平家ゆかりの厳島神社
平清盛・再建の厳島神社(安芸・宮島)を訪ねる
学会&講演出張の帰途、門司から車で駆けつけてくれた中学級友(松崎君、神田君)のドライブで、平家一門の氏神を祀る厳島神社(安芸・宮島)を訪ねる。 2014年7月5日
▼ 厳島神社(安芸・宮島)
厳島は、広島県廿日市市宮島町1-1にあり、一般に「安芸の宮島」と呼ばれ、日本三景の1つに数えられる。厳島神社は、その厳島(宮島)にある神社で、平安時代中期の『延喜式神名帳』では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載されており、式内社(名神大社)に列し、安芸国一宮とされている。現在の主祭神は、「宗像三女神」である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)であるが、平安時代に平清盛公が再建した頃の主祭神は、現在の宗像三女神ではなく、「伊都岐島大明神(厳島大明神)」が祀られていたとされる。宗像三女神が主祭神とされたのは鎌倉時代後期以降とされる。
御社殿の創建は、飛鳥時代・推古元年(593年)、土地の豪族・佐伯鞍職によるものであるが、平安時代末期に安芸守となった平清盛が当社を篤く崇敬し、仁安3年(1168年)、神主・佐伯景弘と結びつき、寝殿造の様式を取り入れた現在の規模の御社殿に修造した。宮島(厳島)は昔から「島全体が御神体」として崇められており、宮島に御鎮座地(御社殿を建てる場所)を探すにあたっては、あえて海水の差し引きする現場所を選んだと云われている。廻廊で結ばれた朱塗りの社殿は、海を敷地とした大胆で独創的な配置構成となっており、潮が満ちてくると海に浮かぶ幻想的な建築美を醸し出す。平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家の氏神となるが、平家滅亡後は源氏をはじめとする時の権力者の崇敬を受け、後白河法皇や高倉上皇の御幸や多くの皇族・貴族の参詣など、さらには室町時代の足利尊氏や義満、戦国時代の大内家、毛利家などからも崇拝された。この神社に寄進された宝物は数も多く、その一部は宝物館に陳列されている。
御社殿の創建は、飛鳥時代・推古元年(593年)、土地の豪族・佐伯鞍職によるものであるが、平安時代末期に安芸守となった平清盛が当社を篤く崇敬し、仁安3年(1168年)、神主・佐伯景弘と結びつき、寝殿造の様式を取り入れた現在の規模の御社殿に修造した。宮島(厳島)は昔から「島全体が御神体」として崇められており、宮島に御鎮座地(御社殿を建てる場所)を探すにあたっては、あえて海水の差し引きする現場所を選んだと云われている。廻廊で結ばれた朱塗りの社殿は、海を敷地とした大胆で独創的な配置構成となっており、潮が満ちてくると海に浮かぶ幻想的な建築美を醸し出す。平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家の氏神となるが、平家滅亡後は源氏をはじめとする時の権力者の崇敬を受け、後白河法皇や高倉上皇の御幸や多くの皇族・貴族の参詣など、さらには室町時代の足利尊氏や義満、戦国時代の大内家、毛利家などからも崇拝された。この神社に寄進された宝物は数も多く、その一部は宝物館に陳列されている。
▼主祭神である「宗像三女神」とは
宗像三女神とは、福岡県宗像市田島の辺津宮に祭られている「市寸嶋比売命(市杵島姫命:いちきしまひめのみこと)」、大島の中津宮に祭られている「多岐津比売命(湍津姫命:たぎつひめのみこと)」、沖の島の沖津宮に祭られている「多紀理比売命(田心姫命:たごりひめのみこと)」を言う。
八世期初めに編纂された古事記・日本書記神話によれば、これらの三女神は、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」と「素戔鳴尊(須佐之男命:すさのおのみこと)」が高天原(たかまのはら)で剣玉の「誓約(うけひ)」をされた時に(あるいは、天照大神が素戔鳴尊の剣、十拳剣(とつかのつるぎ)をとって三つに割り、「天真名井(あめのまない)」の聖水を口に含み、勢いよく吹きかけた時に)、「天の安河(あまのやすかわ)」で、あるいは「天真名井の吐噴霧」から、三柱の女神が化生したと記述されており、日本書記&宗像大社説では天照大神の御子神とされている。すなわち、誓約(うけひ)の時に、八柱の神々が誕生したが、その内、天照大神が生み出した三柱の女神を宗像三女神としている。しかし、古事記では須佐之尊の剣から化生したので、三女神は天照大神ではなく、須佐之尊の御子神と記されている。化生された三柱の女神は、天孫降臨に先立ち、天照大神の御神勅によって筑前宗像に降臨し、長女は田心姫命として沖ノ島の沖津宮に、次女は湍津姫命として大島の中津宮に、三女は市杵島姫命として田島の辺津宮にそれぞれ鎮座し、お祀りされるようになったのが起こりとされる。古事記と日本書記では神話の伝承に若干の違いがあるが、日本書記の記述の方が本家の宗像大社の伝承内容に一番近いと言われている。本稿では、三女神の神名については、「古事記名(日本書記)」の順で表記した。
厳島神社においても、これらの神々は御皇室の安泰や国家鎮護、また海上の守護神として古くから崇信を受けて来ている。ちなみに、三女の「市寸島比売命(市杵島姫命」は、その容姿の美しさのあまり、神仏習合では「弁天様(弁財天)」と合わさり、「蓄財」のご利益をも併せ持つことで崇敬を集め、厳島神社の社名もこの女神の名が訛っていったとされる。
八世期初めに編纂された古事記・日本書記神話によれば、これらの三女神は、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」と「素戔鳴尊(須佐之男命:すさのおのみこと)」が高天原(たかまのはら)で剣玉の「誓約(うけひ)」をされた時に(あるいは、天照大神が素戔鳴尊の剣、十拳剣(とつかのつるぎ)をとって三つに割り、「天真名井(あめのまない)」の聖水を口に含み、勢いよく吹きかけた時に)、「天の安河(あまのやすかわ)」で、あるいは「天真名井の吐噴霧」から、三柱の女神が化生したと記述されており、日本書記&宗像大社説では天照大神の御子神とされている。すなわち、誓約(うけひ)の時に、八柱の神々が誕生したが、その内、天照大神が生み出した三柱の女神を宗像三女神としている。しかし、古事記では須佐之尊の剣から化生したので、三女神は天照大神ではなく、須佐之尊の御子神と記されている。化生された三柱の女神は、天孫降臨に先立ち、天照大神の御神勅によって筑前宗像に降臨し、長女は田心姫命として沖ノ島の沖津宮に、次女は湍津姫命として大島の中津宮に、三女は市杵島姫命として田島の辺津宮にそれぞれ鎮座し、お祀りされるようになったのが起こりとされる。古事記と日本書記では神話の伝承に若干の違いがあるが、日本書記の記述の方が本家の宗像大社の伝承内容に一番近いと言われている。本稿では、三女神の神名については、「古事記名(日本書記)」の順で表記した。
厳島神社においても、これらの神々は御皇室の安泰や国家鎮護、また海上の守護神として古くから崇信を受けて来ている。ちなみに、三女の「市寸島比売命(市杵島姫命」は、その容姿の美しさのあまり、神仏習合では「弁天様(弁財天)」と合わさり、「蓄財」のご利益をも併せ持つことで崇敬を集め、厳島神社の社名もこの女神の名が訛っていったとされる。