親族・花岡真節の墓所解体
親族・花岡真節(将軍侍医、東大医学部附属病院・初代病院長)の墓所解体
■ 花岡真節
将軍家奥医師(漢方医、蘭方医)、将軍侍医(家茂・慶喜他)。長崎医学校、江戸(西洋)医学所、東京医学校を設立。大学東校(東大医学部前身)教授。東京大学設立と共に東京帝国大学医学部教授(解剖学・外科学総論)。初代医学部長。医学部付属病院(東大病院)・初代病院長。
天保10年8月28日〜明治17年10月7日(1839-1884)。父:静岡県士族・花岡吉次郎:小笠原右近将監(豊前国小倉藩)藩士。17歳で江戸に出て、幕府奥医師(漢方系)将軍侍医・桐原鳳卿(信濃国筑摩郡里山辺村(長野県)出身)に師事。林洞海・大村益次郎・坪井信道と親交を持つ。22歳のとき桐原鳳卿の養子となる(明治15年、花岡姓に復した)。将軍家奥医師(漢方医、蘭方医)、将軍家侍医(家茂・慶喜他)。
佐倉順天堂の創始者・佐藤泰然の妹きせの娘・佐喜を妻とし、佐藤泰然の息子・佐藤順(松本良順)と共に幕府の内密命を受け、長崎に赴き長崎医学校を設立、ポンペ、シーボルトに最新の西洋医学の知識と技術の指導を受ける。江戸に帰還後、佐藤泰然の娘つるの婿・林洞海、松本良順(内科学)らと江戸(西洋)医学所、東京医学校(のちの東京大学医学部)を設立。江戸(西洋)医学所教授(解剖学)。
明治維新後、東大医学部が誕生する前の大学東校教授。東京大学設立と共に東京大学医学部本科教授(解剖学・外科学総論)。新完成の附属病院第1医院(東大病院)の院長。外国人教師ベルツ教授と共に東京神田弘医会を設立し、医学知識の普及に貢献。東京大学医学部付属病院(東大病院)の初代病院長となる。
天保10年8月28日〜明治17年10月7日(1839-1884)。父:静岡県士族・花岡吉次郎:小笠原右近将監(豊前国小倉藩)藩士。17歳で江戸に出て、幕府奥医師(漢方系)将軍侍医・桐原鳳卿(信濃国筑摩郡里山辺村(長野県)出身)に師事。林洞海・大村益次郎・坪井信道と親交を持つ。22歳のとき桐原鳳卿の養子となる(明治15年、花岡姓に復した)。将軍家奥医師(漢方医、蘭方医)、将軍家侍医(家茂・慶喜他)。
佐倉順天堂の創始者・佐藤泰然の妹きせの娘・佐喜を妻とし、佐藤泰然の息子・佐藤順(松本良順)と共に幕府の内密命を受け、長崎に赴き長崎医学校を設立、ポンペ、シーボルトに最新の西洋医学の知識と技術の指導を受ける。江戸に帰還後、佐藤泰然の娘つるの婿・林洞海、松本良順(内科学)らと江戸(西洋)医学所、東京医学校(のちの東京大学医学部)を設立。江戸(西洋)医学所教授(解剖学)。
明治維新後、東大医学部が誕生する前の大学東校教授。東京大学設立と共に東京大学医学部本科教授(解剖学・外科学総論)。新完成の附属病院第1医院(東大病院)の院長。外国人教師ベルツ教授と共に東京神田弘医会を設立し、医学知識の普及に貢献。東京大学医学部付属病院(東大病院)の初代病院長となる。
▼ 樹木伐採前(周囲に大木あり)
花岡真節墓所(谷中霊園乙10号9側)
東京大学医学部(江戸医学所、東京医学校)付属病院・初代病院長(外科学教授)
東京大学医学部(江戸医学所、東京医学校)付属病院・初代病院長(外科学教授)
同居墓(谷中霊園乙10号9側)
息子:花岡止郎(外交官、大使)、花岡敏夫(東大法学部教授、東京第2弁護士会創設者)ほか
息子:花岡止郎(外交官、大使)、花岡敏夫(東大法学部教授、東京第2弁護士会創設者)ほか
▼ 樹木伐採後 墓所解体
谷中霊園乙10号9側
▼ 墓所解体後、東京都の総合安置所の建設用地として提供
70坪ほどの墓所であるが、子孫それぞれが独自の墓所を持ち、維持管理が困難となったため、解体し、東京都の総合安置所の建設用地として提供。
総合安置所
安置者
花岡真節の記念碑は永久保存
▼ 花岡真節の記念碑は永久保存
谷中霊園入口の管理事務所前にある記念碑(甲1号1側)は、東京都所蔵の永久保存とした。
谷中霊園入口 甲1号1側 霊園管理事務所前
花岡真節の記念碑 (谷中霊園甲1号1側) 霊園管理事務所前
花岡真節
松本良順
佐藤泰然
花岡真節 別名(桐原玄海、桐原真節)。佐倉順天堂の創始者・佐藤泰然の妹きせの娘・佐喜を娶る。東大医学部付属病院・初代病院長。
幕府奥医師(漢方医、蘭方医)、将軍家侍医(家茂・慶喜他)。幕府の内密命を受け、松本良順と共に長崎に赴き長崎医学校を設立。ポンペ、シーボルトの弟子。江戸に帰還後、佐藤泰然の娘つるの婿・林洞海、松本良順と共に江戸(西洋)医学所、東京医学校(のちの東大医)を設立。江戸(西洋)医学所教授(解剖学)。
維新後、大学東校(のちの東大医)教授。東京大学設立と共に、東京帝国大学医学部教授(解剖学、外科学総論)。初代医学部長。新完成の医学部附属第一医院(東大病院)初代病院長。(患者に陸奥宗光)
幕府奥医師(漢方医、蘭方医)、将軍家侍医(家茂・慶喜他)。幕府の内密命を受け、松本良順と共に長崎に赴き長崎医学校を設立。ポンペ、シーボルトの弟子。江戸に帰還後、佐藤泰然の娘つるの婿・林洞海、松本良順と共に江戸(西洋)医学所、東京医学校(のちの東大医)を設立。江戸(西洋)医学所教授(解剖学)。
維新後、大学東校(のちの東大医)教授。東京大学設立と共に、東京帝国大学医学部教授(解剖学、外科学総論)。初代医学部長。新完成の医学部附属第一医院(東大病院)初代病院長。(患者に陸奥宗光)
松本良順 佐藤泰然の次男・順。別名(松本良順)。男爵・勅選貴族院議員。
幕府医官・松本良甫(泰然親友)の養子となる。幕府奥医師法眼(蘭方系)、将軍家侍医。将軍家茂の臨終を看取る。慶喜、篤姫の主治医。幕府の内密命を受け、花岡真節と共に長崎に赴き長崎医学校を設立。ボンベの弟子。江戸に帰還後、花岡真節、佐藤泰然の娘つるの婿・林洞海と共に江戸(西洋)医学所(のち東大医)を設立。江戸医学所頭取(緒方洪庵の後任)教授(内科学)。
維新後、初代帝国陸軍軍医総監。日本軍医制度確立。「養生法」刊行(日本初の西洋衛生学の紹介)
幕府医官・松本良甫(泰然親友)の養子となる。幕府奥医師法眼(蘭方系)、将軍家侍医。将軍家茂の臨終を看取る。慶喜、篤姫の主治医。幕府の内密命を受け、花岡真節と共に長崎に赴き長崎医学校を設立。ボンベの弟子。江戸に帰還後、花岡真節、佐藤泰然の娘つるの婿・林洞海と共に江戸(西洋)医学所(のち東大医)を設立。江戸医学所頭取(緒方洪庵の後任)教授(内科学)。
維新後、初代帝国陸軍軍医総監。日本軍医制度確立。「養生法」刊行(日本初の西洋衛生学の紹介)
佐藤泰然 「佐倉順天堂」の始祖。旗本伊奈家(荒川家庶流)に仕え、三十歳で志す。
佐倉藩医(蘭方系)。蘭学先進医療と人材育成。
佐倉藩医(蘭方系)。蘭学先進医療と人材育成。