高忠が総指揮官として活躍した応仁の乱の勃発地・御霊神社
京極家の家宰・高忠が活躍した応仁の乱の勃発地・御霊神社(京都)を訪ねて
学会&講演出張の帰途、出発前の時間を利用して、京都在住の高校同窓・木山克明君のドライブ兼案内で、8代目・京極高忠多賀豊後守(室町幕府京都侍所所司代)が東軍の総指揮官として活躍した応仁の乱の勃発地・御霊神社(京都)を訪ねる。 2015年4月11日
■ 御霊神社(上御霊神社)
京都市上京区上御霊竪町にあり、祭神として崇道天皇(早良親王)、吉備真備、橘逸勢をはじめ、十三柱の神霊が祀られている。この地には、はじめ住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安遷都(794年)の折に桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に朝廷の権力争いの犠牲となって無念の死をとげた八柱の神霊が祀られ、とくに御所の守護神として皇室の崇敬が厚い。その後、明治天皇の御願によりさらに祭神五柱が増祀され、現在十三柱となっている。現在の本殿は、享保18年(1733年)に下賜された賢所御殿を復元したものである。
応仁の乱勃発地 御霊神社
■ 応仁の乱勃発の地
境内は「御霊の杜」と呼ばれるが、この地で、応仁元年(1467年)正月18日、畠山氏の当主を巡って、山名宗全派の畠山義就と細川勝元派の畠山政長の合戦が始まり、以後11年間にわたる応仁の乱の発端の地となった。すなわち、後継者を巡って家内で争っていた管領の畠山氏・斯波氏の対立の中、8代将軍・足利義政の後継者を巡って、義政の弟・義視と妻・日野富子の間に生まれた実子・義尚との争いが勃発し、富子が宗全を頼ったため、義視は勝元を頼り、これに諸国の守護大名が東西に分かれて参戦し全国的な戦いとなった。東軍の勝元派は将軍と天皇家を取り込み、官軍として優位な戦闘構成となるが、その抗争は11年間にわたり京都の市街地を舞台に繰り広げられた。すなわち、細川勝元、京極持清(勝元の叔父)、赤松政則・武田信賢などの東軍方に、山名宗全、近江国守護六角高頼、畠山義就・斯波義廉・土岐為頼などが西軍となって相対した。
先祖の京極高忠多賀豊後守は、管領・細川勝元らの東軍に属した従兄でもある宗家・京極持清(勝元の叔父)に代わって、京極佐々木氏の中心となり、東軍の総指揮官として西軍の山名持豊(出家して山名宗全)を攻撃し、東軍の京都防衛に奮戦した。そして同時に、南北近江の佐々木氏(六角氏と京極氏)が東西の軍に分かれて戦うことになり、足利尊氏より佐々木大惣領の地位を与えられ、近江守護職となった京極導譽ならびにその子秀綱・高秀が評定衆となり、四職家の一つとなって以来、近江の守護職を京極家にもたらす絶好の機会として戦った。すなわち、15世紀後半、六角氏が江南八郡を京極氏が江北三郡を占め、対立が続いていた六角氏と京極氏が再び相対する事態となったのである。
京極(多賀)高忠は、京極佐々木氏の中心となり、六角氏をしばしば追い詰め、応仁3年(文明元年、1469年)5月には、細川勝元の叔父としてその中枢にあった京極持清の権威を増大させ、江北三郡に江南九郡を加えた近江一国の守護職となるに至らしめたが、六角方の失地回復の軍事行動は続き、近江国内で死闘が繰り返された。戦況は、高忠の戦功によって京極方の圧勝に終始したが、結局、決着がつかないまま、宗全、勝元の両大将の病死によって幕を閉じた。しかし、この戦いは京の都を疲弊させ、室町幕府の権威を失墜させ、地方を支配する守護を倒した新興勢力が大名となる下剋上の戦国時代への引き金となった。
先祖の京極高忠多賀豊後守は、管領・細川勝元らの東軍に属した従兄でもある宗家・京極持清(勝元の叔父)に代わって、京極佐々木氏の中心となり、東軍の総指揮官として西軍の山名持豊(出家して山名宗全)を攻撃し、東軍の京都防衛に奮戦した。そして同時に、南北近江の佐々木氏(六角氏と京極氏)が東西の軍に分かれて戦うことになり、足利尊氏より佐々木大惣領の地位を与えられ、近江守護職となった京極導譽ならびにその子秀綱・高秀が評定衆となり、四職家の一つとなって以来、近江の守護職を京極家にもたらす絶好の機会として戦った。すなわち、15世紀後半、六角氏が江南八郡を京極氏が江北三郡を占め、対立が続いていた六角氏と京極氏が再び相対する事態となったのである。
京極(多賀)高忠は、京極佐々木氏の中心となり、六角氏をしばしば追い詰め、応仁3年(文明元年、1469年)5月には、細川勝元の叔父としてその中枢にあった京極持清の権威を増大させ、江北三郡に江南九郡を加えた近江一国の守護職となるに至らしめたが、六角方の失地回復の軍事行動は続き、近江国内で死闘が繰り返された。戦況は、高忠の戦功によって京極方の圧勝に終始したが、結局、決着がつかないまま、宗全、勝元の両大将の病死によって幕を閉じた。しかし、この戦いは京の都を疲弊させ、室町幕府の権威を失墜させ、地方を支配する守護を倒した新興勢力が大名となる下剋上の戦国時代への引き金となった。
絵馬堂の奉納絵:古代武人の絵馬は、紀元2600年記念(昭和15年6月)に、「神国日本」の国体観念を徹底させるために、太平洋戦争1年前に愛国婦人会室町分会より寄贈されたもの。
天皇陛下御即位20年記念植樹「楷樹」(平成21年11月12日)
御所の守護神として皇室の崇敬が厚い(すべて菊の御紋が入る)
本 殿
■ 応仁の乱に巻き込まれた京極家の家督相続(京極騒乱)
わが家系においても、この戦中に宗家・京極持清は近江守護職、高忠は守護代となったが、前年に嫡子勝秀が死去し、文明2年(1490年)に持清が死去したことから京極氏に内訌が起こり始め、京極家の家督相続も騒乱に巻き込まれることになった。すなわち、家督を巡り勝秀の嫡子・孫童子丸派と勝秀の庶子(妾の子)・乙童子丸派との間で争いが起こった。いわゆる京極騒乱である。
京極一族である近江の守護代・高忠は、京極家の家宰として、文明2年(1490年)、勝秀の嫡子・孫童子丸を家督とし、後見の持清の3男・京極政経(政高)を庇護するが、高忠の権勢を嫌う飛騨守護代の多賀出雲守・清直・宗直父子らが庶子(妾の子)・乙童子丸(高清)を立て、後見の持清の次男・京極政光や六角高頼らと共に対抗し、叔父同士、兄弟同士だけでなく、家臣団も二派に分かれての抗争が始まった。文明3年(1471年)には家督に付けた孫童子丸が夭折したため、新たな跡目争いが起こるが、高忠は後見の政経(政高)を庇護し、高清らの連合勢力に反撃して文明4年9月までに、湖東・湖北の実権を掌握した。その後も、一進一退の攻防は応仁の乱終了後も続いたが、文明13年(1481年)、幕府の仲介で両者は一旦和睦した。しかし、子の代においても家督争いは続き、35年間続いた家督争いが和睦(実際は、劣勢にあった妾の子・高清による和睦偽装の茶会での卑劣極まりない暗殺)により終結したのは、永生2年(1505年)である。
その間、京極家の後ろ盾であった高忠は室町幕府の要人として2度にわたる京都侍所所司代を務め、荒れすさんだ京都の治安維持ならびに市中の再建に尽力したが、文明18年(1486年)に世を去り、結局、京極の宗家は勝秀の嫡子の系ではなく、和睦偽装茶会の卑劣な暗殺により家督相続した庶子(妾の子)である高清の系となり、京極女系の豊臣秀吉への取り込みもあり、高吉(丸亀藩主)、高次(松江藩主)へと江戸時代に続くことになる。
京極一族である近江の守護代・高忠は、京極家の家宰として、文明2年(1490年)、勝秀の嫡子・孫童子丸を家督とし、後見の持清の3男・京極政経(政高)を庇護するが、高忠の権勢を嫌う飛騨守護代の多賀出雲守・清直・宗直父子らが庶子(妾の子)・乙童子丸(高清)を立て、後見の持清の次男・京極政光や六角高頼らと共に対抗し、叔父同士、兄弟同士だけでなく、家臣団も二派に分かれての抗争が始まった。文明3年(1471年)には家督に付けた孫童子丸が夭折したため、新たな跡目争いが起こるが、高忠は後見の政経(政高)を庇護し、高清らの連合勢力に反撃して文明4年9月までに、湖東・湖北の実権を掌握した。その後も、一進一退の攻防は応仁の乱終了後も続いたが、文明13年(1481年)、幕府の仲介で両者は一旦和睦した。しかし、子の代においても家督争いは続き、35年間続いた家督争いが和睦(実際は、劣勢にあった妾の子・高清による和睦偽装の茶会での卑劣極まりない暗殺)により終結したのは、永生2年(1505年)である。
その間、京極家の後ろ盾であった高忠は室町幕府の要人として2度にわたる京都侍所所司代を務め、荒れすさんだ京都の治安維持ならびに市中の再建に尽力したが、文明18年(1486年)に世を去り、結局、京極の宗家は勝秀の嫡子の系ではなく、和睦偽装茶会の卑劣な暗殺により家督相続した庶子(妾の子)である高清の系となり、京極女系の豊臣秀吉への取り込みもあり、高吉(丸亀藩主)、高次(松江藩主)へと江戸時代に続くことになる。