源氏とゆかりの深い三井寺(園城寺)
源氏とゆかりの深い三井寺(園城寺)(大津)を訪ねて
学会&講演出張の帰途、京都在住の高校同級・木山克明君のドライブ兼案内で、三井寺(大津)を訪ねる。 2012年2月6日
▼ 三井寺(天台寺門宗総本山園城寺)(大津)
三井寺は、滋賀県大津市にあり、正式には「園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。高野山明王院の「赤不動」、青蓮院の「青不動」と共に日本三不動の1つである黄不動(国宝「絹本著色不動明王像」、通称:金色不動明王)で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。
三井寺の起源は、大津京を開いた天智天皇が念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺の建立を志したが、生前にその志を果たせなかったため、天智天皇の子・大友皇子(弘文天皇)の子である大友与多王が祖父の志を継ぎ、父の菩提のため、天智天皇所持の念持仏・弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。自分の「荘園城邑」(田畑屋敷)を投げ打って建立しようとする大友与多王の志に感銘し、天武天皇は寺の建立を許可し、「園城寺」という寺号を与えたという。
また、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。「三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」は重文である。
三井寺は7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。すなわち、平安時代、第五代天台座主・智証大師・円珍和尚によって天台別院として中興され、以来一千百余年にわたってその教法を今日に伝えている。
平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。平安時代以降も、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、源平合戦から鎌倉時代には、源氏など武家の信仰を集めた。
とくに、三井寺は清和源氏とのつながりが深く、源頼義(河内源氏)が三井寺に戦勝祈願をしたことや、息子3男の義光(源義家の実弟で、後に甲斐守となり、武田氏や佐竹氏など甲斐源氏の祖となる)を三井寺の鎮守神である新羅明神を祀る新羅善堂(国宝)の前で元服させたことなどに始まり(以後、義光は新羅三郎と呼ばれる)、源頼政(清和源氏)が平家打倒の兵を挙げた時には三井寺がこれに協力をしたり、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に手厚い保護を加えるなど、源氏歴代の尊崇が篤い。
しかし、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し始め、永保元年(1081年)を皮切りに比叡山の宗徒による三井寺の焼き討ち被害は、中世末期までに大規模なものだけで10回以上、小規模なものを含めると数10回以上であった。
鎌倉幕府以後、室町幕府においても源義家の子孫で、清和源氏の名流である将軍家足利氏が三井寺を保護ならびに厚遇したことは言うまでもないが、三井寺に対する支援は強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するためにも必要であったと考えられている。
(ちなみに、先日、三井寺にある重要文化財 「木像地蔵菩薩立像」の頭部から包み紙のようなものが見つかり、室町時代の文献によれば、足利幕府初代将軍尊氏と2代義詮の遺髪を仏像の頭部に納めたと記されていることから、2人のうちのどちらかの遺髪ではないかと話題になっている。)
安土桃山時代には、文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の怒りに触れ、寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、慶長3年(1598年)、死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れ、三井寺の再興を許可している。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興を進め、現在の三井寺の寺観が整えられた。こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺の起源は、大津京を開いた天智天皇が念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺の建立を志したが、生前にその志を果たせなかったため、天智天皇の子・大友皇子(弘文天皇)の子である大友与多王が祖父の志を継ぎ、父の菩提のため、天智天皇所持の念持仏・弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。自分の「荘園城邑」(田畑屋敷)を投げ打って建立しようとする大友与多王の志に感銘し、天武天皇は寺の建立を許可し、「園城寺」という寺号を与えたという。
また、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。「三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」は重文である。
三井寺は7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。すなわち、平安時代、第五代天台座主・智証大師・円珍和尚によって天台別院として中興され、以来一千百余年にわたってその教法を今日に伝えている。
平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。平安時代以降も、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、源平合戦から鎌倉時代には、源氏など武家の信仰を集めた。
とくに、三井寺は清和源氏とのつながりが深く、源頼義(河内源氏)が三井寺に戦勝祈願をしたことや、息子3男の義光(源義家の実弟で、後に甲斐守となり、武田氏や佐竹氏など甲斐源氏の祖となる)を三井寺の鎮守神である新羅明神を祀る新羅善堂(国宝)の前で元服させたことなどに始まり(以後、義光は新羅三郎と呼ばれる)、源頼政(清和源氏)が平家打倒の兵を挙げた時には三井寺がこれに協力をしたり、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に手厚い保護を加えるなど、源氏歴代の尊崇が篤い。
しかし、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し始め、永保元年(1081年)を皮切りに比叡山の宗徒による三井寺の焼き討ち被害は、中世末期までに大規模なものだけで10回以上、小規模なものを含めると数10回以上であった。
鎌倉幕府以後、室町幕府においても源義家の子孫で、清和源氏の名流である将軍家足利氏が三井寺を保護ならびに厚遇したことは言うまでもないが、三井寺に対する支援は強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するためにも必要であったと考えられている。
(ちなみに、先日、三井寺にある重要文化財 「木像地蔵菩薩立像」の頭部から包み紙のようなものが見つかり、室町時代の文献によれば、足利幕府初代将軍尊氏と2代義詮の遺髪を仏像の頭部に納めたと記されていることから、2人のうちのどちらかの遺髪ではないかと話題になっている。)
安土桃山時代には、文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の怒りに触れ、寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、慶長3年(1598年)、死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れ、三井寺の再興を許可している。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興を進め、現在の三井寺の寺観が整えられた。こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺(園城寺)境内図
大門(仁王門)
園城寺金堂
園城寺金堂
三井の晩鐘
園城寺閼伽井屋
弁慶の引き摺り鐘&汁鍋
一切経蔵