検査抑制の罪過と責任
検査隔離体制と治療体制の整備拡充は両立に確立すべし! 2020年6月21日
The blame for the suppression of inspection
同窓会誌・特集「コロナ禍」への寄稿 ➔ 拡大 (pdf)
■ 検査隔離体制と治療体制の整備拡充は両立させて確立すべきである!
政治が緊急に取り組むべき最優先の対策は、感染の拡大防止のための検査隔離体制(検査施設および隔離施設)の整備拡充と、治療のための医療体制(感染症治療施設)の整備拡充を両立させて確立することである。すなわち、有事に許容できるだけの「大量検査のできる検査施設と無症状ウイルス保有者・軽症者対象の隔離施設(簡易治療含む)と中・重症者対象の治療施設」をそれぞれ独立に整備拡充することである。
While making the development and expansion of inspection and isolation system (the inspection facilities and the isolation facilities) to prevent the spread of infection compatible with the improvement and expansion of medical system(the infectious disease facilities)for treatment, both the establishments should be the most urgent and highest priority measures for politics. |
▼ 検査抑制の罪過と責任
PCR(ポリメラーゼ連鎖反応 polymerase chain reaction)検査の必要性は、2009年の新型インフルエンザ(パンデミック2009)の流行時の反省点として、PCR検査体制の強化、危機管理の専門体制強化などが翌2010年の厚労省の報告書にまとめたられていたが、これらの強化は10年後の今年に至っても全く実現されておらず、今回のコロナ感染拡大の有事には全く活かされなかった。
こうした背景もあり、感染拡大が顕著化し始めた2月の時点では検査体制はおろか隔離体制や医療体制が社会医学的レベルで全く機能しておらず、ましてや検査施設および隔離施設と治療施設の整備拡充をそれぞれ独立させて確立することの必要性や重要性などに関する先見の識は、全く政治の中にその欠片すら見出せなかった。
それどころか、この時点での内閣や専門家会議は「限られたPCR検査の資源を、重症化の恐れのある方に集中させる必要がある」を大義名分にPCR検査抑制論を打ち出した。すなわち、1)新型コロナウイルスに対するPCR検査の感度、特異度、適中度が確かでなく、偽陰性、偽陽性の軽症や無症状の人を拾うことになる。その結果、2)陽性者は隔離等を強いられ、措置入院となり、病床満杯で、重症者の受け入れが不能となるなどの医療機関の混乱すなわち医療崩壊を招く。従って、3)軽症者まで徹底的に検査する大量検査は逆に弊害が多く、検査前に陽性確率の高い濃厚接触のある有症状者や肺炎例に限って検査を行う方が合理的である。などを尤もらしい(あるいはその場凌ぎの)「言い訳」にして、重症化しそうな人以外はPCR検査をさせないという無症状ウイルス保有者や軽症者を無視する方策に出た。(後述するが、検査陽性者をすべて中・重症者対象治療施設に隔離入院すべきと勘違いあるいは言い訳したところに誤りあり)
このため、国民の間ならびに医療の現場で混乱が始まった。すなわち、この段階では、コロナ感染の早期発見ならびに確認のためにはPCR検査が必須であり、最も必要であったはずであるが、内閣は帰国者・接触者相談センターという関所を設け、PCR検査を望む患者や医師からの要請をブロックした。一刻も早いPCR検査を望む患者や医師と、できるだけ検査をさせまいとする内閣や専門家会議。そのギャップは余りに大きく、国民に大きな疑問と不信感を与えた。PCR検査を受けられない軽症者はもちろんのこと、感染の自覚がない無症状のウイルス保有者が家庭内だけでなく、社会においても無防備に横行する事態を招き、感染を拡大させていった。
ウイルス感染の拡大は「人の移動」が全てであり、その防止には「初期対応」が全てである。とくに、拡大防止には、感染者を早い段階で特定して隔離すること、すなわち感染初期における迅速・短期・集中の「検査と隔離」の徹底が緊要であるが、内閣ならびに専門家会議はこれを軽視したため、以後に取返しのつかない深刻なる事態(大失策)を招くことになった。そして、感染初期における「人の移動」に対する先見なき対応(含・水際対策での大失態)とも重なり、日本全土にウイルスを蔓延させ、国民生活や社会経済に無駄な混乱と負担を強い、その後始末に国民や国を翻弄、疲弊させ、尊い命を奪うに至らしめた。ウイルスを国内に招き入れ、全土に拡散させてからでは「後の祭り」で、ワクチンや特効薬が無い限り、国民はその始末(ウイルス禍)に翻弄され、疲弊する。結果、予期せぬ死者を出す。「成るべくして成る」である。
上述の内閣や専門家会議によるPCR検査抑制策では、無症状ウイルス保有者・軽症者対象の「大量検査」を医療崩壊の原因に挙げているが、これは大きな間違いである。「検査陽性者はすべて中・重症者対象治療施設に隔離入院すべき」と勘違いし、病床満杯による医療機関の混乱や医療崩壊を懸念しているのであろうが、当初より大量検査のできる検査施設と無症状ウイルス保有者や軽症者を一時的に収容できる隔離施設(簡易治療含む)を整備拡充しておけば、この懸念は解決することである。すなわち、有事に許容できるだけの「大量検査が可能な検査施設と無症・軽症者対象の隔離施設(簡易治療含む)と中・重症者対象の治療施設」をそれぞれ独立に整備拡充しておけば、大量検査による弊害は解決できることである。
本来ならば、感染初期において、危機管理の上から有事に備えて、、感染の拡大防止のためには大量検査が可能な検査施設と無症状ウイルス保有者や軽症者対象の隔離施設(簡易治療含む)の拡充を、治療のためには中・重症者対象の感染症施設の整備拡充をそれぞれ最優先かつ緊急に両立させ確立させておくべきところであるが、ウイルス侵入より半年を経た今になっても、この両立は未だ確立されていない。危機管理における意思があれば、あるいは先見の識さえあれば、感染初期の段階で実行・実現できたはずである。
それどころか、後発の「感染爆発」への対応など、最悪の事態を想定して設定された「許容体制」のレベルが余りに低過ぎるとして、医療現場からは「医療崩壊」を防げるだけの「施設と人材(さらにはそのための教育)の確保」が十分とは言えないと指摘されている。
この間にも、自宅待機・自宅内感染を含め、PCR検査を望みながらも受けられず、重症化あるいは手遅れで死亡する方々が増大している現実があり、過去に見られるような実効性の無い対応に終始するようであれば、これらの方々に対して如何なる責任が取れるのであろうか。先見の策なき6か月間の検査抑制の罪過と責任が問われる。
こうした背景もあり、感染拡大が顕著化し始めた2月の時点では検査体制はおろか隔離体制や医療体制が社会医学的レベルで全く機能しておらず、ましてや検査施設および隔離施設と治療施設の整備拡充をそれぞれ独立させて確立することの必要性や重要性などに関する先見の識は、全く政治の中にその欠片すら見出せなかった。
それどころか、この時点での内閣や専門家会議は「限られたPCR検査の資源を、重症化の恐れのある方に集中させる必要がある」を大義名分にPCR検査抑制論を打ち出した。すなわち、1)新型コロナウイルスに対するPCR検査の感度、特異度、適中度が確かでなく、偽陰性、偽陽性の軽症や無症状の人を拾うことになる。その結果、2)陽性者は隔離等を強いられ、措置入院となり、病床満杯で、重症者の受け入れが不能となるなどの医療機関の混乱すなわち医療崩壊を招く。従って、3)軽症者まで徹底的に検査する大量検査は逆に弊害が多く、検査前に陽性確率の高い濃厚接触のある有症状者や肺炎例に限って検査を行う方が合理的である。などを尤もらしい(あるいはその場凌ぎの)「言い訳」にして、重症化しそうな人以外はPCR検査をさせないという無症状ウイルス保有者や軽症者を無視する方策に出た。(後述するが、検査陽性者をすべて中・重症者対象治療施設に隔離入院すべきと勘違いあるいは言い訳したところに誤りあり)
このため、国民の間ならびに医療の現場で混乱が始まった。すなわち、この段階では、コロナ感染の早期発見ならびに確認のためにはPCR検査が必須であり、最も必要であったはずであるが、内閣は帰国者・接触者相談センターという関所を設け、PCR検査を望む患者や医師からの要請をブロックした。一刻も早いPCR検査を望む患者や医師と、できるだけ検査をさせまいとする内閣や専門家会議。そのギャップは余りに大きく、国民に大きな疑問と不信感を与えた。PCR検査を受けられない軽症者はもちろんのこと、感染の自覚がない無症状のウイルス保有者が家庭内だけでなく、社会においても無防備に横行する事態を招き、感染を拡大させていった。
ウイルス感染の拡大は「人の移動」が全てであり、その防止には「初期対応」が全てである。とくに、拡大防止には、感染者を早い段階で特定して隔離すること、すなわち感染初期における迅速・短期・集中の「検査と隔離」の徹底が緊要であるが、内閣ならびに専門家会議はこれを軽視したため、以後に取返しのつかない深刻なる事態(大失策)を招くことになった。そして、感染初期における「人の移動」に対する先見なき対応(含・水際対策での大失態)とも重なり、日本全土にウイルスを蔓延させ、国民生活や社会経済に無駄な混乱と負担を強い、その後始末に国民や国を翻弄、疲弊させ、尊い命を奪うに至らしめた。ウイルスを国内に招き入れ、全土に拡散させてからでは「後の祭り」で、ワクチンや特効薬が無い限り、国民はその始末(ウイルス禍)に翻弄され、疲弊する。結果、予期せぬ死者を出す。「成るべくして成る」である。
上述の内閣や専門家会議によるPCR検査抑制策では、無症状ウイルス保有者・軽症者対象の「大量検査」を医療崩壊の原因に挙げているが、これは大きな間違いである。「検査陽性者はすべて中・重症者対象治療施設に隔離入院すべき」と勘違いし、病床満杯による医療機関の混乱や医療崩壊を懸念しているのであろうが、当初より大量検査のできる検査施設と無症状ウイルス保有者や軽症者を一時的に収容できる隔離施設(簡易治療含む)を整備拡充しておけば、この懸念は解決することである。すなわち、有事に許容できるだけの「大量検査が可能な検査施設と無症・軽症者対象の隔離施設(簡易治療含む)と中・重症者対象の治療施設」をそれぞれ独立に整備拡充しておけば、大量検査による弊害は解決できることである。
本来ならば、感染初期において、危機管理の上から有事に備えて、、感染の拡大防止のためには大量検査が可能な検査施設と無症状ウイルス保有者や軽症者対象の隔離施設(簡易治療含む)の拡充を、治療のためには中・重症者対象の感染症施設の整備拡充をそれぞれ最優先かつ緊急に両立させ確立させておくべきところであるが、ウイルス侵入より半年を経た今になっても、この両立は未だ確立されていない。危機管理における意思があれば、あるいは先見の識さえあれば、感染初期の段階で実行・実現できたはずである。
それどころか、後発の「感染爆発」への対応など、最悪の事態を想定して設定された「許容体制」のレベルが余りに低過ぎるとして、医療現場からは「医療崩壊」を防げるだけの「施設と人材(さらにはそのための教育)の確保」が十分とは言えないと指摘されている。
この間にも、自宅待機・自宅内感染を含め、PCR検査を望みながらも受けられず、重症化あるいは手遅れで死亡する方々が増大している現実があり、過去に見られるような実効性の無い対応に終始するようであれば、これらの方々に対して如何なる責任が取れるのであろうか。先見の策なき6か月間の検査抑制の罪過と責任が問われる。
■ 日本における感染者数の推移 2020.3.15〜6.21
日本における感染者数の推移(3.15〜6.21) (pdf)
■ 日本における死亡者数の推移 2020.3.15〜6.21
日本における死亡者数の推移(3.15〜6.21) (pdf)
■ 東京における感染者数の推移 2020.3.15〜6.21
東京における感染者数の推移(3.15〜6.21) (pdf)
■ 東京における死亡者数の推移 2020.3.15〜6.21
東京における死亡者数の推移(3.15〜6.21) (pdf)
■ 各国における死亡者数の推移
▼ 超死亡高値国にみる新規死亡者数(日別)の推移 2020.3.15〜6.21
▼ 死亡高値国にみる新規死亡者数(日別)の推移 2020.3.15〜6.21
▼ 死亡低値国にみる新規死亡者数(日別)の推移 2020.3.15〜6.21
優れたリーダーを持つ国では感染拡大への初期対応が早く、迅速・短期・集中の理にかなった阻止対応(封じ込め)により、感染者数や死亡者数の値が低く、大半はすでに新規死亡者ゼロを維持。
▼ 死亡低値国にみる死亡者数(累計)の推移 2020.3.15〜6.21
以上、参考:WHO公表値あああ
■ 日本の死者発生は、米国と同じパターンで、未だに増加し続けている。東アジア・西太平洋諸国中最悪であるこの現状を何故公表しないのか!
「素早い初期対応」と「迅速・短期・集中」の理にかなった「検査と隔離」を徹底した韓国、台湾、タイ、シンガポール、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランドなどの東アジア・西太平洋諸国では、現在ほとんど死者は出ていないのに対し、日本では未だに死者数が増えており、現時点で死者総数は950人を超える勢いである。日本の死者発生状況が東アジア・西太平洋諸国中最悪であることを何故公表しないのか! |
■ 死者発生においては、個の存在と尊厳を敬意をもって重視すべし!
死者発生においては、その事実の重要性と責任を、数値の観点からではなく、
「個の存在と尊厳」に重きを置いた観点から敬意をもって論ずるべきである!
「個の存在と尊厳」に重きを置いた観点から敬意をもって論ずるべきである!
The gravity of facts and the responsibility in the death occurrence should be discussed with respect from the perspective of an emphasis on the existence and dignity of individuals rather than from the viewpoint of number ! |