京極家発祥の由来と初代・氏信の菩提寺:清瀧寺徳源院
Origin of the Sasaki Kyogoku family and The family temple of the first generation Ujinobu: Seiryuji Temple Tokugen-in (Shiga Kashiwabara)
佐々木京極家初代・氏信の菩提寺:清瀧寺徳源院(滋賀・柏原)を訪ねて
■ 佐々木京極家初代・氏信
▼ 佐々木京極家発祥の事由:
宇多源氏の流れを汲む近江源氏・佐々木氏が源流。元来、宇多源氏流佐々木氏は鎌倉時代以前より近江にあり、近江源氏とも称された家系で鎌倉時代に近江ほか数ヶ国の守護に代々任じられていた。源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、近江本領・佐々木秀義の子である佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱は頼朝を支えて活躍し、鎌倉幕府の成立後に佐々木氏兄弟は近江を始め四人で17ヵ国の守護へと補せられる。
1180年頃、近江本領・佐々木氏の惣領であった佐々木定綱の嫡男・佐々木信綱は、四人の息子に近江を分けて継がせる。この内、江北にある高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京の京極高辻の館を継いだ四男の佐々木氏信を祖とする一族が、後に館の地名を取り京極氏と呼ばれる様になる。江南と京都六角堂近くの館を継いだ三兄の泰綱が、佐々木本家を継ぎ六角氏の祖となった。長兄の重綱と次兄の高信も坂田郡大原庄と高島郡田中郷を相続、大原氏・高島氏の祖となる。
1180年頃、近江本領・佐々木氏の惣領であった佐々木定綱の嫡男・佐々木信綱は、四人の息子に近江を分けて継がせる。この内、江北にある高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京の京極高辻の館を継いだ四男の佐々木氏信を祖とする一族が、後に館の地名を取り京極氏と呼ばれる様になる。江南と京都六角堂近くの館を継いだ三兄の泰綱が、佐々木本家を継ぎ六角氏の祖となった。長兄の重綱と次兄の高信も坂田郡大原庄と高島郡田中郷を相続、大原氏・高島氏の祖となる。
▼ 佐々木京極氏初代・氏信:
鎌倉時代中期の武将。宇多源氏の流れを汲む近江源氏・佐々木氏の別家・京極氏の始祖。
父は佐々木信綱、母は執権・北条義時の娘。異母の兄に大原重綱、高島高信、同母の兄に六角泰綱。子に頼氏、範頼、満信、宗綱。
左衛門尉・検非違使・対馬守。文永2年(1265)引付衆に列し、翌3年(1266)11月には朝幕間の交渉役である東使を勤め、12月に評定衆に列した。建治元年(1276)4月、弘安5年(1282)7月にも東使を勤めている。翌弘安6年(1283)10月には父信綱と同様、近江守に補任された。
この頃には後に京極氏の菩提寺となる清滝寺(後の徳源院)を創建している。鎌倉の桐ヶ谷(きりがや)にも住んでおり、桐谷(きりたに)氏や「桐谷の尉」とも呼ばれた。長男の頼氏は桐谷に住み別家を立てた。次男の範頼、三男の満信(わが家系においては2代目、京極家4代目・高氏の祖父)は共に早世した為、四男の宗綱が京極家を後見し、満信の嫡流:子・宗氏(3代目)、孫・高氏(4代目)へと継ぐ。
永仁3年(1295年)5月3日に76歳で死去。法名は清滝寺殿道善大居士。墓所は滋賀県米原市の徳源院。
左衛門尉・検非違使・対馬守。文永2年(1265)引付衆に列し、翌3年(1266)11月には朝幕間の交渉役である東使を勤め、12月に評定衆に列した。建治元年(1276)4月、弘安5年(1282)7月にも東使を勤めている。翌弘安6年(1283)10月には父信綱と同様、近江守に補任された。
この頃には後に京極氏の菩提寺となる清滝寺(後の徳源院)を創建している。鎌倉の桐ヶ谷(きりがや)にも住んでおり、桐谷(きりたに)氏や「桐谷の尉」とも呼ばれた。長男の頼氏は桐谷に住み別家を立てた。次男の範頼、三男の満信(わが家系においては2代目、京極家4代目・高氏の祖父)は共に早世した為、四男の宗綱が京極家を後見し、満信の嫡流:子・宗氏(3代目)、孫・高氏(4代目)へと継ぐ。
永仁3年(1295年)5月3日に76歳で死去。法名は清滝寺殿道善大居士。墓所は滋賀県米原市の徳源院。
▼ 氏信の活動背景
氏信は佐々木分家(四男の庶家)でありながら、鎌倉幕府要職を歴任したのは、氏信が北条得宗家(鎌倉幕府の執権・北条氏の嫡流・家督当主)に密着して得宗被官に近い活動をしたからである。たとえば、寛元3年(1245)7月、5代執権・北条経時の妹・檜皮姫が5代将軍・藤原頼嗣に嫁いで輿入れしたとき、氏信は筆頭として小野沢時仲(得宗被官)・尾藤景氏(同)・下河辺宗光(御家人)らと檜皮姫の輿に扈従している(吾妻鏡)。
宝治元年(1247)の宝治合戦でも、6月1日、氏信は6代執権・北条時頼(得宗専制政治確立:執権政治から得宗政治へ移行さす)の使者として三浦泰村邸に赴き、同月5日泰村滅亡後に兄泰綱とともに時頼の命を受けて、三浦氏被官長尾景茂の追討に向かっている。
さらに建長4年(1252)、氏信は皇族6代将軍・宗尊親王を迎えることを奏請し、北条氏が企図した摂家将軍廃立と皇族将軍擁立に積極的に加担している。このとき、将軍藤原頼嗣の父・前将軍頼経の陰謀を暴いたのが氏信であったという(保暦年間記)。
氏信の正妻は将軍家女房右衛門督局であった。彼女は武家祇候の公卿・阿野実遠の娘であり、実遠は母が阿野全成(源頼朝・弟)の娘だったため、阿野家を称していた。すなわち源頼朝・弟のひ孫である。氏信が将軍家女房を娶ったことは、氏信自身が皇族6代将軍・宗尊親王の側近であったことを示している。
氏信の5人の娘は、庶子家ではあるが有力御家人である佐々木加地経綱(佐々木加地庶流)妻、吉良満氏(足利庶流)妻、上田佐時(大江庶流)妻、武石宗胤(千葉庶流)妻、や皇族8代将軍・久明親王家女房として嫁いでいる。娘が将軍家女房になっていることは、得宗家が擁立した皇族将軍家との結び付きが強かったことを示している。そしてまた、氏信がいかに得宗家との結び付きが強く、得宗被官に近い立場であったかは、氏信の長男頼氏が安達泰盛追討の賞で豊後守になり、娘のひとりが、こののち得宗家が擁立した皇族8代将軍家・久明親王家女房になっていることでも理解できる。
このように、氏信が佐々木氏本家を凌ぐ勢力で政治の中心で活躍できたのは、氏信自身が北条得宗家(鎌倉幕府の執権・北条氏の嫡流・家督当主)や皇族6代将軍・宗尊親王など皇族将軍家の側近であったばかりでなく、母が執権・北条義時の娘、正妻が将軍家女房右衛門督局(公卿・阿野実遠の娘であり、祖母は阿野全成・源頼朝弟の娘)すなわち源頼朝・弟のひ孫、娘が皇族8代将軍家・久明親王家女房など、女性の血縁が環境を優位にしていたのかも知れない。
氏信は鎌倉を主な活動拠点にしており、相模国最大の御厨である大庭御厨(おおばみくりや)を関東での本拠地とした。大庭御厨は鎌倉権五郎景政が開発し伊勢神宮に寄進した相模国最大の寄進地系荘園である。平安時代末には、鎌倉権五郎景政の子孫にあたるという大庭氏が御厨を経営していたが、佐々木氏と縁戚関係にあった大庭氏の祖景忠の子景親は、1180年(治承4年)平治の乱において平清盛の家人となり、源頼朝の挙兵に対抗して滅亡した。その後、大庭域は源氏配下の在庁官人である三浦氏の所領となったが、宝治合戦により三浦氏が滅亡したため、以後は北条得宗家の所領となり、氏信の関東での本拠地となった。
宝治元年(1247)の宝治合戦でも、6月1日、氏信は6代執権・北条時頼(得宗専制政治確立:執権政治から得宗政治へ移行さす)の使者として三浦泰村邸に赴き、同月5日泰村滅亡後に兄泰綱とともに時頼の命を受けて、三浦氏被官長尾景茂の追討に向かっている。
さらに建長4年(1252)、氏信は皇族6代将軍・宗尊親王を迎えることを奏請し、北条氏が企図した摂家将軍廃立と皇族将軍擁立に積極的に加担している。このとき、将軍藤原頼嗣の父・前将軍頼経の陰謀を暴いたのが氏信であったという(保暦年間記)。
氏信の正妻は将軍家女房右衛門督局であった。彼女は武家祇候の公卿・阿野実遠の娘であり、実遠は母が阿野全成(源頼朝・弟)の娘だったため、阿野家を称していた。すなわち源頼朝・弟のひ孫である。氏信が将軍家女房を娶ったことは、氏信自身が皇族6代将軍・宗尊親王の側近であったことを示している。
氏信の5人の娘は、庶子家ではあるが有力御家人である佐々木加地経綱(佐々木加地庶流)妻、吉良満氏(足利庶流)妻、上田佐時(大江庶流)妻、武石宗胤(千葉庶流)妻、や皇族8代将軍・久明親王家女房として嫁いでいる。娘が将軍家女房になっていることは、得宗家が擁立した皇族将軍家との結び付きが強かったことを示している。そしてまた、氏信がいかに得宗家との結び付きが強く、得宗被官に近い立場であったかは、氏信の長男頼氏が安達泰盛追討の賞で豊後守になり、娘のひとりが、こののち得宗家が擁立した皇族8代将軍家・久明親王家女房になっていることでも理解できる。
このように、氏信が佐々木氏本家を凌ぐ勢力で政治の中心で活躍できたのは、氏信自身が北条得宗家(鎌倉幕府の執権・北条氏の嫡流・家督当主)や皇族6代将軍・宗尊親王など皇族将軍家の側近であったばかりでなく、母が執権・北条義時の娘、正妻が将軍家女房右衛門督局(公卿・阿野実遠の娘であり、祖母は阿野全成・源頼朝弟の娘)すなわち源頼朝・弟のひ孫、娘が皇族8代将軍家・久明親王家女房など、女性の血縁が環境を優位にしていたのかも知れない。
氏信は鎌倉を主な活動拠点にしており、相模国最大の御厨である大庭御厨(おおばみくりや)を関東での本拠地とした。大庭御厨は鎌倉権五郎景政が開発し伊勢神宮に寄進した相模国最大の寄進地系荘園である。平安時代末には、鎌倉権五郎景政の子孫にあたるという大庭氏が御厨を経営していたが、佐々木氏と縁戚関係にあった大庭氏の祖景忠の子景親は、1180年(治承4年)平治の乱において平清盛の家人となり、源頼朝の挙兵に対抗して滅亡した。その後、大庭域は源氏配下の在庁官人である三浦氏の所領となったが、宝治合戦により三浦氏が滅亡したため、以後は北条得宗家の所領となり、氏信の関東での本拠地となった。
■ 氏信の菩提寺:清瀧寺徳源院
弘安9(1286)年、中山道の柏原宿の近く清瀧集落の西方・清滝山の山麓に、菩提寺として清瀧寺徳源院を創建した。比叡山延暦寺の末寺で山号を霊通山と称する。
1672年(寛文12)に支流の讃岐丸亀藩主・京極高豊が処方に散在していた祖先の墓碑をこの地に集め、現在の京極家墓所の形に作り直した。以来この寺は徳源院と呼ばれるようになる。1932年(昭和7)に墓所全域が国の史跡に指定され、2002年(平成14)に追加指定を受けている。
鎌倉時代から江戸時代まで栄えた佐々木京極氏歴代の菩提寺として、境内には京極氏一族の墓が現存する。墓所は、境内奥の山裾を上下二段に分け、上段には鎌倉から南北朝・室町時代に活躍した一族の宝篋印石塔十八基が並び、下段には戦国から江戸時代を生き抜いた大津城主であった京極高次およびその子孫の石廟や木廟などがあり、時代背景による石塔細工の違いなども比較でき、石塔の博物館の観がある。境内には本堂、位牌殿、三重塔などの堂宇があり、本堂裏には閑静な日本庭園がある。春は桜、秋は紅葉に山内が染められ、四季折々の趣を楽しむことができる。また、近くには南北朝時代に佐々木道誉の史実に登場する北畠具行の墓所がある。
わが家系では、佐々木京極家の第2代目は初代・氏信(左衛門尉・対馬守・近江守・清龍寺殿)の三男・満信であるが、満信の供養塔(宝篋印塔)がここにはなかった。氏信の長男・頼氏は豊後守を、次男・範綱は左衛門尉に任じたが早世、三男・満信は左衛門尉・佐渡守を、四男・宗綱は左衛門尉・能登守をそれぞれ任じたが、京極三郎左衛門尉・佐渡守の官職名で京極家を継いだ三男の満信は34歳で早世した。そのため、京極宗家はいったん四男の宗綱が継いだとする説もあるが、結局は満信の嫡男・宗氏(佐渡守・賢親)が父の官職・京極三郎左衛門尉・佐渡守を継ぎ、叔父・宗綱の娘を娶る(この時代、京極家は佐々木庶流どうしで姻戚関係を築き、結束を固めている)。ちなみに、満信の次男・宗満は近江伊香郡黒田邑を本拠にして別家・佐々木黒田家を立てる(子孫の7代目が黒田官兵衛とされるが、家紋が違い定かではない)。宗氏の嫡男・貞氏(近江守・善観)は近江蒲生郡鏡庄を本拠にして左衛門尉・近江守を任じ別家・佐々木鏡家を立て独立する。そのため、次男・高氏(佐渡判官・道誉)が祖父・父と同じ京極四郎左衛門尉・佐渡守の官職名(京極家嫡流の世襲官途名)で京極宗家を継ぐことになる。この墓所には、わが家系における佐々木京極家の初代・氏信より第3代・宗氏、第4代・高氏、第5代・高秀、第6代・高栓、第7代・高数までの宝篋印塔が存在する。
1672年(寛文12)に支流の讃岐丸亀藩主・京極高豊が処方に散在していた祖先の墓碑をこの地に集め、現在の京極家墓所の形に作り直した。以来この寺は徳源院と呼ばれるようになる。1932年(昭和7)に墓所全域が国の史跡に指定され、2002年(平成14)に追加指定を受けている。
鎌倉時代から江戸時代まで栄えた佐々木京極氏歴代の菩提寺として、境内には京極氏一族の墓が現存する。墓所は、境内奥の山裾を上下二段に分け、上段には鎌倉から南北朝・室町時代に活躍した一族の宝篋印石塔十八基が並び、下段には戦国から江戸時代を生き抜いた大津城主であった京極高次およびその子孫の石廟や木廟などがあり、時代背景による石塔細工の違いなども比較でき、石塔の博物館の観がある。境内には本堂、位牌殿、三重塔などの堂宇があり、本堂裏には閑静な日本庭園がある。春は桜、秋は紅葉に山内が染められ、四季折々の趣を楽しむことができる。また、近くには南北朝時代に佐々木道誉の史実に登場する北畠具行の墓所がある。
わが家系では、佐々木京極家の第2代目は初代・氏信(左衛門尉・対馬守・近江守・清龍寺殿)の三男・満信であるが、満信の供養塔(宝篋印塔)がここにはなかった。氏信の長男・頼氏は豊後守を、次男・範綱は左衛門尉に任じたが早世、三男・満信は左衛門尉・佐渡守を、四男・宗綱は左衛門尉・能登守をそれぞれ任じたが、京極三郎左衛門尉・佐渡守の官職名で京極家を継いだ三男の満信は34歳で早世した。そのため、京極宗家はいったん四男の宗綱が継いだとする説もあるが、結局は満信の嫡男・宗氏(佐渡守・賢親)が父の官職・京極三郎左衛門尉・佐渡守を継ぎ、叔父・宗綱の娘を娶る(この時代、京極家は佐々木庶流どうしで姻戚関係を築き、結束を固めている)。ちなみに、満信の次男・宗満は近江伊香郡黒田邑を本拠にして別家・佐々木黒田家を立てる(子孫の7代目が黒田官兵衛とされるが、家紋が違い定かではない)。宗氏の嫡男・貞氏(近江守・善観)は近江蒲生郡鏡庄を本拠にして左衛門尉・近江守を任じ別家・佐々木鏡家を立て独立する。そのため、次男・高氏(佐渡判官・道誉)が祖父・父と同じ京極四郎左衛門尉・佐渡守の官職名(京極家嫡流の世襲官途名)で京極宗家を継ぐことになる。この墓所には、わが家系における佐々木京極家の初代・氏信より第3代・宗氏、第4代・高氏、第5代・高秀、第6代・高栓、第7代・高数までの宝篋印塔が存在する。
清瀧寺京極家墓所入り口
清瀧寺京極家墓所入り口
清瀧寺京極家墓所参道
本堂前にて
道誉の桜 (4代目・京極高氏・佐々木道誉)
1672年(寛文12)、讃岐丸亀藩主・京極高豊が建立した朱塗りの三重塔
墓所入り口門
左より 高数(7代目)、経氏、持高、宗氏(3代目)、宗綱、高吉、高弥、高広、高清 ・・・
右より 氏信(初代)、貞宗、頼氏、高氏(4代目)、高秀(5代目)、高詮(6代目)、高光、持清、政光 ・・・
清瀧寺京極家墓所上段:先祖・佐々木京極家累代の墓石:供養塔(宝篋印塔)
右より 氏信(初代)、貞宗、頼氏、高氏(4代目)、高秀(5代目)、高詮(6代目) ・・・
佐々木京極家初代
氏信
氏信
佐々木京極家第3代
宗氏
宗氏
佐々木京極家第4代
高氏(道誉)
高氏(道誉)
清瀧寺庭園
本堂に座して、ご住職夫妻と面談いただきながら眺める山裾を利用した室町時代の紅葉なる庭園はまた格別の絶景である。