清和源氏嫡流・源為義の位牌と供養塔を祀る権現寺(京都)
佐々木秀義と源為義にみる宇多源氏嫡流と清和源氏嫡流の血縁
京都での学会の帰途、権現寺を訪問し、住職のご厚意で、本寺社に伝わる源為義の「位牌」ならびに墓所「供養塔」を拝覧させていただいた。 2018年6月10日 降雨予想の中、タクシーを借り切っての訪問
■ 権現寺
山号:清光山 。院号:成就院。寺号:権現寺。浄土宗寺院で、本尊: 阿弥陀如来像(本堂)を祀る。また、寺内にある地蔵堂には愛宕権現の本地仏の将軍地蔵を祀り、「朱雀の権現堂」、「朱雀の地蔵堂」と呼ばれている。寺伝によると、この将軍地蔵は、もともと大和国(奈良県)の元興寺に祀られていたものが、平安遷都後の天安二年(858年)に七条朱雀(現・中央市場のある七条千本付近)の歓喜寺に移されたのが起源とされ、権現寺は歓喜寺とも呼ばれている。しかし、その後の度重なる戦乱で歓喜寺は荒廃するが、権現堂(権現寺)だけは残存したといわれている。そして、明治四十五年(1912年)、京都駅停車場(現JR京都駅)拡張による国鉄山陰線の敷設の影響で、旧地の西にある現在地に強制移転されたという(現在地:京都府京都市下京区朱雀裏畑町22番地)。権現寺の本堂には源為義の位牌が安置され、門前には源為義の墓所があり、石塔残欠を集めた供養塔がある。
■ 源為義の位牌
権現寺には、天皇より贈られた源為義の位牌「贈内大臣義法大居士六條判官為義公 尊儀」(尊儀=天皇)が安置されている。(住職のご厚意で、奥より出して、拝覧させていただいた。 2018年6月10日)
■ 源為義の供養塔
権現寺の門前には、世に「六条判官」と呼ばれた清和源氏の嫡流:河内源氏の棟梁・源為義の墓所があり、石塔残欠を集めた供養塔がある。現在地(朱雀裏畑町)にある「源為義の墓所」は、もともとは千本七条にあり、上記のように、明治四十五年(1912年)、京都駅停車場(現JR京都駅)拡張によって現在地に強制移転されたという。千本七条は、当時の七条朱雀付近に当たり、「保元物語」では、為義はこの七条朱雀野で斬首され、処刑後は北白河円覚寺(現廃寺:現在の左京区北白川下池田町あたり)に葬られた(享年61歳)と記述されており、また「愚管抄」(慈円)では、四塚で斬首されたとある。七条朱雀が朱雀野と表現されることを考えると、七条朱雀から四塚あたり一帯が平安京の葬送地のひとつであり、処刑の場所としても使われていたのではないかと思われる。
そして、後世の人は、保元物語の記述に従い、為義の墓所を最期の地とされる千本七条に建て、供養したものと思われる。より近いところでは、1780年刊行の「都名所圖會」4巻(秋里籬島)にも「源為義の塚」(「朱雀の六軒町といふ」の記述あり)および「水薬師 朱雀権現堂 為義塚」として描かれている。そして、「保元二年、後白川院の勅をうけて、源義朝鎌田兵衛正清に申しつけて、父為義を誅せし所なり。則ち権現寺の持地なり」と付記あり。しかし、為義はこの七条朱雀野で斬首されたことには反証もあり、同時代の信憑性のある資料:「兵範記」(平信範の日記:保元元年7月30日条)によれば、為義は頼賢、頼仲、為宗、為成、為仲の5人の子らと一緒に、船岡山あたりで処刑されたことになっている。船岡山(京都市北区紫野北舟岡)の西には、京都の3大葬送地のひとつである蓮台野があり、処刑場でもあり、戦死者が積み上げられた風葬の地でもあったという。
そして、後世の人は、保元物語の記述に従い、為義の墓所を最期の地とされる千本七条に建て、供養したものと思われる。より近いところでは、1780年刊行の「都名所圖會」4巻(秋里籬島)にも「源為義の塚」(「朱雀の六軒町といふ」の記述あり)および「水薬師 朱雀権現堂 為義塚」として描かれている。そして、「保元二年、後白川院の勅をうけて、源義朝鎌田兵衛正清に申しつけて、父為義を誅せし所なり。則ち権現寺の持地なり」と付記あり。しかし、為義はこの七条朱雀野で斬首されたことには反証もあり、同時代の信憑性のある資料:「兵範記」(平信範の日記:保元元年7月30日条)によれば、為義は頼賢、頼仲、為宗、為成、為仲の5人の子らと一緒に、船岡山あたりで処刑されたことになっている。船岡山(京都市北区紫野北舟岡)の西には、京都の3大葬送地のひとつである蓮台野があり、処刑場でもあり、戦死者が積み上げられた風葬の地でもあったという。
古碑文字の解説は、住職よりご恵贈いただいた「京都名家墳墓録」による
六条判官源為義公塚
■ 佐々木秀義と源為義にみる宇多源氏嫡流と清和源氏嫡流の血縁
源為義は、宇多源氏の嫡流・佐々木秀義の養義父、佐々木定綱の祖父であり、清和源氏の嫡流・源義家の孫、源義朝の父、源頼朝の祖父。すなわち佐々木秀義と源義朝は養子兄弟、佐々木定綱と源頼朝や源義経は従兄弟どうしである。
我が家系伝来の宇多源氏流(近江源氏・佐々木源氏)家系図(⇒ 秀義・定綱)
■ 源為義
源為義 (1096-1156) は、平安時代末期の武将。清和天皇の皇子を祖とする清和源氏の嫡流:源氏の棟梁。祖父は「前九年の役」や「後三年の役」で武勇の士として有名な源「八幡太郎」義家、父は源義親。義親の西国での乱行により、祖父義家は三男・義忠を継嗣に定め、同時に孫の為義を次代の嫡子に命じたが、叔父の源義忠が家督就任3年後に暗殺されたため、河内源氏の棟梁となる。幼少時の為義は、京において祖父義家の養子として育てられ、祖父の死後は叔父の義忠に育てられている。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父である。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが、度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、鎮西に派遣した八男の源為朝の乱行により解官となる。
一方、長男の義朝は妻の実家の熱田大宮司家(季範)を通じて鳥羽法皇に接近し、摂関家と結ぶ為義と競合・対立していくことになる。
為義は保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝(実際は家臣)の手で(実際は家臣鎌田兵衛正清に申しつけて)処刑された。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが、度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、鎮西に派遣した八男の源為朝の乱行により解官となる。
一方、長男の義朝は妻の実家の熱田大宮司家(季範)を通じて鳥羽法皇に接近し、摂関家と結ぶ為義と競合・対立していくことになる。
為義は保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝(実際は家臣)の手で(実際は家臣鎌田兵衛正清に申しつけて)処刑された。
■ 佐々木秀義
佐々木秀義 (1112-1184) は、平安時代末期の武将。宇多天皇の皇子を祖とする宇多源氏の嫡流:佐々木氏の当主。諱は秀義。源三と称す。贈・近江権守。法号は長命寺殿。享年73歳。宇多天皇玄孫・源成頼の嫡男である佐々木氏の祖・源章経(佐々木義経)の孫。13歳の時、清和源氏の嫡流・源為義の養子となり、為義の娘を娶る。源頼朝の父・義朝とは婿養子兄弟ということになる。媒母は奥州の覇者・藤原秀衡の妻である(『東鏡』など)とされているが、縁戚の詳細は不明。子には、嫡子長男・定綱、次男・経高、三男・盛綱、四男・高綱、五男・義清などがいる。頼朝の挙兵(鎌倉幕府立ち上げ)には、頼朝の従兄弟でもある息子の定綱、経高、盛綱、高綱の四兄弟を助けに向かわせる。
■ 保元・平治の乱にみる武将の宿命
▼ 源為義
為義は検非遣使となり六条堀川の館に居住したことから六条判官と呼ばれたが、久寿元年(1154年)、子の八男・為朝が九州で乱行を繰り返した責任から、翌二年(1155年)に解官され、家督を長男義朝に譲る。
翌・保元元年(1156年)鳥羽法皇死後の皇位継承争いから、崇徳上皇と後白河天皇が対立し、さらに摂関家(藤原氏)内部の権力争いから左大臣頼長が上皇と関白忠通が天皇と結びついて、それぞれ配下の武士を召集したことから「保元の乱」が起こる。
主君に仕える武将の宿命か、為義は、主君・頼長の召集に応じて子の頼賢、為朝ら一族を率いて崇徳上皇方につき、後白河天皇方の長男義朝や婿養子秀義、平清盛らと戦うことになる。為義は崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、東国へ落ち延びようとしたが、後白河天皇方についた義朝のもとに降伏。出家する。後白川院の勅に対して、息子の義朝は自らの戦功に代えて、父・為義と弟たちの助命を願うが許されず、保元2年7月30日に義朝により(実際は配下の鎌田兵衛正清に申つけて)斬首された(場所は『保元物語』では七条朱雀、『兵範記』では船岡山)。享年61歳。天皇贈賜の位牌「贈内大臣義法大居士六條判官為義公 尊儀」(尊儀=天皇)。
翌・保元元年(1156年)鳥羽法皇死後の皇位継承争いから、崇徳上皇と後白河天皇が対立し、さらに摂関家(藤原氏)内部の権力争いから左大臣頼長が上皇と関白忠通が天皇と結びついて、それぞれ配下の武士を召集したことから「保元の乱」が起こる。
主君に仕える武将の宿命か、為義は、主君・頼長の召集に応じて子の頼賢、為朝ら一族を率いて崇徳上皇方につき、後白河天皇方の長男義朝や婿養子秀義、平清盛らと戦うことになる。為義は崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、東国へ落ち延びようとしたが、後白河天皇方についた義朝のもとに降伏。出家する。後白川院の勅に対して、息子の義朝は自らの戦功に代えて、父・為義と弟たちの助命を願うが許されず、保元2年7月30日に義朝により(実際は配下の鎌田兵衛正清に申つけて)斬首された(場所は『保元物語』では七条朱雀、『兵範記』では船岡山)。享年61歳。天皇贈賜の位牌「贈内大臣義法大居士六條判官為義公 尊儀」(尊儀=天皇)。
▼ 佐々木秀義
保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱で、秀義は天皇方の源義朝に与して戦うことになり、勝利し、佐々木庄で勢力争いをしていた佐々貴山氏に対して優位を得る。すなわち、この時代、近江佐々木庄では左大臣・雅信の4男扶義(参議、大蔵卿)流・武家系の佐々木氏と大彦命後裔の土着の豪族・沙沙貴山君との勢力争いによる錯綜があり、佐々木氏の動きには現地支配を固めようとする背景があったのかもしれない。ちなみに、その時の佐々木庄の領主は、秀義が近侍する左大臣・藤原頼長の父・前関白・藤原忠実であり、養義父・源為義は同庄の預所職である。
しかし、平治元年(1159年)の平治の乱では、義朝に与し、義朝の嫡子である源義平(鎌倉悪源太、源頼朝・義経らの異母兄)とともに戦うが、義朝方は敗れる。『東鏡』割注など種々の史書によると、秀義は、子の定綱、経高、盛綱(このとき、高綱は幼少だったため、京都に残して)を連れて媒母の夫である藤原秀衡(奥州の覇者)を頼って奥州へ落ち延びようとしたが、途中、秀義の武勇に惚れ込んでいた桓武平氏の一族で武蔵国から相模国に至る領地を有した渋谷重国に引き留められ、その庇護を受ける。この地で20年を過ごし、渋谷重国の娘を娶り五男の義清をもうける。子息たちも宇都宮朝綱・渋谷重国・大庭景親など豪族級東国武士の娘婿になった。そして、秀義は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子・源頼朝の元へ4人の息子・定綱、経高、盛綱、高綱を向かわせる。
元暦元年(1184年) 7月、平家の残党による三日平氏の乱(伊勢・伊賀平氏の挙兵、江州甲賀郡上野村)の鎮圧に赴き、90余人を討った後、流れ矢に当り討死した。享年73歳。死後、その功により近江権守を贈られる。(『源平盛衰記』) 法号は長命寺殿。
しかし、平治元年(1159年)の平治の乱では、義朝に与し、義朝の嫡子である源義平(鎌倉悪源太、源頼朝・義経らの異母兄)とともに戦うが、義朝方は敗れる。『東鏡』割注など種々の史書によると、秀義は、子の定綱、経高、盛綱(このとき、高綱は幼少だったため、京都に残して)を連れて媒母の夫である藤原秀衡(奥州の覇者)を頼って奥州へ落ち延びようとしたが、途中、秀義の武勇に惚れ込んでいた桓武平氏の一族で武蔵国から相模国に至る領地を有した渋谷重国に引き留められ、その庇護を受ける。この地で20年を過ごし、渋谷重国の娘を娶り五男の義清をもうける。子息たちも宇都宮朝綱・渋谷重国・大庭景親など豪族級東国武士の娘婿になった。そして、秀義は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子・源頼朝の元へ4人の息子・定綱、経高、盛綱、高綱を向かわせる。
元暦元年(1184年) 7月、平家の残党による三日平氏の乱(伊勢・伊賀平氏の挙兵、江州甲賀郡上野村)の鎮圧に赴き、90余人を討った後、流れ矢に当り討死した。享年73歳。死後、その功により近江権守を贈られる。(『源平盛衰記』) 法号は長命寺殿。
「源為義の塚」(「都名所圖會」4巻(秋里籬島)1780年)
住職よりご恵贈いただいた「水薬師 朱雀権現堂 為義塚」(「都名所圖會」4巻(秋里籬島)1780年)
<付記>
■ 将軍地蔵堂
権現寺の将軍地蔵堂には、将軍地蔵の他に、厨子王丸(厨子王、他に津子王、対王丸とも)の危難を助けたという身代わり地蔵が祀られている。すなわち、中世の説話「山椒大夫」の伝説上の主人公(安寿と厨子王)の厨子王が都の七条朱雀野にあった地蔵堂に逃げ込み、寺僧の計らいでつづらに隠れ、日々念持仏として崇敬していた地蔵尊が身代わりとなって危難を救ってくれたという身代わり地蔵が祀られており、この地蔵尊には「災難除け」のご利益があるとして信仰されている。この地蔵尊は、高さ7センチの金銅製の小像で、胴の辺りには厨子王の代わりに受けたという傷跡があり、厨子王を匿ったという「つづら」の断片も寺宝として保存されているという。