安倍宗任の菩提寺・安昌院(宗像・大島)を訪ねて
安倍宗任の菩提寺・安昌院(宗像・大島)を訪ねて 2018年10月19日
自宅ー自動車ー航空機ー自動車ー目的地ー自動車ー航空機ー自動車ー自宅の宅配便で、極力歩行を控え、2泊3日の九州での高校同窓会(福岡・二日市温泉)、宗像大社・辺津宮(宗像)、渡船フェリーで安倍宗任菩提寺・安昌院(大島)&宗像大社・中津宮(大島)訪問、中学恩師宅(豊前)訪問&中学同窓会(門司)を熟す 2018年10月18日〜20日 |
午前中、宗像大社・辺津宮(宗像)を訪問。大島方面を展望できる宗像の高台にあるレストランで昼食。
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群:世界文化遺産登録(世界遺産推進会議資料より)
宗像・大島へのアクセス
神湊港渡船ターミナル フェリー「おおしま」
乗船後、玄界灘の厳しさか、急に風雨強くなり、波高高く、波間短い荒波に遭遇。体感的には1〜2メートルを超す間隔の短いアップダウンを繰り返す渡航となる。さすがに船酔いとなり、下船後も酔いが尾を引き、思考力減退。豪雨の中、下船の港まで、安昌院(安倍宗任の菩提寺)のご住職にお迎えいただき、感謝の訪問。
■ 安倍宗任
安倍氏は、平安時代の陸奥国の俘囚の長とされる豪族で、安倍忠頼を家祖とし、奥州六郡(現在の岩手県内陸部)を拠点として糠部(現在の青森県東部)から亘理・伊具(現在の宮城県南部)にいたる地域を勢力範囲とした。婚姻などによって勢力を拡大し、安倍忠良の子、安倍頼時の代に最も勢力を広げた。
安倍宗任(1032-1108年)は、平安時代中期の武将。陸奥国の俘囚の長・安倍頼時の三男で、母は隣国出羽の豪族・清原氏娘。鳥海柵の主で、鳥海三郎とも呼ばれた。兄弟に貞任、家任、行任、姉妹に亘理の豪族で奥州藤原氏当主・藤原経清の室、在庁官人・平永衡の室。子に宗良、仲任、季任、3人の娘(種々の史書では、長女:藤原基衡の室、末女:佐々木季定の室とあるが、これらの結び付けは史実的にも年代的にも無理)。
安倍宗任(1032-1108年)は、平安時代中期の武将。陸奥国の俘囚の長・安倍頼時の三男で、母は隣国出羽の豪族・清原氏娘。鳥海柵の主で、鳥海三郎とも呼ばれた。兄弟に貞任、家任、行任、姉妹に亘理の豪族で奥州藤原氏当主・藤原経清の室、在庁官人・平永衡の室。子に宗良、仲任、季任、3人の娘(種々の史書では、長女:藤原基衡の室、末女:佐々木季定の室とあるが、これらの結び付けは史実的にも年代的にも無理)。
▼ 前九年の役(1051-1061年)
平安時代初期、東北地方はまだ蝦夷の支配する国であったが、蝦夷の族長アテルイと征夷大将軍・坂上田村麻呂の戦い(802年)により、蝦夷は朝廷に服従し、平安中期には奥州鎮守府(多賀城)の支配下に入っていた。しかし、貴族が下向することは少なく、実際は蝦夷出身の俘囚の長・安倍氏が仕切り、次第に財力を蓄えるようになった。そして、遂に中央政権(朝廷)と対立し、鎮守府将軍・源頼義&義家率いる官軍との間で前九年の役が起こる。
父・安倍頼時は途中で戦死し、兄の安倍貞任が後を継いだが、隣国の俘囚主・清原氏の頼義側への加勢により安倍氏は敗れる。貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害され、妹婿・藤原経清は処刑された。しかし、安倍宗任らは、降伏し、源義家により都へ連行される。朝廷や公家衆は宗任の処刑を求めたが、源頼義・義家親子は、宗任の知略・武略を惜しみ、死一等を減じて朝廷から貰い受け、監視が効き、源頼義の領地である四国の伊予国(今治市)に配流する(宗任32歳)。配流としながらも、後年には肥前国・松浦の領地で活躍の場を与えており、源義家が源氏の勢力拡大のために送ったとの説もある。五男の正任は肥後に流される。
また、藤原経清の妻(妹:有加一乃末陪)は、戦利品として清原武貞の妻となり、息子・清衡(後の藤原清衡)も武貞の養子となり生き残るが、安倍氏の地位を受け継いだ清原氏が子孫の代で、後継を巡る内紛を起こす(後三年の役)。源義家の調停を不服として異母弟・家衡が清衡を攻撃したが、清衡を応援した義家軍により清原氏惣領家は滅亡した。勝利した清衡は奥州の覇権を握り、実父の姓・藤原に戻し、奥州藤原氏初代となり、奥州藤原氏が興隆することになる。
父・安倍頼時は途中で戦死し、兄の安倍貞任が後を継いだが、隣国の俘囚主・清原氏の頼義側への加勢により安倍氏は敗れる。貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害され、妹婿・藤原経清は処刑された。しかし、安倍宗任らは、降伏し、源義家により都へ連行される。朝廷や公家衆は宗任の処刑を求めたが、源頼義・義家親子は、宗任の知略・武略を惜しみ、死一等を減じて朝廷から貰い受け、監視が効き、源頼義の領地である四国の伊予国(今治市)に配流する(宗任32歳)。配流としながらも、後年には肥前国・松浦の領地で活躍の場を与えており、源義家が源氏の勢力拡大のために送ったとの説もある。五男の正任は肥後に流される。
また、藤原経清の妻(妹:有加一乃末陪)は、戦利品として清原武貞の妻となり、息子・清衡(後の藤原清衡)も武貞の養子となり生き残るが、安倍氏の地位を受け継いだ清原氏が子孫の代で、後継を巡る内紛を起こす(後三年の役)。源義家の調停を不服として異母弟・家衡が清衡を攻撃したが、清衡を応援した義家軍により清原氏惣領家は滅亡した。勝利した清衡は奥州の覇権を握り、実父の姓・藤原に戻し、奥州藤原氏初代となり、奥州藤原氏が興隆することになる。
▼ 筑前大島への再配流
さて、宗任は伊予に3年間居留したが、少しずつ勢力を固め、再び本国へ逃げる恐れがあるとして、さらに豊後国宇佐郡(大分)へ、そして筑前国宗像郡の筑前大島(福岡)へと再配流された。すなわち、冶暦三年(1067年)、朝廷は宗任を九州大宰府の管内に再配流することにし、孤島で、しかも大宰府に近く、監視の効く国司や郡司のいる所として、また宗像大宮司家の管領でもある所として、筑前大島を配流地に選んだのである。一方、妻のおないの方は三人の娘を連れて東北の遠野に逃げ延びたという(「エミシの国の女神」菊池展明)。
宗任は、家臣の豊福、万沢、板矢、屋形や、実子の長男・宗良16歳、二男・仲任14歳、三男・季任12歳らと共に、大島西海岸の湊尻から上陸した。その後、宗任は、宗像氏の下で、日朝・日宋貿易において重要な役割を果たし、この地に根付き、肥前(佐賀)松浦党の娘・真百合を嫁に迎え、産まれた娘(市埜)を松浦党の始祖である源久に嫁がせたとされている。
宗任の娘に関しては、陸奥への郷愁、執念を捨てきれず、新たに奥州の主となった藤原清衡の息子、藤原基衡に娘を無理矢理嫁がせ、舅の立場を利用して陸奥へ帰ろうとしたが叶わなかったという説もあるが、疑わしい。また、松浦市史によると、同市内に宗任の居城や邸宅跡、起請した神社などがあるほか、源久の娘・真百合との間にできた子が松浦氏の祖となり、松浦党の主力をなす各氏に分かれたという系図もあるという。さらに、この肥前国(佐賀)松浦党に関しては、後述の如く、宗任の三男・安倍季任が肥前国松浦へ行き、松浦党の娘婿となり、松浦実任となって、松浦水軍の一族を形成したという説や、逆に長男・宗良が松浦へ行き、松浦党の祖となり、三男・季任が大島に残ったとする説もある。
以上のように、松浦党(松浦水軍)と安倍氏との関わりについては、諸説あり、解釈に苦しむが、長崎県の松浦市には初代の源久(渡辺久・松浦久)の築いた草創期の城・梶谷城跡があり、佐賀には松浦党の城跡がいくつか残っていることから、松浦党(松浦水軍)は嵯峨源氏・渡辺氏流・松浦氏系の松浦久(渡辺久、源久)を祖とするものが大半で、一部に前九年の役で破れ、宗像・大島に配流された奥州安倍氏の生き残り安倍宗任系のものがあると解釈される。
宗任は、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。宗任の墓は安昌院にある。寺の記録によれば、鳥羽天皇の嘉承3年・天仁元年(1108年)2月4日に77歳で逝去している。法名「安昌院殿海音高潮大居士」。現在の墓は「安陪統祖神儀」と刻んである宝篋印塔で、文政七年(1824年)の再建である。正面には松浦党の紋章でもある帆印「三星一引」の紋があり、安昌院の寺紋でもある。そして、左右に安倍氏の家紋である「立ち梶の葉」がある。また、正面には東北の荒吐族(あらばきそく)の信仰の中心であった「大日輪」が刻んである。
宗任は、家臣の豊福、万沢、板矢、屋形や、実子の長男・宗良16歳、二男・仲任14歳、三男・季任12歳らと共に、大島西海岸の湊尻から上陸した。その後、宗任は、宗像氏の下で、日朝・日宋貿易において重要な役割を果たし、この地に根付き、肥前(佐賀)松浦党の娘・真百合を嫁に迎え、産まれた娘(市埜)を松浦党の始祖である源久に嫁がせたとされている。
宗任の娘に関しては、陸奥への郷愁、執念を捨てきれず、新たに奥州の主となった藤原清衡の息子、藤原基衡に娘を無理矢理嫁がせ、舅の立場を利用して陸奥へ帰ろうとしたが叶わなかったという説もあるが、疑わしい。また、松浦市史によると、同市内に宗任の居城や邸宅跡、起請した神社などがあるほか、源久の娘・真百合との間にできた子が松浦氏の祖となり、松浦党の主力をなす各氏に分かれたという系図もあるという。さらに、この肥前国(佐賀)松浦党に関しては、後述の如く、宗任の三男・安倍季任が肥前国松浦へ行き、松浦党の娘婿となり、松浦実任となって、松浦水軍の一族を形成したという説や、逆に長男・宗良が松浦へ行き、松浦党の祖となり、三男・季任が大島に残ったとする説もある。
以上のように、松浦党(松浦水軍)と安倍氏との関わりについては、諸説あり、解釈に苦しむが、長崎県の松浦市には初代の源久(渡辺久・松浦久)の築いた草創期の城・梶谷城跡があり、佐賀には松浦党の城跡がいくつか残っていることから、松浦党(松浦水軍)は嵯峨源氏・渡辺氏流・松浦氏系の松浦久(渡辺久、源久)を祖とするものが大半で、一部に前九年の役で破れ、宗像・大島に配流された奥州安倍氏の生き残り安倍宗任系のものがあると解釈される。
宗任は、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。宗任の墓は安昌院にある。寺の記録によれば、鳥羽天皇の嘉承3年・天仁元年(1108年)2月4日に77歳で逝去している。法名「安昌院殿海音高潮大居士」。現在の墓は「安陪統祖神儀」と刻んである宝篋印塔で、文政七年(1824年)の再建である。正面には松浦党の紋章でもある帆印「三星一引」の紋があり、安昌院の寺紋でもある。そして、左右に安倍氏の家紋である「立ち梶の葉」がある。また、正面には東北の荒吐族(あらばきそく)の信仰の中心であった「大日輪」が刻んである。
▼ 宗任の末裔
宗任の長男・宗良は島に留まり大島太郎・安倍権頭として大島の統領を継いだ。子孫は宗像大宮司家・神職などの他、安倍・安部・阿部などの縁故が宗像・糟屋地方に多い。宗任から42世の孫・安倍頼任は、九州の剣豪として知られ、秋月藩に仕え(250石)、剣術流派・安倍立剣道を開いた。宗任没後、574年目の延宝九年(1681年)の夏に、安昌院で先祖の大供養をした供養塔(位牌)がある。
二男・仲任は薩摩に行ったと歴史辞典などにあるが不明。
三男・季任(実任)は松浦に行き、下松浦(平戸)で松浦氏の娘婿となり、松浦三郎太夫実任と名乗った。その子孫は松浦に残り、北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。
そして、季任(実任)の子孫・松浦高俊は、宗任から5世にあたるが、平家の武将・平清盛の側近となり、源平の海戦で、平氏方の水軍として壇ノ浦で戦い、破れて山口県大津郡(長門市)油谷町に配流された。その地で妻を娶り、土着し、娘を産んだ。娘は長じて平知盛の庶子であるという平智貞に嫁したが、源氏の迫害から逃れるために、安倍の姓を名乗ったという。(ただし平家の家系図には平知貞という人物は存在せず、詳細は不明)。この安倍一族が、戦前の衆院議員・安倍寛氏、元外務大臣・安倍晋太郎氏や総理大臣・安倍晋三氏のルーツであるという。晋太郎氏や晋三氏は自らを安倍宗任の末裔と公言されているが、その詳細は不明である。
一応、上記の説を採用表記したが、水軍松浦党との関わり方によっては、話が全く逆転する。すなわち、上述の如く、父の宗任自身が肥前(佐賀)松浦党の娘・真百合を嫁に迎え、産まれた娘(市埜)を松浦党の始祖である源久に嫁がせたとする説や、逆に源久の娘・真百合との間にできた子が松浦氏の祖となり、松浦党の主力をなす各氏に分かれたという説、また以下の「姓氏家系大辞典」三巻 「筑前の安倍氏」にみられるように、長男・宗良が松浦へ行き、松浦党の祖となり、三男・季任が大島に残ったとする全く逆の説などがある。後に子孫を残して、実任は大分県宇佐郡駅川町熊に行ったという。
すなわち、「姓氏家系大辞典」三巻 「筑前の安倍氏」の項目・旧志略には、「宗任伊予国に配流せられ、後本嶋に流され、終に此の地にて死せり。その子三人、長子は松浦に行き、松浦党の祖となり、次男は薩摩に行き、三男此の嶋に留り、大嶋三郎季任と云い、その子孫今に此の嶋に残れり」と、「配流された蝦夷の頭目」という扱いで載っている。
一方、宗任の妻のおないの方は三人の娘を連れて東北の遠野に逃げ延び、遠野の里人のために、難産難病の治療にあたり、地元の伊豆権現に、三人の娘とともに合祀されたという。そして、その伊豆権現の祭神は、瀬織津姫。別名:天照大神の三女神(宗像三神)の内、夫が流された宗像大島に鎮座する湍津姫だったという(「エミシの国の女神」菊池展明)。これらの記載を含めて、種々の史書で、宗任の娘の内、長女は藤原基衡の室すなわち藤原秀衡の母、末女は佐々木季定の室すなわち佐々木秀義の母とあるが、これらの結び付けは史実的にも年代的にも無理である。
二男・仲任は薩摩に行ったと歴史辞典などにあるが不明。
三男・季任(実任)は松浦に行き、下松浦(平戸)で松浦氏の娘婿となり、松浦三郎太夫実任と名乗った。その子孫は松浦に残り、北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。
そして、季任(実任)の子孫・松浦高俊は、宗任から5世にあたるが、平家の武将・平清盛の側近となり、源平の海戦で、平氏方の水軍として壇ノ浦で戦い、破れて山口県大津郡(長門市)油谷町に配流された。その地で妻を娶り、土着し、娘を産んだ。娘は長じて平知盛の庶子であるという平智貞に嫁したが、源氏の迫害から逃れるために、安倍の姓を名乗ったという。(ただし平家の家系図には平知貞という人物は存在せず、詳細は不明)。この安倍一族が、戦前の衆院議員・安倍寛氏、元外務大臣・安倍晋太郎氏や総理大臣・安倍晋三氏のルーツであるという。晋太郎氏や晋三氏は自らを安倍宗任の末裔と公言されているが、その詳細は不明である。
一応、上記の説を採用表記したが、水軍松浦党との関わり方によっては、話が全く逆転する。すなわち、上述の如く、父の宗任自身が肥前(佐賀)松浦党の娘・真百合を嫁に迎え、産まれた娘(市埜)を松浦党の始祖である源久に嫁がせたとする説や、逆に源久の娘・真百合との間にできた子が松浦氏の祖となり、松浦党の主力をなす各氏に分かれたという説、また以下の「姓氏家系大辞典」三巻 「筑前の安倍氏」にみられるように、長男・宗良が松浦へ行き、松浦党の祖となり、三男・季任が大島に残ったとする全く逆の説などがある。後に子孫を残して、実任は大分県宇佐郡駅川町熊に行ったという。
すなわち、「姓氏家系大辞典」三巻 「筑前の安倍氏」の項目・旧志略には、「宗任伊予国に配流せられ、後本嶋に流され、終に此の地にて死せり。その子三人、長子は松浦に行き、松浦党の祖となり、次男は薩摩に行き、三男此の嶋に留り、大嶋三郎季任と云い、その子孫今に此の嶋に残れり」と、「配流された蝦夷の頭目」という扱いで載っている。
一方、宗任の妻のおないの方は三人の娘を連れて東北の遠野に逃げ延び、遠野の里人のために、難産難病の治療にあたり、地元の伊豆権現に、三人の娘とともに合祀されたという。そして、その伊豆権現の祭神は、瀬織津姫。別名:天照大神の三女神(宗像三神)の内、夫が流された宗像大島に鎮座する湍津姫だったという(「エミシの国の女神」菊池展明)。これらの記載を含めて、種々の史書で、宗任の娘の内、長女は藤原基衡の室すなわち藤原秀衡の母、末女は佐々木季定の室すなわち佐々木秀義の母とあるが、これらの結び付けは史実的にも年代的にも無理である。
■ 配流地・筑前大島
安倍宗任の配流地・大島は、福岡県下で最も大きな離島であり、響灘と玄界灘の境界部に面する有人島で、筑前大島ともいい、宗像七浦の一つ。島には、安倍宗任の菩提寺・安昌院のほかに、「神守る島」と銘打ち、2017年(平成29年)7月に「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の一部として世界遺産に登録された宗像大社中津宮、沖津宮遙拝所がある。平成29年(2017年)版・宗像市統計書&総務省統計局「国勢調査報告」によると、面積は8.14 km²、最高標高224 m(島の一番高い山・御嶽山224 m )、島の周囲:約15 kmで、小高い山が多く島の面積の約半分が起伏のはげしい丘陵地である。人家は島の南側にほとんど集中している。周囲が海のため暖かく、一年中霜が降りない『玄界灘に浮かぶ自然と歴史の島』である。以前は、福岡県宗像郡大島村として存在したが、2005年(平成17年)3月28日に対岸の宗像市に編入合併された。
ちなみに、大島は宗像市から響灘(玄界灘)沖約10kmの場所にあるが、同じく世界遺産に登録の沖ノ島は玄界灘のほぼ真ん中にあり、福岡県最北部の「海の正倉院」と謳われる「絶海の孤島」である。常住者はなく、一般の住民は大島に居住している。沖ノ島は総社・宗像大社(辺津宮)が所有しており、辺津宮より派遣された神職が10日交代で365日勤務し、沖津宮で祭祀を行い、一人で島を守っている。また、女人禁制、上陸時の海中禊ぎなどの掟が厳守され、神の島である。
ちなみに、大島は宗像市から響灘(玄界灘)沖約10kmの場所にあるが、同じく世界遺産に登録の沖ノ島は玄界灘のほぼ真ん中にあり、福岡県最北部の「海の正倉院」と謳われる「絶海の孤島」である。常住者はなく、一般の住民は大島に居住している。沖ノ島は総社・宗像大社(辺津宮)が所有しており、辺津宮より派遣された神職が10日交代で365日勤務し、沖津宮で祭祀を行い、一人で島を守っている。また、女人禁制、上陸時の海中禊ぎなどの掟が厳守され、神の島である。
■ 菩提寺・安昌院
安倍宗任の菩提寺・安昌院は、福岡県下で最も大きな離島・大島にあり、地名は福岡県宗像市大島1613 。住職(安川至道氏)によれば、安昌院は、天台宗として開山され、文録元年(1592年)に曹洞宗に転宗されたが、東国の安寧と安倍家の隆昌を願う宗任名付けの東寧山・安昌院という名称を維持して現在に至るという。住職より恵贈いただいた父君である先代住職・安川浄生氏の著書「奥州・安倍宗任の生涯」によれば、開基は大宰管内誌には遠孫の宗任から二十一世の妙任尼(文応元年1260年)となっているが、安昌院で毎朝読経する回向文では、開基は宗任であり、中興開基が妙任尼となっているという。
ちなみに、後代に記された『筑前國続風土記』や『筑前國続風土記拾遺』(巻之36 宗像郡 上 大嶋の項)には、「安昌院:東寧山といふ。曹洞宗田嶋村醫王寺の末也。此所むかし安倍宗任か宅址なりしを、その遺孫に妙任尼といふ者ありて當寺を開基せり。此尼嶋前の波止を築し事なと本編に詳なれは贅せす。本尊は藥師如来宗任か持尊佛にて秘佛なりといふ。 此寺の側に榎木一株あり。宗任か墳也とて樹下に五輪石塔有。此寺高き岸の上にありて、南の方海上を望みて眺望勝れたり。 十景あり。」との記載がある。
また、住職より恵贈いただいた先代住職・安川浄生氏の著書「筑前大島に眠る安倍宗任」によれば、大宰府管内しかも絶海の孤島である大島に配流された宗任は、豊福、屋形、万沢、板矢などの家臣や、実子の長男・宗良16歳、二男・仲任14歳、三男・季任12歳らと共に、大島の西海岸、湊尻から上陸した。最初は住居を今も残る地名・昆沙蔵に構えて、東北から奉持してきた昆沙門天像を安置するために一字を結んだ。昆沙蔵は安置場所に由来した地名という。周囲には明り山、大門、小門という地名が今も残っている。居住地の石組もある。その後、宗任らは島の中心地・御所山に移り住んだ。現在の大島中学校の裏方にあたる。すなわち、安倍一族の御所である。その後、さらに住居を叶川に移し、現在の安昌院境内を宅地と定め、自らの守り本尊と昆沙門天像を安置するために寺を建立した。これが、安昌院である。東国の安寧と安倍家の隆昌を願って、東寧山安昌院と名付けたという(寺伝より)。
本尊は薬師瑠璃光如来であり、古来秘仏とされている。『拾遺』や寺伝によれば宗任の持尊仏という。薬師瑠璃光如来は東方護持の主尊であり、前九年の役で敗北した一族が離散の時に各自小型の薬師如来を持って分散したと想起できる高さ42センチの仏像(木仏)である。脇士は日光・月光菩薩であるが、これは後年の江戸時代の作だという。
ちなみに、後代に記された『筑前國続風土記』や『筑前國続風土記拾遺』(巻之36 宗像郡 上 大嶋の項)には、「安昌院:東寧山といふ。曹洞宗田嶋村醫王寺の末也。此所むかし安倍宗任か宅址なりしを、その遺孫に妙任尼といふ者ありて當寺を開基せり。此尼嶋前の波止を築し事なと本編に詳なれは贅せす。本尊は藥師如来宗任か持尊佛にて秘佛なりといふ。 此寺の側に榎木一株あり。宗任か墳也とて樹下に五輪石塔有。此寺高き岸の上にありて、南の方海上を望みて眺望勝れたり。 十景あり。」との記載がある。
また、住職より恵贈いただいた先代住職・安川浄生氏の著書「筑前大島に眠る安倍宗任」によれば、大宰府管内しかも絶海の孤島である大島に配流された宗任は、豊福、屋形、万沢、板矢などの家臣や、実子の長男・宗良16歳、二男・仲任14歳、三男・季任12歳らと共に、大島の西海岸、湊尻から上陸した。最初は住居を今も残る地名・昆沙蔵に構えて、東北から奉持してきた昆沙門天像を安置するために一字を結んだ。昆沙蔵は安置場所に由来した地名という。周囲には明り山、大門、小門という地名が今も残っている。居住地の石組もある。その後、宗任らは島の中心地・御所山に移り住んだ。現在の大島中学校の裏方にあたる。すなわち、安倍一族の御所である。その後、さらに住居を叶川に移し、現在の安昌院境内を宅地と定め、自らの守り本尊と昆沙門天像を安置するために寺を建立した。これが、安昌院である。東国の安寧と安倍家の隆昌を願って、東寧山安昌院と名付けたという(寺伝より)。
本尊は薬師瑠璃光如来であり、古来秘仏とされている。『拾遺』や寺伝によれば宗任の持尊仏という。薬師瑠璃光如来は東方護持の主尊であり、前九年の役で敗北した一族が離散の時に各自小型の薬師如来を持って分散したと想起できる高さ42センチの仏像(木仏)である。脇士は日光・月光菩薩であるが、これは後年の江戸時代の作だという。
安昌院全景(住職恵贈のリーフレットより)
大島 安昌院 山門
大島 安昌院 本堂
大島 安昌院 本堂脇の「慈母観音像」
大島・安昌院 本堂脇の「薬師如来像」(右)、
地蔵像(左)
地蔵像(左)
大島・安昌院 本堂左脇に「三界萬霊塔」(右)、地蔵像(左)
大島・安昌院 本堂正面左境内中央に、「三界萬霊塔」(右)、脇に地蔵像(左)
「三界萬霊塔」:無色界、色界、欲界の三界すべての精霊を供養する
「三界萬霊塔」:無色界、色界、欲界の三界すべての精霊を供養する
▼ 宗任の位牌と一族の位牌
住職(安川至道氏)の御好意で、安昌院にある500年前の宗任の位牌と360年前の一族の位牌を拝覧させていただいた。宗任の位牌には「当院開基海音高潮大居士神儀」と刻まれており、院号は未だついていない。院殿号は、おそらく安昌院が曹洞宗に転宗された時、およそ400年前に追号されたものと考えられる。また、一族の位牌には「曩祖安倍宗任神儀及子孫世世聖霊并門葉諸霊位」と刻まれており、宗任から42世の末裔、剣豪・安倍頼任が延宝九年(1681年)の夏に、安昌院で宗任一門の先祖供養をした折に奉納した高さ80センチの大位牌である。
安昌院の本堂には、他に中国伝来の聖観世音菩薩坐像や韓国渡来の青銅聖観音像、中国の宋、明時代(日本では鎌倉、室町時代に当たる)の銭と銭壷などがあり、日宋、日朝貿易など海外貿易の要所であったことが窺える。
安昌院の本堂には、他に中国伝来の聖観世音菩薩坐像や韓国渡来の青銅聖観音像、中国の宋、明時代(日本では鎌倉、室町時代に当たる)の銭と銭壷などがあり、日宋、日朝貿易など海外貿易の要所であったことが窺える。
宗任の持尊仏:本尊・薬師瑠璃光如来(秘仏)
(住職恵贈のリーフレットより)
(住職恵贈のリーフレットより)
500年前の安倍宗任の位牌
「当院開基海音高潮大居士神儀」
「当院開基海音高潮大居士神儀」
500年前の宗任の位牌
360年前の一族の位牌
500年前の宗任の位牌:「当院開基海音高潮大居士神儀」:院号は未だついていない。
360年前の一族の位牌:「曩祖安倍宗任神儀及子孫世世聖霊并門葉諸霊位」
宗任から42世の末裔、剣豪・安倍頼任が1681年に、先祖供養のため奉納:高さ80センチの大位牌
宗任から42世の末裔、剣豪・安倍頼任が1681年に、先祖供養のため奉納:高さ80センチの大位牌
銅造菩薩坐像(鋳銅製、像高さ:38.5センチ、高麗時代)
安昌院 「當院檀越先亡精霊位」
安倍晋太郎氏書、安倍晋三氏と住職写真
安倍宗任の墓(旧墓所)写真
900年を経た大榎も朽ち果て今は第二世の榎
900年を経た大榎も朽ち果て今は第二世の榎
ご住職と 土砂降りの中を送迎いただき、感謝!
▼ 宗任の墓
宗任の墓は安昌院の境内にある。寺の記録によれば、鳥羽天皇の嘉承3年・天仁元年(1108年)2月4日に77歳で逝去している。前九年の終局が宗任32歳であれば、逝去まで45年の歳月をこの大島で過ごしたことになる。法名「安昌院殿海音高潮大居士」。現在の墓は「安陪統祖神儀」と刻んである宝篋印塔で、文政七年(1824年)の再建である。正面には松浦党の紋章でもある帆印「三星一引」の紋があり、これは安昌院の寺紋でもある。松浦党と無関係ではない証であろう。そして、左右に安倍氏の家紋である「立ち梶の葉」がある。また、正面には東北の荒吐族(あらばきそく)の信仰の中心であった「大日輪」が刻んである。
墓所には、宝篋印塔の他に、左右の片隅に、五輪の高さ約40センチの砂岩製の古塔が15塔ほど集められているが、碑文は不明、地水火風空を表わす最高部の空輪や風輪は押しつぶされている。宗任の末裔の墓碑であろうか。また、近年まで樹齢900年の大榎が宝篋印塔に寄り添うように繁茂していたが、老枯したという。
墓所には、宝篋印塔の他に、左右の片隅に、五輪の高さ約40センチの砂岩製の古塔が15塔ほど集められているが、碑文は不明、地水火風空を表わす最高部の空輪や風輪は押しつぶされている。宗任の末裔の墓碑であろうか。また、近年まで樹齢900年の大榎が宝篋印塔に寄り添うように繁茂していたが、老枯したという。
宗任の墓:宝篋印塔「安陪統祖神儀」と刻まれている。正面には安昌院の寺紋であり、松浦党の紋章でもある帆印「三星一引」の紋がある。左右に安倍氏の家紋である「立ち梶の葉」がある。正面には東北の荒吐族の信仰の中心であった「大日輪」が刻んである。
左右の片隅に、五輪の高さ約40センチの砂岩製の古塔が集められている。宗任の末裔の碑か。
住職よりご恵贈いただいた父君・先代住職・安川浄生氏の著書「「安倍宗任」
住職恵贈のリーフレット
大島港ターミナル(大島発フェリー最終便:18.00)