本阿弥光悦とその菩提寺・光悦寺(京都)
高忠の曾孫(ひ孫)・本阿弥光悦の菩提寺・光悦寺(京都)を訪ねて
学会出張の帰途、出発前の時間を利用して、京都在住の高校同窓・木山克明君のドライブ兼案内で、本阿弥光悦の菩提寺・光悦寺(京都)を訪ねる。 2015年2月8日
■ 光悦寺
京都市北区鷹峯光悦町にあり、鷹峰三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を望む景勝地にある。元和元年(1615年)、徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や様々な工芸の職人らを率いて移住した。一説には、王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷とも繋がりの深い光悦を都から遠ざけようとするのが家康の真の意図であったとも伝わる。
光悦は、種々の工芸職人らと芸術集落(光悦村)を築き、同時に本阿弥家先祖供養の霊屋として位牌堂を建てたが、光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となり、今日に至っている。光悦の墓所ならびに光悦の両親(父:光二、母:妙秀)、子:光瑳、孫:光甫など子孫の墓所もそれぞれ光悦寺境内にある。
また、境内には大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室があり、茶道の奥義を極めた造詣深い光悦母子の片鱗を窺える。
光悦の母、妙秀は本阿弥家の法華信仰の中心にあって、一門の賢母として90年の生涯を日蓮宗への帰依に捧げた女性である。妙秀尼遺文には、本阿弥光悦と母妙秀尼を訪ねた剣豪・武蔵は、茶席・三巴亭で手作りのメシを食わせてもらうが、妙秀尼の荘厳な茶事を見ながら剣の道に思いを馳せ、どんな道でも究める先はひとつだと悟ったとの語録が記述されている。
光悦は、種々の工芸職人らと芸術集落(光悦村)を築き、同時に本阿弥家先祖供養の霊屋として位牌堂を建てたが、光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となり、今日に至っている。光悦の墓所ならびに光悦の両親(父:光二、母:妙秀)、子:光瑳、孫:光甫など子孫の墓所もそれぞれ光悦寺境内にある。
また、境内には大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室があり、茶道の奥義を極めた造詣深い光悦母子の片鱗を窺える。
光悦の母、妙秀は本阿弥家の法華信仰の中心にあって、一門の賢母として90年の生涯を日蓮宗への帰依に捧げた女性である。妙秀尼遺文には、本阿弥光悦と母妙秀尼を訪ねた剣豪・武蔵は、茶席・三巴亭で手作りのメシを食わせてもらうが、妙秀尼の荘厳な茶事を見ながら剣の道に思いを馳せ、どんな道でも究める先はひとつだと悟ったとの語録が記述されている。
光悦垣
光悦垣
茶室・大虚庵
茶室・大虚庵
茶室・大虚庵
茶室・三巴亭
茶室・了寂軒
茶室・本阿弥庵
■ 本阿弥光悦
本阿弥光悦の曾祖父は、京極高忠多賀豊後守 (1425 〜86) である。わが家系では京極家初代より8代目で、7代目・京極高数の嫡男。室町時代後期から戦国時代前期の武将。祖父:高詮、父:高数の領地である多賀庄の下之郷を本拠にし、多賀庄下之郷城主。京極家より多賀豊後守家当主となる。近江の守護代として従兄弟の近江守護・京極宗家を助け、応仁の乱ならびに京極騒乱においても京極家の家宰として総指揮官として活躍。2度にわたって室町幕府京都侍所所司代を務め、名所司代として知られる。通称は新左衛門、あるいは官位である豊後守。法号は宗本。号は大源。
本阿弥光悦の祖父は、高忠の次男で、独立して片岡次太夫宗春を称し、聖徳太子の伯母・片岡姫ゆかりの地・片岡を本拠にして、別家・片岡家(片岡家始祖・片岡城主)を立てる。ちなみに、宗春のあと、本家は利持、国春、春利と続くが、元亀元年(1570年)春利が36歳で病死したため、一時片岡一帯および城を松永久秀に占領される。しかし、天正5年(1577年)明智光秀、筒井順慶、長岡藤孝(息子:細川忠興・興元兄弟と共に)ら織田信長軍により奪還される。
本阿弥光悦の父は、宗春の次男・次郎左衛門(光二)であり、本阿弥光心の娘・妙秀と結婚し、本阿弥光心の婿養子として本阿弥家に入るが、後に光心に実子が生まれたため、自ら本家を退き、独立。その長男が本阿弥光悦である。
本阿弥光悦は永禄元年(1558年)京都に生まれ、寛永14年(1637年)没、桃山時代から江戸時代初期にかけて書道、陶芸、漆芸、出版、茶道など様々な分野で活躍し、後世の日本文化に多大の影響を与える卓越した作品を多く遺した芸術家。光悦の晩年は、80歳で没するまで大虚庵に閑居し、風雅三昧の生活を過ごしたという。
本阿弥光悦の祖父は、高忠の次男で、独立して片岡次太夫宗春を称し、聖徳太子の伯母・片岡姫ゆかりの地・片岡を本拠にして、別家・片岡家(片岡家始祖・片岡城主)を立てる。ちなみに、宗春のあと、本家は利持、国春、春利と続くが、元亀元年(1570年)春利が36歳で病死したため、一時片岡一帯および城を松永久秀に占領される。しかし、天正5年(1577年)明智光秀、筒井順慶、長岡藤孝(息子:細川忠興・興元兄弟と共に)ら織田信長軍により奪還される。
本阿弥光悦の父は、宗春の次男・次郎左衛門(光二)であり、本阿弥光心の娘・妙秀と結婚し、本阿弥光心の婿養子として本阿弥家に入るが、後に光心に実子が生まれたため、自ら本家を退き、独立。その長男が本阿弥光悦である。
本阿弥光悦は永禄元年(1558年)京都に生まれ、寛永14年(1637年)没、桃山時代から江戸時代初期にかけて書道、陶芸、漆芸、出版、茶道など様々な分野で活躍し、後世の日本文化に多大の影響を与える卓越した作品を多く遺した芸術家。光悦の晩年は、80歳で没するまで大虚庵に閑居し、風雅三昧の生活を過ごしたという。
光悦墓所
本阿弥光悦一族墓所 父:光二、母:妙秀、子:光瑳、孫:光甫
歴代住職の墓石
光悦会碑
Mr. Charles Freer の
Monument
Monument
男爵・益田孝
光悦会の為に書す
光悦会の為に書す
光悦寺本堂
光悦寺本堂
鐘楼(元禄5年創建)
鷹峯三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)
光悦寺参道
■ 本阿弥光悦の遺功
本阿弥家は代々刀剣鑑定、磨砥、浄拭を家業とする家柄であり、光悦も父からの禁裏(天皇御所、皇居)をはじめ将軍家や諸大名の御用を務めるが、一方で、本業とは不即不離の芸術面に非凡な才能を発揮し、マルチアーティストとして書道、陶芸、漆芸、出版、茶道など多種多様な分野で斬新かつ卓越した遺品を残している。書道では、光悦は近衛信尹、松花堂昭乗と共に、江戸時代初期の「寛永の三筆」と称され、多くの名筆を遺している。また、俵屋宗達、尾形光琳と共に、琳派の創設者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きいという。陶芸では楽焼白片身変茶碗(国宝)をはじめとする黒楽茶碗、赤楽茶碗など、書跡では下絵古今集和歌巻、下絵三十六歌仙和歌巻などの書道絵画、蒔絵では舟橋蒔絵硯箱(国宝)をはじめとする蒔絵硯箱、蒔絵紙箱、蒔絵棚、蒔絵笛筒など、いずれも重要文化財に指定されたものばかりであり、東京国立博物館、京都国立博物館、シアトル美術館をはじめ各都市の有名美術館や寺院に所蔵、分蔵されている。
ちなみに、わが家系にも本阿弥鑑定折り紙付きの名刀「兼光」が伝わり、私が幼少の頃、祖父・兼助がその手入れ(定期的に刀身に打粉を付け、奉書紙で拭って古い油を取り、新しく刀剣油を塗り替える作業)に余念がなかったことを思い出す。当時、貴重であった和(生)菓子をもらうため、刀剣みがきが終わるまで、祖父の前で弟と二人で正座して待たされることしばしばであった。しかし、周知の所蔵であっただけに、終戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ、進駐軍)の占領政策の一環として(とくに日本軍の武装解除を目的とする非軍事化の一環として)行われた全国にわたる日本刀の提出命令「刀狩り」によって没収されてしまった。留守居の祖母がだまし討ちの没収に遭った家宝「兼光」は今いずこに在りや!
ちなみに、わが家系にも本阿弥鑑定折り紙付きの名刀「兼光」が伝わり、私が幼少の頃、祖父・兼助がその手入れ(定期的に刀身に打粉を付け、奉書紙で拭って古い油を取り、新しく刀剣油を塗り替える作業)に余念がなかったことを思い出す。当時、貴重であった和(生)菓子をもらうため、刀剣みがきが終わるまで、祖父の前で弟と二人で正座して待たされることしばしばであった。しかし、周知の所蔵であっただけに、終戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ、進駐軍)の占領政策の一環として(とくに日本軍の武装解除を目的とする非軍事化の一環として)行われた全国にわたる日本刀の提出命令「刀狩り」によって没収されてしまった。留守居の祖母がだまし討ちの没収に遭った家宝「兼光」は今いずこに在りや!