京極高次の大津城より移築の彦根城
京極高次の大津城より移築の天守から成る彦根城(滋賀・彦根)を訪ねて
大阪府立公衆衛生研究所での4日間の出張実験の帰途、学生たちと彦根城(滋賀・彦根)を訪ねる。 1991年11月29日
▼ 彦根城
彦根城は、江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として築城された平山城(標高50m)である。
彦根城の建築物には、近江城主の京極高次が建てた大津城から移築した天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城などからの太鼓門、長浜城からの天秤櫓などの移築伝承が多くある。
天守、附櫓及び多聞櫓(1棟)は国宝、天秤櫓、太鼓門及び続櫓(1棟)、西の丸三重櫓及び続櫓(1棟)、二の丸佐和口多聞櫓、馬屋などは重要文化財に指定されている。
彦根城は、戦のための城で、壁の鉄砲穴も、外からは見えない様に作られており、敵が中に攻め入っても、階段をのぼってくる敵を、上から突き落せるように急な角度(62度)になっている。
湖と山の間の狭い平地に立地する彦根は、鎌倉、室町、戦国時代に至るまで京極家の領地であったが、中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、京に至る東国と西国の結節点でもあるため、古来より戦略拠点として注目され、この地で壬申の乱(672年(白鳳元年))、姉川の戦い(1570年(元亀元年))、賤ヶ岳の戦い(1583年(天正11年))、関ヶ原の戦い(1600年(慶長5年))など、多くの合戦が行われた。 織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えている。 また、豊臣秀吉と徳川家康はそれぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置している。
彦根城の建築物には、近江城主の京極高次が建てた大津城から移築した天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城などからの太鼓門、長浜城からの天秤櫓などの移築伝承が多くある。
天守、附櫓及び多聞櫓(1棟)は国宝、天秤櫓、太鼓門及び続櫓(1棟)、西の丸三重櫓及び続櫓(1棟)、二の丸佐和口多聞櫓、馬屋などは重要文化財に指定されている。
彦根城は、戦のための城で、壁の鉄砲穴も、外からは見えない様に作られており、敵が中に攻め入っても、階段をのぼってくる敵を、上から突き落せるように急な角度(62度)になっている。
湖と山の間の狭い平地に立地する彦根は、鎌倉、室町、戦国時代に至るまで京極家の領地であったが、中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、京に至る東国と西国の結節点でもあるため、古来より戦略拠点として注目され、この地で壬申の乱(672年(白鳳元年))、姉川の戦い(1570年(元亀元年))、賤ヶ岳の戦い(1583年(天正11年))、関ヶ原の戦い(1600年(慶長5年))など、多くの合戦が行われた。 織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えている。 また、豊臣秀吉と徳川家康はそれぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置している。
近江城主の京極高次が建てた大津城から移築した天守・東側(国宝)
石垣:自然石の牛蒡積(ごぼうずみ)
太鼓門&続櫓(重文)
天秤櫓(重文)&廊下橋
天秤櫓(重文)&廊下橋
天守:石垣は自然石を牛蒡積(ごぼうずみ)と呼ばれる技法で積み、重心が内下に向くように作られ、外見は粗雑だが強固な造りとなっている。その上に三重の天守が立っており、規模は小さいが、屋根の曲線の調和が美しく荘厳な雰囲気を持っている。どの方角から見ても千鳥破風、唐破風、切妻破風、入母屋破風が幾層にも重なり合い天守に向かっている。禅宗寺院に特有の花頭窓が2重,3重の窓となっているのも特徴の一つ。国宝。
天秤櫓:廊下橋を中心に左右対称に櫓が並びたっている。重要文化財。
太鼓門櫓(たいこもんやぐら):本丸表口を固める楼門である。重要文化財。
天秤櫓:廊下橋を中心に左右対称に櫓が並びたっている。重要文化財。
太鼓門櫓(たいこもんやぐら):本丸表口を固める楼門である。重要文化財。