8代目・京極高忠:宗家の家督を父の兄・高光の血筋に戻す
Kyogoku (Taga) Takatada, the 8th generation of our family:
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父・高数の死後、京極宗家の家督を父の兄・高光の血筋:持高の弟・持清に戻す
わが家系8代目・京極高忠:父・高数の死後、京極宗家の家督(近江の領土)を父の兄・高光の血筋:従兄弟の持高の弟・持清に戻す
■ 室町幕府成立の立役者であり、足利政権を主導したわが家系4代目・佐々木京極高氏(佐々木佐渡守・判官入道・道誉)以降、5代目・高秀、6代目・高詮、7代目・高数、8代目・高忠と室町幕府の要人として足利政権を擁護した
南北朝動乱期の若狭、近江、出雲、飛騨、上総などの守護大名として、また室町幕府成立の立役者であり、侍所所司ならびに政所執事、評定衆、引付頭人などの役職を務め、四職家の主格として足利政権を主導した当代傑出の武将であり、かつ婆娑羅大名として天下にその名を馳せたわが家系4代目・佐々木京極高氏(佐々木佐渡守・判官入道・道誉)には、長男・秀綱、次男・秀宗、三男高秀と3人の息子がいたが、長男・秀綱およびその子秀詮・氏詮、次男・秀宗(近江の高橋家始祖)がいずれも高氏に先立って戦死していたため、高氏のあとは、三男・高秀(わが家系先祖)が京極宗家を継承した。
わが家系5代目・高秀には嫡男・高詮、次男・満秀(摂津の能勢家、多田家始祖)、三男・秀益(出雲の宍道家始祖)、四男・高久(近江の尼子家始祖)などの息子がおり、わが家系6代目の嫡男・高詮は、一旦は六角氏頼の猶子となって佐々木宗家の六角家の家督を継ぐが、六角氏頼に晩年亀寿丸という実子が誕生したため、京極家に戻り、京極宗家を継ぐ。
わが家系5代目・高秀には嫡男・高詮、次男・満秀(摂津の能勢家、多田家始祖)、三男・秀益(出雲の宍道家始祖)、四男・高久(近江の尼子家始祖)などの息子がおり、わが家系6代目の嫡男・高詮は、一旦は六角氏頼の猶子となって佐々木宗家の六角家の家督を継ぐが、六角氏頼に晩年亀寿丸という実子が誕生したため、京極家に戻り、京極宗家を継ぐ。
■ 将軍・足利義教の命により、わが家系7代目の高数が京極氏の当主(京極宗家の家督)となる
さらに6代目・高詮には嫡男・高光、次男・高数(わが家系7代目)がおり、宗家は嫡男の高光が継ぐが、生来の病弱であったため、公務に耐えられず、天皇の行幸警護や幕府軍総大将としての乱の鎮圧など、弟の高数が兄の代役を務めることが多く、応永20年(1413年)、高光は39才の若さで病死する。
高光の病死後、兄高光には嫡男・持高(持光)12歳、次男・持清6歳の2人の息子と娘(のちの細川持之室:勝元の母)がおり、嫡男・持高(持光)が宗家の家督を継ぐが、若年であったため、わが家系7代目の高数が後見を務め、応永28年(1421年)から応永30年(1423年)まで侍所頭人・山城守護職を任じながら、持高とともに御相伴衆にも列した。しかし、永享11年(1439年)、嫡男・持高も子を残さないまま38歳で早世したため、ときの6代将軍・足利義教は次男・持清(中務少輔)がいたにもかかわらず、わが家系7代目の高数を京極氏の当主とした。(薩戎記)。
わが家系7代目の高数は、ひとかどの人物であったようで、甥の持清を差し置いて高数を京極氏の家督にするというこの任命は、京極家の高光、持高、持清の3代に渡って実質的に宗家の家政を担っていたことも然ることながら、将軍・足利義満、義持、義教の代々に渡って、将軍家より寵を受けて(重用され寵遇されて)いたことが最大の理由である。然るに、このことが「守護の任免権を将軍が握る」という足利義教の恐怖政治の特徴のひとつと言われる所以ともなり、のちの「将軍が大名の国替・改易を行う近世的封建制度」を先取りしたものでもある。
高光の病死後、兄高光には嫡男・持高(持光)12歳、次男・持清6歳の2人の息子と娘(のちの細川持之室:勝元の母)がおり、嫡男・持高(持光)が宗家の家督を継ぐが、若年であったため、わが家系7代目の高数が後見を務め、応永28年(1421年)から応永30年(1423年)まで侍所頭人・山城守護職を任じながら、持高とともに御相伴衆にも列した。しかし、永享11年(1439年)、嫡男・持高も子を残さないまま38歳で早世したため、ときの6代将軍・足利義教は次男・持清(中務少輔)がいたにもかかわらず、わが家系7代目の高数を京極氏の当主とした。(薩戎記)。
わが家系7代目の高数は、ひとかどの人物であったようで、甥の持清を差し置いて高数を京極氏の家督にするというこの任命は、京極家の高光、持高、持清の3代に渡って実質的に宗家の家政を担っていたことも然ることながら、将軍・足利義満、義持、義教の代々に渡って、将軍家より寵を受けて(重用され寵遇されて)いたことが最大の理由である。然るに、このことが「守護の任免権を将軍が握る」という足利義教の恐怖政治の特徴のひとつと言われる所以ともなり、のちの「将軍が大名の国替・改易を行う近世的封建制度」を先取りしたものでもある。
■ 嘉吉の乱:赤松満祐の酒宴偽装による将軍・足利義教の暗殺とわが家系7代目・高数の闘死
ところが、嘉吉元年(1441年)、赤松満祐の酒宴に招待を受けた将軍・足利義教が赤松邸において殺害されるという事件が起こった。いわゆる嘉吉の乱であり、義教に供奉し、管領の細川持之・畠山・山名・大内ら有力守護大名や公家らとともに相伴していたわが家系7代目の高数は、細川持之ほか諸大名が逃げる中、その場に残って孤軍奮闘したが(建内記)、京極邸に帰ったところで息絶えた(師郷記)。
■ わが家系8代目・京極高忠:父・高数の死後、京極宗家の家督(近江の領土)を父の兄・高光の血筋:従兄弟の持高の弟・持清に戻し、自身は室町幕府(足利政権)の要人となる
高数には嫡男・高忠や土岐氏から入った養子・教久がいたが、高数の死後、わが家系8代目の嫡男・高忠は、京極宗家の家督(近江の領土)を高数の兄・高光の血筋:持高の弟である持清に戻し、自身は、4代目・佐々木京極高氏(道誉)より続く父と同じ京都・室町幕府(足利政権)の要人となり、寛正3年(1462年)より侍所所司代(京都所司代:1度目)として京都の治安維持に力を発揮した。
8代目・高忠は、父・高数が祖父の京極家6代目・高詮から譲られ、応永4年(1397年)に築城し家老たちと一緒に住んだという領地:多賀庄の下之郷を本拠(多賀庄下之郷城主)とし、また京極家より多賀豊後守家当主となったことから「多賀」を名乗り、京極家の家宰として従兄弟の近江・京極宗家を支えた。のちに起こる応仁元年(1467年)勃発の「応仁の乱」でも京極佐々木氏の中心となり、管領・細川勝元らの東軍に属した従兄でもある宗家・京極持清(勝元の叔父)に代わって、東軍の総指揮官として西軍の山名持豊(宗全)を撃破し、東軍の京都防衛に奮戦した。
そして、文明17年(1485年)、2度にわたる室町幕府京都所司代をつとめ、応仁の乱で荒廃した京都を建て直し、最後まで父同様に室町幕府を擁護したが、翌年の文明18年(1486年)に世を去った。室町時代の役人としては珍しく公平無私な政治を行い、名所司代の美名を残した。
8代目・高忠は、父・高数が祖父の京極家6代目・高詮から譲られ、応永4年(1397年)に築城し家老たちと一緒に住んだという領地:多賀庄の下之郷を本拠(多賀庄下之郷城主)とし、また京極家より多賀豊後守家当主となったことから「多賀」を名乗り、京極家の家宰として従兄弟の近江・京極宗家を支えた。のちに起こる応仁元年(1467年)勃発の「応仁の乱」でも京極佐々木氏の中心となり、管領・細川勝元らの東軍に属した従兄でもある宗家・京極持清(勝元の叔父)に代わって、東軍の総指揮官として西軍の山名持豊(宗全)を撃破し、東軍の京都防衛に奮戦した。
そして、文明17年(1485年)、2度にわたる室町幕府京都所司代をつとめ、応仁の乱で荒廃した京都を建て直し、最後まで父同様に室町幕府を擁護したが、翌年の文明18年(1486年)に世を去った。室町時代の役人としては珍しく公平無私な政治を行い、名所司代の美名を残した。
■ 京極騒乱:取り巻きの下剋上的野心が主因の嫡子と庶子を利用した家督争い(応仁の乱下で併発したこの現象は、戦国時代を誘発する下剋上の先駆けでもある)
一方、近江の京極宗家・持清には、嫡男・勝秀、次男・京極政光、三男・京極政経(政高)と3人の息子がいたが、文明2年(1470年)、応仁の乱の最中に、当主・持清と嫡男・勝秀が相次いで病死したため、家督を巡り勝秀の嫡子・孫童子丸派と勝秀の庶子・乙童子丸派との間で争いが起こった。いわゆる京極騒乱である。
京極一族である近江の守護代・高忠は、京極家の家宰として、文明2年(1470年)、勝秀の嫡子・孫童子丸を家督とし、後見の持清の三男・京極政経(政高)を庇護するが、高忠の権勢を嫌う飛騨守護代の多賀出雲守・清直・宗直父子らが庶子(妾の子)・乙童子丸(高清)を立て、後見の持清の次男・京極政光や六角高頼らと共に対抗し、叔父同士、兄弟同士だけでなく、家臣団も二派に分かれての抗争が始まった。
ところが、翌年の文明3年(1471年)には家督に付けた孫童子丸が夭折したため、新たな跡目争いが起こる。わが家系8代目の高忠は、後見の持清の3男・京極政経(政高)を庇護し、高清らの連合勢力に反撃して文明4年9月までに、湖東・湖北の実権を掌握した。その後も、一進一退の攻防は応仁の乱終了後も続いたが、文明13年(1481年)、幕府の仲介で両者は一旦和睦した。しかし、この家督争いは子の代においても続き、結局、和睦偽装の卑劣な暗殺による収束まで35年間を要した。
その間、上述の如く、京極家の後ろ盾であった8代目・高忠は、文明17年(1485年)、室町幕府の要人として2度にわたる京都侍所所司代を務め、山城国内の土一揆の鎮圧など、荒れすさんだ京都の治安維持ならびに市中の再建に尽力したが、京極騒乱の収束を見届けぬまま、文明18年(1486年)に世を去った。
翌・長享2年(1489年)、政経は近江国人衆の協力を得て、高清を越前敦賀へ追放。延徳2年(1490年)、政経は幕府から当主(京極氏惣領職)と認められ、併せて高清退治を命じられる。しかし、配下の所領横領の管理責任をとって辞職。政経は、退任後、出雲の守護代・尼子経久の地へ下向するが、政経の嫡男・材宗は近江に残り、抗戦を継続した。
京極一族である近江の守護代・高忠は、京極家の家宰として、文明2年(1470年)、勝秀の嫡子・孫童子丸を家督とし、後見の持清の三男・京極政経(政高)を庇護するが、高忠の権勢を嫌う飛騨守護代の多賀出雲守・清直・宗直父子らが庶子(妾の子)・乙童子丸(高清)を立て、後見の持清の次男・京極政光や六角高頼らと共に対抗し、叔父同士、兄弟同士だけでなく、家臣団も二派に分かれての抗争が始まった。
ところが、翌年の文明3年(1471年)には家督に付けた孫童子丸が夭折したため、新たな跡目争いが起こる。わが家系8代目の高忠は、後見の持清の3男・京極政経(政高)を庇護し、高清らの連合勢力に反撃して文明4年9月までに、湖東・湖北の実権を掌握した。その後も、一進一退の攻防は応仁の乱終了後も続いたが、文明13年(1481年)、幕府の仲介で両者は一旦和睦した。しかし、この家督争いは子の代においても続き、結局、和睦偽装の卑劣な暗殺による収束まで35年間を要した。
その間、上述の如く、京極家の後ろ盾であった8代目・高忠は、文明17年(1485年)、室町幕府の要人として2度にわたる京都侍所所司代を務め、山城国内の土一揆の鎮圧など、荒れすさんだ京都の治安維持ならびに市中の再建に尽力したが、京極騒乱の収束を見届けぬまま、文明18年(1486年)に世を去った。
翌・長享2年(1489年)、政経は近江国人衆の協力を得て、高清を越前敦賀へ追放。延徳2年(1490年)、政経は幕府から当主(京極氏惣領職)と認められ、併せて高清退治を命じられる。しかし、配下の所領横領の管理責任をとって辞職。政経は、退任後、出雲の守護代・尼子経久の地へ下向するが、政経の嫡男・材宗は近江に残り、抗戦を継続した。
■ 庶子(妾の子)高清:偽の同盟締結・和睦偽装茶会という卑劣な手段で宗家の嫡男・材宗を暗殺し、家督を奪取
明応8年(1499年)、追放されていた高清は京極氏重臣・上坂家信の助力により江北へ帰還が叶う。2度にわたる材宗の襲撃を退けるが、劣勢であった高清は、永生2年(1505年)、従兄弟・材宗と偽の同盟を結び、和睦とみせかけて宗家の嫡男・材宗を暗殺する。これで、35年間続いた家督争いは収束する。京極家の後ろ盾であった高忠は、すでに文明18年(1486年)に世を去っており、結局、京極の宗家は勝秀の嫡子の系ではなく、和睦偽装茶会の卑劣な暗殺により家督相続した庶子(妾の子)である高清の系となり、京極女系の豊臣秀吉への取り込みもあり、高吉(丸亀藩主)、高次(松江藩主)へと江戸時代に続くことになる。
■ 参考:戦国大名・尼子氏(出雲)の発祥
上述の如く、南北朝動乱期の若狭、近江、出雲、飛騨、上総などの守護大名として、また室町幕府成立の立役者であり、侍所所司ならびに政所執事、評定衆、引付頭人などの役職を務め、四職家の主格として足利政権を主導した当代傑出の武将であった4代目・佐々木京極高氏(道誉)には、長男・秀綱、次男・秀宗、三男高秀と3人の息子がいたが、長男・秀綱およびその子秀詮・氏詮、次男・秀宗がいずれも高氏に先立って戦死していたため、高氏のあとは、三男・高秀が京極宗家を継承した。
高氏の孫であり、高秀の四男である佐々木(京極)高久は、高氏(道誉)の菩提所・勝楽寺のある甲良荘尼子郷(滋賀・犬上郡甲良町)を与えられて独立し、有力庶子家となり、後の戦国大名尼子氏の始祖ともなる。すなわち、高久は正平2年(1347年)頃、本家京極家の勝楽寺の前衛城としてこの地に尼子城を築き、その後、地名の尼子を姓として尼子氏の始祖となる。
嫡男・詮久は近江尼子氏、次男・持久は出雲国(島根県)にて雲州尼子氏の祖となるが、近江尼子氏は2代氏宗、3代宗光以後、南北朝の打ち続く戦乱で落城し、さらには織田信長の近江侵攻により一族家臣たちは四散したと考えられる。一方、雲州尼子氏は3代経久〜5代晴久の時代には山陰山陽道11ヶ国に覇を握る200万石の巨大な戦国大名となっており、近江尼子氏の一族家臣たちは雲州尼子氏を頼り、彼の地に拠を移し活躍した者も多い。こうして、当時としては広大であった尼子城(館)と共に、近江尼子氏は歴史の表舞台から姿を消すことになる。
ちなみに、尼子高久の嫡男で、近江尼子氏の初代となる尼子詮久(読みは「のりひさ」出羽守)の名は、叔父であるわが家系6代目・高詮より与えられた偏諱である。
また、わが家系6代目の京極高詮は、明徳2年(1391年)、山名氏が幕府に背いて起こした「明徳の乱」では、幕府方に与して京都の内野合戦で功を上げ、翌年には山名氏の領国であった出雲・隠岐守護職を与えられ、さらに、応永6年(1399年)末に、大内義弘が幕府に背き、領国の和泉に城砦を築いて立てこもった「応永の乱」でも幕府方の部将として活躍し、その功により、乱後に将軍足利義満から石見守護職も与えられ、合わせて近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見の守護となり、父・高秀時代の京極氏の勢力をほぼ回復させているが、その内の出雲へは甥(弟・高久の子)の持久を守護代として派遣し、その子孫が戦国大名の尼子氏となっている。
高氏の孫であり、高秀の四男である佐々木(京極)高久は、高氏(道誉)の菩提所・勝楽寺のある甲良荘尼子郷(滋賀・犬上郡甲良町)を与えられて独立し、有力庶子家となり、後の戦国大名尼子氏の始祖ともなる。すなわち、高久は正平2年(1347年)頃、本家京極家の勝楽寺の前衛城としてこの地に尼子城を築き、その後、地名の尼子を姓として尼子氏の始祖となる。
嫡男・詮久は近江尼子氏、次男・持久は出雲国(島根県)にて雲州尼子氏の祖となるが、近江尼子氏は2代氏宗、3代宗光以後、南北朝の打ち続く戦乱で落城し、さらには織田信長の近江侵攻により一族家臣たちは四散したと考えられる。一方、雲州尼子氏は3代経久〜5代晴久の時代には山陰山陽道11ヶ国に覇を握る200万石の巨大な戦国大名となっており、近江尼子氏の一族家臣たちは雲州尼子氏を頼り、彼の地に拠を移し活躍した者も多い。こうして、当時としては広大であった尼子城(館)と共に、近江尼子氏は歴史の表舞台から姿を消すことになる。
ちなみに、尼子高久の嫡男で、近江尼子氏の初代となる尼子詮久(読みは「のりひさ」出羽守)の名は、叔父であるわが家系6代目・高詮より与えられた偏諱である。
また、わが家系6代目の京極高詮は、明徳2年(1391年)、山名氏が幕府に背いて起こした「明徳の乱」では、幕府方に与して京都の内野合戦で功を上げ、翌年には山名氏の領国であった出雲・隠岐守護職を与えられ、さらに、応永6年(1399年)末に、大内義弘が幕府に背き、領国の和泉に城砦を築いて立てこもった「応永の乱」でも幕府方の部将として活躍し、その功により、乱後に将軍足利義満から石見守護職も与えられ、合わせて近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見の守護となり、父・高秀時代の京極氏の勢力をほぼ回復させているが、その内の出雲へは甥(弟・高久の子)の持久を守護代として派遣し、その子孫が戦国大名の尼子氏となっている。