世界遺産・宗像大社(宗像)を訪ねて
世界文化遺産登録・宗像大社(辺津宮・中津宮)を訪ねて 2018年10月19日
自宅ー自動車ー航空機ー自動車ー目的地ー自動車ー航空機ー自動車ー自宅の宅配便で、極力歩行を控え、2泊3日の九州での高校同窓会(福岡・二日市温泉)、宗像大社・辺津宮(宗像)、渡船フェリーで宗像大社・中津宮(大島)&安倍宗任菩提寺・安昌院(大島)訪問、中学恩師宅(豊前)訪問&中学同窓会(門司)を熟す 2018年10月18日〜20日 |
宗像・大島へのアクセス
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群:世界文化遺産登録(世界遺産推進会議資料より)
■ 世界文化遺産に登録された「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群
2017年7月、ポーランドのクラクフで開催されたユネスコ世界遺産委員会で、宗像大社を構成する三宮を中心に、厳格な禁忌により手付かずに守り継いできた古代の祭祀遺跡や信仰の伝統、その祭祀を担った宗像一族の古墳群が、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群として、世界文化遺産に登録された。登録された遺産群は、1. 玄海灘に浮かぶ沖ノ島と宗像大社沖津宮および島周辺にある三つの岩礁(2. 小屋島、3. 天狗岩、4. 御門柱)、大島の5. 宗像大社中津宮と6. 沖津宮遥拝所、九州本土の7. 宗像大社辺津宮と8. 新原・奴山古墳群など八つの遺産から構成されている。
大社宗像神社 大鳥居入口
■ 天照大神の御子神である三女神を祀る宗像大社
辺津宮・中津宮・沖津宮の三つの宮から成る宗像大社には、天照大神の御子神(日本書記&宗像大社説)である三女神が祀られている。宗像大社福岡県宗像市田島の辺津宮には「市寸嶋比売命(市杵島姫命:いちきしまひめのみこと)」、宗像・大島の中津宮には「多岐津比売命(湍津姫命:たぎつひめのみこと)」、宗像・沖の島の沖津宮には「多紀理比売命(田心姫命:たごりひめのみこと)」がそれぞれ祀られており、これら三女神を「宗像三女神」という。
八世期初めに編纂された古事記・日本書記神話によれば、これらの三女神は、「素戔鳴尊(須佐之男命:すさのおのみこと)」が高天原(たかまのはら)で、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」に邪心がないことを示すための「剣玉の誓約(うけひ):正しいか否かの占い」をされた時に、天照大神が素戔鳴尊の剣、十拳剣(とつかのつるぎ)をとって三つに割り、「天真名井(あめのまない)」の聖水を口に含み、勢いよく吹きかけると、「天の安河(あまのやすかわ)」で、あるいは「天真名井の吐噴霧」から、三柱の女神が化生したと記述されており、日本書記&宗像大社説では天照大神の御子神とされている。すなわち、誓約(うけひ)の時に、八柱の神々が誕生したが、その内、天照大神が生み出した三柱の女神を宗像三女神としている。しかし、古事記では須佐之尊の剣から化生したので、三女神は天照大神ではなく、須佐之尊の御子神と記されている。化生された三柱の女神は、天孫降臨に先立ち、天照大神の御神勅によって(日本と大陸を結ぶ海の島々、すなわち北部九州から朝鮮半島へと至る海路「海北道中」の守り神として)筑前宗像に降臨し、長女は田心姫命として沖ノ島の沖津宮に、次女は湍津姫命として大島の中津宮に、三女は市杵島姫命として田島の辺津宮にそれぞれ鎮座し、お祀りされるようになったのが起こりとされる。古事記と日本書記では神話の伝承に若干の違いがあるが、日本書記の記述の方が本家の宗像大社の伝承内容に一番近いと言われている。本稿では、三女神の神名については、「古事記名(日本書記)」の順で表記した。
ちなみに、天照大神が宗像三女神に授けた言葉(神勅)は「奉助天孫而 為天孫所祭」(汝三神は宜しく道中に降居して天孫を助け奉り、天孫に祀(いつ)かれよ)であり、道中とは日本から大陸及び古代朝鮮半島を結ぶ海北道中の島々(沖津宮・沖ノ島、中津宮・筑前大島、辺津宮・宗像田島)を含む玄界灘をさす。
然るに、宗像三女神は日本と大陸を結ぶ海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、宗像大神または道主貴(みちぬしのむち)と呼ばれる。あらゆる「道」を導かれる最高神として、すなわち航海の安全、交通安全、人生の道、修行の道、芸事の道、商いの道、勉学の道など全ての道を司る神として、大和朝廷によって古くから重視され、皇室をはじめ多くの人々から尊崇されている。貴(むち)とは、最も高貴な神に贈られる尊称で、宗像三女神は伊勢神宮の天照大神、出雲大社の大国主命と並んで三社のみに与えられた称号である。
厳島神社においても、これらの神々は御皇室の安泰や国家鎮護、また海上の守護神として古くから崇信を受けて来ている。ちなみに、三女の「市寸島比売命(市杵島姫命」は、その容姿の美しさのあまり、神仏習合では「弁天様(弁財天)」と合わさり、「蓄財」のご利益をも併せ持つことで崇敬を集め、厳島神社の社名もこの女神の名が訛っていったとされる。
八世期初めに編纂された古事記・日本書記神話によれば、これらの三女神は、「素戔鳴尊(須佐之男命:すさのおのみこと)」が高天原(たかまのはら)で、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」に邪心がないことを示すための「剣玉の誓約(うけひ):正しいか否かの占い」をされた時に、天照大神が素戔鳴尊の剣、十拳剣(とつかのつるぎ)をとって三つに割り、「天真名井(あめのまない)」の聖水を口に含み、勢いよく吹きかけると、「天の安河(あまのやすかわ)」で、あるいは「天真名井の吐噴霧」から、三柱の女神が化生したと記述されており、日本書記&宗像大社説では天照大神の御子神とされている。すなわち、誓約(うけひ)の時に、八柱の神々が誕生したが、その内、天照大神が生み出した三柱の女神を宗像三女神としている。しかし、古事記では須佐之尊の剣から化生したので、三女神は天照大神ではなく、須佐之尊の御子神と記されている。化生された三柱の女神は、天孫降臨に先立ち、天照大神の御神勅によって(日本と大陸を結ぶ海の島々、すなわち北部九州から朝鮮半島へと至る海路「海北道中」の守り神として)筑前宗像に降臨し、長女は田心姫命として沖ノ島の沖津宮に、次女は湍津姫命として大島の中津宮に、三女は市杵島姫命として田島の辺津宮にそれぞれ鎮座し、お祀りされるようになったのが起こりとされる。古事記と日本書記では神話の伝承に若干の違いがあるが、日本書記の記述の方が本家の宗像大社の伝承内容に一番近いと言われている。本稿では、三女神の神名については、「古事記名(日本書記)」の順で表記した。
ちなみに、天照大神が宗像三女神に授けた言葉(神勅)は「奉助天孫而 為天孫所祭」(汝三神は宜しく道中に降居して天孫を助け奉り、天孫に祀(いつ)かれよ)であり、道中とは日本から大陸及び古代朝鮮半島を結ぶ海北道中の島々(沖津宮・沖ノ島、中津宮・筑前大島、辺津宮・宗像田島)を含む玄界灘をさす。
然るに、宗像三女神は日本と大陸を結ぶ海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、宗像大神または道主貴(みちぬしのむち)と呼ばれる。あらゆる「道」を導かれる最高神として、すなわち航海の安全、交通安全、人生の道、修行の道、芸事の道、商いの道、勉学の道など全ての道を司る神として、大和朝廷によって古くから重視され、皇室をはじめ多くの人々から尊崇されている。貴(むち)とは、最も高貴な神に贈られる尊称で、宗像三女神は伊勢神宮の天照大神、出雲大社の大国主命と並んで三社のみに与えられた称号である。
厳島神社においても、これらの神々は御皇室の安泰や国家鎮護、また海上の守護神として古くから崇信を受けて来ている。ちなみに、三女の「市寸島比売命(市杵島姫命」は、その容姿の美しさのあまり、神仏習合では「弁天様(弁財天)」と合わさり、「蓄財」のご利益をも併せ持つことで崇敬を集め、厳島神社の社名もこの女神の名が訛っていったとされる。
宗像大社辺津宮境内図(大社HPより)
■ 宗像大社・辺津宮(総社)
辺津宮は宗像市田島2331にある。宗像大社を構成する三宮の1つで、宗像三女神の一柱である市杵島姫神が祀られ、宗像三宮の祭祀や社務の中核的な役割を担う総社である。境内の高宮祭場の周辺では、古代に沖ノ島と共通する祭祀が行われていたという。
▼ 本殿・拝殿(重要文化財)
現在の本殿・拝殿は、弘治3年(1557年)に焼失したものを、本殿は天正6年(1578年)、拝殿は同18年(1590年)にそれぞれ再建したもので、国の重要文化財に指定されている。本殿は桃山時代初期の特色である五間社両流造りであり、拝殿は屋根を左右二面に本を伏せたような切り妻造りである。
▼ 高宮祭場
宗像大神ご降臨の地と伝えられる。祭祀遺跡であり、沖ノ島で行われていた社殿祭祀以前の自然崇拝の姿を残す、全国でも数少ない古式祭場である。月次祭を始め、春秋の大祭には本殿に先がけて祭祀が行われ、神籠(ひもろぎ)、磐境(いわさか)という祭りの原点を今に残す。
▼ 第二宮、第三宮
第二宮、第三宮は、境内の一番奥にあり、神明造りの社殿である。第二宮は田心姫神(長女神)沖ノ島・沖津宮の御分霊を祀り、第三宮は湍津姫神(次女神)大島・中津宮の御分霊を祀る。
▼ 神宝館
昭和29年〜46年までの第3次にわたる沖ノ島発掘調査を受けて、昭和55年に竣工した博物館である。沖ノ島祭祀遺跡から発見された対外交流や古代祭祀の内容を示し、貴重な物証となる約8万点の奉献品・「沖ノ島神宝」(国宝)や宗像大社に長年伝承の「社伝神宝」(重要文化財)を収蔵展示している。
宗像神社 心字池
心字池にかかる太鼓橋(手前)
大社 大鳥居
正面:神門、左:手水舎、右:御祓舎
宗像神社 神門
宗像神社 手水舎
宗像大社 御祓舎
宗像神社 拝殿・本殿(奥)
本 殿
神勅(天照大神の授けた言葉)「天孫を助け奉り、而して天孫に所(降臨地:道中)で祭られよ」
天本宏氏、山本卓史氏にお世話になる
宗像神社 本殿(国重要文化財)
宗像神社 御神木:楢の木 樹齢:550年
宗像郡内の末社(本社付属の小神社)を集め合祀
高宮祭場への参道入り口 西欧人の結婚式に遭遇
時間なく行けなかった第二宮・沖津宮分霊、第三宮・中津宮分霊(後日、田中文君写真提供)
■ 宗像大社・中津宮(大島)
中津宮は宗像市大島1811にある。世界遺産として、宗像大社を構成する三宮の1つで、宗像三女神の一柱である湍津姫神が祀られ、古代祭祀が行われた島で最も高い御嶽山山頂には御嶽神社があり、沖ノ島露天祭祀と共通する御嶽山祭祀遺跡がある。また、中津宮境内にはこの御嶽山を源流とする天の川が流れ込んでおり、天の川を挟んで、中津宮に向かって、左の丘の上に、織姫を祀る「織女神社」、右の丘の上に牽牛を祀る「牽牛神社」がある。そして、天の川に流れ込む御嶽山の伏流水が霊泉「天の真名井」として信仰の対象となり、古くから古今和歌集にも詠われ、中津宮の七夕伝説が全国的に伝わり、「大島が七夕伝説の発祥の地」と言われるようになった。古来より聖水として信仰の対象となった「中津宮 御神水」は、今もコンコンと湧き出ており、地元の指定酒蔵ではこれを利用した日本酒が作られている。
また、上記のように、古事記・日本書記にも「天真名井」という霊水が記載されており、神話によれば、「天照大神」と「素戔鳴尊(須佐之男命)」が高天原で「剣玉の誓約」をされた時に、天照大神が素戔鳴尊の剣、十拳剣をとって三つに割り、「天真名井」の聖水を口に含み、勢いよく吹きかけると、「天の安河」で、あるいは「天真名井の吐噴霧」から、三柱の女神が化生したと記述されている。化生された三柱の女神は、天孫降臨に先立ち、天照大神の御神勅によって(北部九州から朝鮮半島へと至る海路「海北道中」の守り神として)筑前宗像に降臨し、長女は田心姫命として沖ノ島の沖津宮に、次女は湍津姫命として大島の中津宮に、三女は市杵島姫命として田島の辺津宮にそれぞれ鎮座し、お祀りされるようになったのが起こりとされる。
中津宮の本殿は、辺津宮より12年古い永禄9年(1566年)に大宮司・宗像氏貞によって再建され、福岡県指定文化財である。拝殿は昭和3年(1928年)に内務省によって建立された。
また、上記のように、古事記・日本書記にも「天真名井」という霊水が記載されており、神話によれば、「天照大神」と「素戔鳴尊(須佐之男命)」が高天原で「剣玉の誓約」をされた時に、天照大神が素戔鳴尊の剣、十拳剣をとって三つに割り、「天真名井」の聖水を口に含み、勢いよく吹きかけると、「天の安河」で、あるいは「天真名井の吐噴霧」から、三柱の女神が化生したと記述されている。化生された三柱の女神は、天孫降臨に先立ち、天照大神の御神勅によって(北部九州から朝鮮半島へと至る海路「海北道中」の守り神として)筑前宗像に降臨し、長女は田心姫命として沖ノ島の沖津宮に、次女は湍津姫命として大島の中津宮に、三女は市杵島姫命として田島の辺津宮にそれぞれ鎮座し、お祀りされるようになったのが起こりとされる。
中津宮の本殿は、辺津宮より12年古い永禄9年(1566年)に大宮司・宗像氏貞によって再建され、福岡県指定文化財である。拝殿は昭和3年(1928年)に内務省によって建立された。
午前中、宗像大社・辺津宮(宗像)を訪問。大島方面を展望できる宗像の高台にあるレストランで昼食。
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群:世界文化遺産登録(世界遺産推進会議資料より)
神湊港渡船ターミナル
フェリー「おおしま」
フェリー「おおしま」
乗船後、玄界灘の厳しさか、急に風雨強くなり、波高高く、波間短い荒波に遭遇。体感的には1〜2メートルを超す間隔の短いアップダウンを繰り返す渡航となる。さすがに船酔いとなり、下船後も酔いが尾を引き、思考力減退。安倍宗任の菩提寺・安昌院を訪問後、宗像大社・中津宮に参拝(日没前)。
▼ 宗像大社 中津宮
鳥居、参道、階段
神門から拝殿
中津宮 拝殿・社殿
境内の周囲に大島島内の末社を集め合祀
拝殿
末社
社務所
左:本殿、右:末社
末社の裏側から社務所の横を通り、天の川&天真名井へ降りる道
▼ 七夕伝説の発祥地(「天の川」と霊水「天真名井」)
七夕伝説発祥の地
中津宮境内には御嶽山を源流とする天の川が流れ込んでおり、天の川を挟んで、中津宮に向かって、左の丘の上に、織姫を祀る「織女神社」、右の丘の上に牽牛を祀る「牽牛神社」がある。
中津宮境内には御嶽山を源流とする天の川が流れ込んでおり、天の川を挟んで、中津宮に向かって、左の丘の上に、織姫を祀る「織女神社」、右の丘の上に牽牛を祀る「牽牛神社」がある。
「天真名井」:天の川に流れ込む御嶽山の伏流水が霊泉「天の真名井」として信仰の対象となる。
(暗闇撮影による真っ黒写真の色を再現)
(暗闇撮影による真っ黒写真の色を再現)
■ 沖津宮遥拝所(大島)
沖津宮遥拝所は、宗像市大島1293にあり、世界遺産群の1つである。大島の北側(宗像市大島1293)に設けられ、1.女人禁制、2.見聞一切の口外禁止、3.一木一草一石たりとも持ち出し禁止、4.上陸前の禊ぎなど、厳格な禁忌によって一般の立ち入りが禁止されている「沖ノ島」そのものを、ご神体として大島から拝むための施設であり、ここから沖ノ島を遥拝する伝統が生まれ、沖ノ島信仰が継承されてきた。宗像地域の人々は、日々の暮らしの中で、海上安全、豊漁祈願、五穀豊穣、家内安全など、さまざまな意味を込めて沖ノ島を遥拝し、風景に神の気配を感じつつ、沖ノ島への信仰を大切に守り続けている。
時間なく行けなかった沖津宮遥拝所(後日、田中文君写真提供)
沖ノ島(世界遺産推進会議資料より)
沖ノ島は全島が沖津宮の境内であり、社殿は巨岩群の間に築かれている。航海安全と交易成就を願う国家的祭祀が行われ、数々の宝物が奉納され、「海の正倉院」とも称される沖ノ島の出土品約8万点はすべて国宝級であるという。今なお残る数々の禁忌によって、沖ノ島の貴重な環境と遺跡は守られ、東アジアの壮大な国際交流の中で生まれた祭祀の遺物が、手付かずで残る遺跡は他にないという。
しかし、こうした今なお残る厳しい禁忌によって、古代祭祀の遺物もさることながら、沖ノ島信仰の形態そのものが今なお大切に継承されていること自体、しかもそれにより沖ノ島の貴重な環境と遺跡を手付かずで守り続けられていること自体が貴重な遺産である。
しかし、こうした今なお残る厳しい禁忌によって、古代祭祀の遺物もさることながら、沖ノ島信仰の形態そのものが今なお大切に継承されていること自体、しかもそれにより沖ノ島の貴重な環境と遺跡を手付かずで守り続けられていること自体が貴重な遺産である。
大島港ターミナル(大島発フェリー最終便:18.00)
夜は博多中洲「河太郎」で、透明ガラスの如き呼子産イカの活き造り料理を堪能
天本宏氏、山本卓史氏の案内で、日本で最初の「生け簀料理」&「イカの活き造り料理」元祖という博多中洲「河太郎」にて、久しぶりに透明ガラスのように透き通った柔らかい呼子産のイカを「活き造り料理」で堪能した。2018年10月19日 |
活き造り料理の後は、残ったゲソや身の天ぷらが最高! 柔らかくて甘い。
(画像一部:「河太郎」HPより)
(画像一部:「河太郎」HPより)