長命寺殿。享年73歳。宇多天皇玄孫・源成頼の嫡男である佐々木氏の祖・源章経(佐々木義経)の孫。13歳の時、清和源氏の嫡流:源為義の養子となり、為義の娘を娶る。源頼朝の父・義朝とは婿養子兄弟ということになる。媒母は奥州の覇者・藤原秀衡の妻である(『東鏡』など)とされているが、縁戚の詳細は不明。子には、嫡子長男・定綱、次男・経高、三男・盛綱、四男・高綱、五男・義清などがいる。頼朝の挙兵(鎌倉幕府立ち上げ)には、頼朝の従兄弟でもある息子の定綱、経高、盛綱、高綱の四兄弟を助けに向かわせる。
保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱で、秀義は天皇方の源義朝に与して戦うことになり、勝利するが、義朝に与し義朝の嫡子である源義平(鎌倉悪源太、源頼朝・義経らの異母兄)とともに戦った平治元年(1159年)の平治の乱では、義朝方は敗れる。『東鏡』割注など種々の史書によると、秀義は、子の定綱、経高、盛綱(このとき、高綱は幼少だったため、京都に残して)を連れて媒母の夫である藤原秀衡(奥州の覇者)を頼って奥州へ落ち延びようとしたが、途中、秀義の武勇に惚れ込んでいた桓武平氏の一族で武蔵国から相模国に至る領地を有した渋谷重国に引き留められ、その庇護を受ける。この地で20年を過ごし、渋谷重国の娘を娶り五男の義清をもうける。子息たちも宇都宮朝綱・渋谷重国・大庭景親など豪族級東国武士の娘婿になった。そして、秀義は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子・源頼朝の挙兵(鎌倉幕府立ち上げ)には、頼朝の従兄弟でもある息子の定綱、経高、盛綱、高綱の四兄弟を助けに向かわせる。
元暦元年(1184年) 7月、平家の残党による三日平氏の乱(伊勢・伊賀平氏の挙兵、江州甲賀郡上野村)の鎮圧に赴き、90余人を討った後、流れ矢に当り討死した。享年73歳。死後、その功により近江権守を贈られる。(『源平盛衰記』) 法号は長命寺殿。
保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱で、秀義は天皇方の源義朝に与して戦うことになり、勝利するが、義朝に与し義朝の嫡子である源義平(鎌倉悪源太、源頼朝・義経らの異母兄)とともに戦った平治元年(1159年)の平治の乱では、義朝方は敗れる。『東鏡』割注など種々の史書によると、秀義は、子の定綱、経高、盛綱(このとき、高綱は幼少だったため、京都に残して)を連れて媒母の夫である藤原秀衡(奥州の覇者)を頼って奥州へ落ち延びようとしたが、途中、秀義の武勇に惚れ込んでいた桓武平氏の一族で武蔵国から相模国に至る領地を有した渋谷重国に引き留められ、その庇護を受ける。この地で20年を過ごし、渋谷重国の娘を娶り五男の義清をもうける。子息たちも宇都宮朝綱・渋谷重国・大庭景親など豪族級東国武士の娘婿になった。そして、秀義は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子・源頼朝の挙兵(鎌倉幕府立ち上げ)には、頼朝の従兄弟でもある息子の定綱、経高、盛綱、高綱の四兄弟を助けに向かわせる。
元暦元年(1184年) 7月、平家の残党による三日平氏の乱(伊勢・伊賀平氏の挙兵、江州甲賀郡上野村)の鎮圧に赴き、90余人を討った後、流れ矢に当り討死した。享年73歳。死後、その功により近江権守を贈られる。(『源平盛衰記』) 法号は長命寺殿。