高光・高数兄弟:相並んで相国寺供養に臨む将軍を随兵供奉
高光・高数兄弟:相並んで、相国寺(京都)落慶供養に臨む将軍・義満を随兵供奉
Takamitsu and Takakazu brothers: Side by side, offered a
military escort to Shogun Yoshimitsu who was attending
the memorial service to celebrate the completion of
Shokokuji Buddhist Hall
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家系図には、7代目・高数(京極九郎加賀守)の注記に「相国寺供養随兵兄弟相並」とある。京都相国寺および「相国寺供養」を調べる。
■ 京極家7代目・京極高数加賀守 「相国寺供養随兵兄弟相並」
■ 相国寺とは
相国寺(しょうこくじ)は、京都市上京区にある臨済宗相国寺派の大本山である。山号を萬年山(万年山)と称し、正式名称を萬年山相國承天禅寺(万年山相国承天禅寺)。開基は室町三代将軍足利義満で、開山は、義満の祖父尊氏が帰依していた禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)。足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭である。
相国寺の名の由来は、義満が左大臣であり、中国で左大臣は「相国」ということから、また「相国」とは国をたすける、治めるという意味であることから夢窓疎石の弟子・春屋妙葩が提案したとのことである。
相国寺の名の由来は、義満が左大臣であり、中国で左大臣は「相国」ということから、また「相国」とは国をたすける、治めるという意味であることから夢窓疎石の弟子・春屋妙葩が提案したとのことである。
足利義満は父の義詮(よしあきら:二代将軍)が若くして亡くなったため、11歳の若さで将軍に就任したが(応安元年:1368年)、管領細川氏補佐のもとで実力をつけ、永和四年(1378年)には、現在の今出川通と上立売通の間(南北間)、烏丸通と室町通の間(東西間)の広大な敷地に室町殿という将軍の居所を造営する。これが室町幕府の名の起こりである。
京中の貴族や武士の屋敷にあった名花、名木を強引に移植させたといわれ、花の御所と呼ばれている。そして、義満はこの花の御所の東側に禅寺を建築することを思い立ち、十年の歳月をかけ、相国寺を建立する。しかも、義満は、南禅寺を京都五山の上に据え、天龍寺に次いで相国寺を第二位とし、禅宗寺院の僧侶の人事権を管理する僧録司の職を相国寺の住持に兼務させた。
すなわち、相国寺を純粋な宗教的役割以外に義満の権威を誇示するための象徴とした。相国寺には、13の塔頭(たっちゅう)寺院があり、山外塔頭としては鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺がある。また全国に100カ寺の末寺を擁している。
京中の貴族や武士の屋敷にあった名花、名木を強引に移植させたといわれ、花の御所と呼ばれている。そして、義満はこの花の御所の東側に禅寺を建築することを思い立ち、十年の歳月をかけ、相国寺を建立する。しかも、義満は、南禅寺を京都五山の上に据え、天龍寺に次いで相国寺を第二位とし、禅宗寺院の僧侶の人事権を管理する僧録司の職を相国寺の住持に兼務させた。
すなわち、相国寺を純粋な宗教的役割以外に義満の権威を誇示するための象徴とした。相国寺には、13の塔頭(たっちゅう)寺院があり、山外塔頭としては鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺がある。また全国に100カ寺の末寺を擁している。
▼ 境内の文化財
室町幕府三代将軍・足利義満の権威の象徴であった相国寺はたびたび火災に遭い創建当時のものは残っていないが、慶長十年(1605年)に豊臣秀頼の寄進により再建された法堂(はっとう)は現存する日本最古の法堂建築として重要文化財に指定されている。また現在の方丈、庫裡、開山堂、勅使門、総門、浴室、鐘楼、蔵経塔、弁天社は京都府指定有形文化財となっている。
その他、相国寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)の宝物は承天閣美術館に収蔵され、定期的に公開されている。 例えば、鹿苑寺書院にあった伊藤若冲による襖絵や、長谷川等伯による竹林猿猴図、円山応挙の諸作品やその他多くの国宝、重要文化財が承天閣美術館に収蔵されている。
その他、相国寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)の宝物は承天閣美術館に収蔵され、定期的に公開されている。 例えば、鹿苑寺書院にあった伊藤若冲による襖絵や、長谷川等伯による竹林猿猴図、円山応挙の諸作品やその他多くの国宝、重要文化財が承天閣美術館に収蔵されている。
■ 相国寺供養とは
わが家系に伝来の系図には、七代目・高数(京極九郎加賀守)の注記に「相国寺供養随兵兄弟相並」とある。この「相国寺供養」とは、明徳三年(1392年)八月二十八日の相国寺供養に臨む3代将軍義満に随兵供奉したときのことであろう。すなわち、3代将軍足利義満の建立にかかる相国寺の仏殿の落慶供養が催されたときのことであろう。3代将軍義満、4代将軍義持、6代将軍義教の寵を受けていた高数は、諸国の大名が参列する中、兄高光と相並んで、将軍・義満を随兵供奉した。(「相国寺供養記」)
ちなみに、わが家系7代目・京極高数は、室町時代中期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人ならびに山城守護、出雲・隠岐・飛騨守護を兼務。京極高詮の次男で高光の弟。京極多賀高忠の父。初名は高員と称した。官途は加賀守等。
兄高光は将軍・義満から義持に出仕。幕府侍所頭人。民部少輔・大膳大夫・治部少輔・入道道通。近江・飛騨・出雲・隠岐の守護大名兼任。高光は病弱であり公務にも耐えられないことが多く、弟の高数が代行することが多かった。その上、高光が応永20年(1413年)39歳で早世したため、わが家系7代目・高数は兄・高光の嫡男・持高、そして次男・持清を後見し、実質的には宗家の家政を高光、持高、持清の3代に渡って担っていたが、将軍家は7代目・高数をひとかどの人物として寵し、将軍・足利義満、義持、義教の代々に渡って、重用し寵遇していたことが最大の理由で、6代将軍・足利義教はわが家系7代目の高数を京極氏の当主とした。(薩戎記)。
高光の次男・京極持清〈1407−1470年〉は、管領細川氏(勝元)の叔父。中務少輔・大膳大夫・入道生勧。「永享の乱」に足利持氏討伐の遠征軍。嘉吉の乱(将軍、管領、有力守護大名、公家らを招いた赤松満祐の酒宴偽装による将軍・足利義教の暗殺と供奉相伴のわが家系7代目・高数の孤軍奮闘の死)後の京都警護、赤松満祐討伐のための播磨遠征に従軍し軍功。
叔父・高数の死後、従兄弟の京極高忠(高数の嫡男:幕府要人のわが家系8代目)より京極家宗家(近江の領土)の家督を譲られ、継承(父の弟・高数の血筋から父・高光の血筋すなわち嫡男・持高は1439年に早世のため、次男・持清へ戻されたことになる)。侍所頭人となる。
1467〜1477年の「応仁の乱」では、京極持清(細川勝元の叔父:持清の妹が勝元の母すなわち勝元の父・細川持之の室)は、管領・細川勝元方として東軍に与すが、持清に代わって、京極家の家宰であり、近江宗家を守護代として擁護する従兄弟の京極多賀高忠(高数の嫡男、わが家系8代目)が東軍の総大将として西軍の山名持豊(宗全)を撃破し、東軍の京都防衛に軍功。
わが家系8代目・高忠は、寛正3年(1462年)以降および文明17年(1485年)以降の、2度にわたる室町幕府・京都所司代を勤め、応仁の乱で荒廃した京都を建て直し、最後まで父同様に室町幕府を擁護として、名所司代として後世に名を残す。
兄高光は将軍・義満から義持に出仕。幕府侍所頭人。民部少輔・大膳大夫・治部少輔・入道道通。近江・飛騨・出雲・隠岐の守護大名兼任。高光は病弱であり公務にも耐えられないことが多く、弟の高数が代行することが多かった。その上、高光が応永20年(1413年)39歳で早世したため、わが家系7代目・高数は兄・高光の嫡男・持高、そして次男・持清を後見し、実質的には宗家の家政を高光、持高、持清の3代に渡って担っていたが、将軍家は7代目・高数をひとかどの人物として寵し、将軍・足利義満、義持、義教の代々に渡って、重用し寵遇していたことが最大の理由で、6代将軍・足利義教はわが家系7代目の高数を京極氏の当主とした。(薩戎記)。
高光の次男・京極持清〈1407−1470年〉は、管領細川氏(勝元)の叔父。中務少輔・大膳大夫・入道生勧。「永享の乱」に足利持氏討伐の遠征軍。嘉吉の乱(将軍、管領、有力守護大名、公家らを招いた赤松満祐の酒宴偽装による将軍・足利義教の暗殺と供奉相伴のわが家系7代目・高数の孤軍奮闘の死)後の京都警護、赤松満祐討伐のための播磨遠征に従軍し軍功。
叔父・高数の死後、従兄弟の京極高忠(高数の嫡男:幕府要人のわが家系8代目)より京極家宗家(近江の領土)の家督を譲られ、継承(父の弟・高数の血筋から父・高光の血筋すなわち嫡男・持高は1439年に早世のため、次男・持清へ戻されたことになる)。侍所頭人となる。
1467〜1477年の「応仁の乱」では、京極持清(細川勝元の叔父:持清の妹が勝元の母すなわち勝元の父・細川持之の室)は、管領・細川勝元方として東軍に与すが、持清に代わって、京極家の家宰であり、近江宗家を守護代として擁護する従兄弟の京極多賀高忠(高数の嫡男、わが家系8代目)が東軍の総大将として西軍の山名持豊(宗全)を撃破し、東軍の京都防衛に軍功。
わが家系8代目・高忠は、寛正3年(1462年)以降および文明17年(1485年)以降の、2度にわたる室町幕府・京都所司代を勤め、応仁の乱で荒廃した京都を建て直し、最後まで父同様に室町幕府を擁護として、名所司代として後世に名を残す。
▼ 相国寺七重大塔の供養
別に国家的な供養催事として、相国寺七重大塔の供養がある。足利義満は、相国寺の伽藍を完成させた後、父義詮の33回忌追善のため七重大塔の建立にとりかかり、応永6(1399)年9月、落慶法要を行った。父の年忌と義満自身の厄払いを兼ねる私的法事であるが、国家的法要に準ずるものとされ、一代の盛儀といわれた。関白・左大臣・内大臣など朝廷の高官が諸役を受け持って参列し、天台座主・仁和寺門跡といった高僧が導師役を勤めた。一般の僧侶は宗派を問わず、1千人が動員された。
義満の権勢は、全僧官、廷臣が北山第(義満の山荘)に集合し、関白以下全員土下座する中を相国寺に向かったという記述や、青蓮院尊道入道親王、仁和寺永助法親王(いずれも天皇の皇子)の両皇族が自ら望んで付き従ったという記述などからも窺える。
実際、相国寺に造られた七重の塔(七重大塔)は、当時としては最も高い塔(109m:火災で焼亡し現存せず)であり、天皇の座する御所を見下ろすような巨大建築物を建てることにより、王者としての権威を誇示したものと思われる。(権威の象徴であった高さ109mの七重大塔は、二度の火災に遭い、その後再建されていない)。
義満の権勢は、全僧官、廷臣が北山第(義満の山荘)に集合し、関白以下全員土下座する中を相国寺に向かったという記述や、青蓮院尊道入道親王、仁和寺永助法親王(いずれも天皇の皇子)の両皇族が自ら望んで付き従ったという記述などからも窺える。
実際、相国寺に造られた七重の塔(七重大塔)は、当時としては最も高い塔(109m:火災で焼亡し現存せず)であり、天皇の座する御所を見下ろすような巨大建築物を建てることにより、王者としての権威を誇示したものと思われる。(権威の象徴であった高さ109mの七重大塔は、二度の火災に遭い、その後再建されていない)。
▼ 随兵供奉とは
随兵供奉(ずいひょうぐぶ)とは、鎌倉、室町幕府では、将軍の外出時の護衛のための随行、すなわち拝賀参内や寺社参詣などの行列に甲冑をつけ、弓矢を帯し、騎馬にて随行し、将軍の身辺警固をすることをいう。また、その護衛の武士を随兵という。随兵は将軍の車輿を中にして、先陣、後陣、左右2列または3列に並ぶ。先陣、後陣では将軍の近く、左右では左、3列では中央に位置する者がそれぞれ上位である。
■ 相国寺(京都)を訪ねる
学会出張の帰途、歩行不調&炎天下(気温37度)ながら、7代目・京極高数が兄・高光と3代将軍・足利義満の国家的催事「相国寺供養」(相国寺建立にかかる仏殿の落慶供養)を随兵供奉したという相国寺(京都)を訪ねる。 2016年7月31日
大本山 相国寺全景
相国寺 総門
放生池と天界橋
(相国寺と禁裏御所との境界を表す)
(相国寺と禁裏御所との境界を表す)
手前左:法堂(重文)、手前右:弁天社、中央:玄関廊(重文)、奥突き当り:左:方丈、右:庫裡
鐘楼(洪音楼)
奥突き当り:庫裡、手前右:宗務本所、
中央:法堂を導く玄関廊(重文)
中央:法堂を導く玄関廊(重文)
法堂と法堂を導く玄関廊(重文)
法堂を導く玄関廊(重文)と鳴龍拝観案内
鳴龍 狩野光信 作
法堂(重文)
浴室
天響楼
手前:法堂を導く玄関廊(重文) 奥突き当り:庫裡
庫 裡
▼ 運よく承天閣美術館収蔵の定期的な宝物公開に遭遇
相国寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)の宝物は境内にある承天閣美術館に収蔵され、定期的に公開されている。 例えば、鹿苑寺書院にあった伊藤若冲による襖絵や、長谷川等伯による竹林猿猴図、円山応挙の諸作品やその他多くの国宝、重要文化財が承天閣美術館に収蔵されている。今回はたまたま伊東若冲の作品が生誕300年記念として展示されていた。
伊藤若冲展・相国寺承天閣美術館
承天閣前庭・普陀落山の庭(禅宗枯山水庭園)
観音菩薩の極楽浄土の姿を表わすという
観音菩薩の極楽浄土の姿を表わすという
鹿苑寺(金閣寺)境内の
「夕佳亭」を復元
「夕佳亭」を復元
鹿苑寺(金閣寺)大書院旧障壁画 伊藤若冲作 (重文)
鹿苑寺(金閣寺)大書院旧障壁画 伊藤若冲作 (重文)