宇多源氏・佐々木源氏の発祥地&氏神:沙沙貴神社
宇多源氏・佐々木源氏の発祥地&氏神:沙沙貴神社(近江八幡・安土)を訪ねて
学会&講演出張の帰途、時間が許せば、必ず一か所その土地周辺に見い出せる「先祖の足跡」を、系図を辿りながら、訪ねることにした。先ず、その手始めに、妻と落ち合い、宇多源氏(佐々木源氏)の発祥の地:近江八幡・安土を訪ねた。そして、先祖の氏神を祀る沙沙貴神社を訪ね、神社内の拝覧ならびに先祖供養の祈祷をお願いした。 2014年8月3日
■ 先祖伝来の家系図を辿って
「祖父までの家系図」より抜粋
「祖父までの家系図」(宇多源氏・源家−佐々木家−京極家−益田家)(先祖伝来の巻物の電子化版)より
抜粋ページ:4、5、6、7、8、11、12、13、14、16、17、18、19、20、22ページ目
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■ 沙沙貴神社&佐佐木源氏発祥の地(近江八幡・安土)
JR安土駅
織田信長像
安土城郭資料館
▼ 沙沙貴神社
沙沙貴の杜 近江百華苑 鳥瞰図
「佐佐木大明神」と総称される沙沙貴神社は、神話の頃から沙沙貴郷あるいは佐々木庄と称される地(佐々木姓の発祥地)に鎮座し、宇多源氏・佐佐木源氏の氏神である。(神代の昔、少彦名神の御霊跡に起こり、沙沙貴は少彦名神に起因するといわれる。) ご祭神として、一座:少彦名神、二座:大彦命(大毘古神)、三座:仁徳天皇、四座:宇多天皇・敦實親王(宇多源氏・佐々木源氏・近江源氏の祖神)の四座五柱の神々が祀られている。
上古にあっては大毘古神の末裔・沙沙貴山君の一族の氏神として尊奉され、中古以降にあっては宇多天皇・敦實親王の末裔にあたる京極家、六角家、佐々木家、黒田家、三井家など佐々木源氏の一族祖神として尊崇されている。
上古にあっては大毘古神の末裔・沙沙貴山君の一族の氏神として尊奉され、中古以降にあっては宇多天皇・敦實親王の末裔にあたる京極家、六角家、佐々木家、黒田家、三井家など佐々木源氏の一族祖神として尊崇されている。
佐佐木源氏発祥之地碑
なんじゃもんじゃの木
なんじゃもんじゃの木
佐佐木源氏発祥之地碑
なんじゃもんじゃの木
なんじゃもんじゃの木
沙沙貴神社碑
沙沙貴神社碑
佐佐木源氏発祥之地碑
楼門
西廻廊
(男石、女石、出逢いの椙檜)
(男石、女石、出逢いの椙檜)
東廻廊
楼 門
幣殿(左手前)と本殿(右奥)
祈祷 先祖(宇多源氏・源家−佐々木家−京極家−益田家−荒川家)供養祈願
権殿(左)および磐境(いわさか)
磐境(いわさか)(願かけ石、勾玉)
少彦名神霊碑
願かけ石および勾玉
拝 殿
拝殿周囲
境内の随所に宇多源氏・佐佐木源氏(京極家、六角家、佐佐木家など)の四ツ目結いの家紋がみられる。
吊り灯篭にも四ツ目結の家紋
境内から見た楼門
絵馬殿
絵馬殿
手水舎
■ 沙沙貴神社の神紋が「七ツ割平四ツ目結」となっていることへの疑問
わが家系伝来の家系図家紋の如く、元来、宇多源氏、佐々木京極氏、佐々木六角氏などの佐々木源氏嫡流の家紋は「隅立て四ツ目結」であるが、沙沙貴神社の神紋が「七ツ割平四ツ目結」となっているのは何故か。
これは、経方の代に佐々木氏の被官となった行家以後の沙沙貴神社神主系(子孫は真野と称し、神職を世襲)が支流である自らの家紋を作為的に神紋として用いたためか、あるいは江戸時代の天保14年(1843年)、本神社が京極の諸流の一つである丸亀藩主京極家(高知ー高豊ー高或:丸亀で明治維新を迎え子爵となる)によって再建されたときに、丸亀藩主京極家の家紋(?)に替えられたものと思われる。
これは、経方の代に佐々木氏の被官となった行家以後の沙沙貴神社神主系(子孫は真野と称し、神職を世襲)が支流である自らの家紋を作為的に神紋として用いたためか、あるいは江戸時代の天保14年(1843年)、本神社が京極の諸流の一つである丸亀藩主京極家(高知ー高豊ー高或:丸亀で明治維新を迎え子爵となる)によって再建されたときに、丸亀藩主京極家の家紋(?)に替えられたものと思われる。
▼ 宇多源氏流家紋
隅立て四ツ目結 (宇多源氏・嫡流) |
平四ツ目結 (庶流) |
七つ割隅立て四ツ目結 (庶流) |
七つ割平四ツ目結 (庶流) |
十一割隅立四ツ目結 (庶流) |
十三割平四ツ目結 (庶流) |
丸に隅立四ツ目結 (庶流) |
丸に平四ツ目結 (庶流) |
「京極家家紋とその歴史」のページを参照