佐々木京極家累代の墓石がある清瀧寺京極家墓所・徳源院
佐々木京極家累代の墓石が集められている清瀧寺京極家墓所・徳源院(米原)
The tomb place of the Sasaki Kyogoku family, which is located at Tokugen-in, in Kiyotaki-ji Temple (the Kyogoku clan's family temple), where tombstones of Sasaki Kyogoku family generations are brought together in one place.
講演出張の帰途、京都駅より東海道線で近江長岡駅まで行き、タクシーを借り切って、京極家2代目満信の墓所&菩提寺:東福寺&西福寺&城遺跡(近江長岡)や、佐々木京極家累代の墓所:清瀧寺京極家墓所(滋賀・米原)を訪ねる。 2014年11月14日
近江長岡駅
中山道・柏原宿
▼ 清龍寺京極家墓所(国指定史跡:滋賀・米原)
清瀧寺京極家墓所は滋賀県米原市清滝にあり、寺地は京極家の祖・氏信の柏原館があった場所で、1286年(弘安9)に氏信が建立した京極家の菩提寺である。歴史的には、永禄11年(1568年)織田信長が第15代将軍足利義昭を奉じて近江を侵攻した際には京極高吉が当寺に隠棲し、高吉の子・高次が豊臣秀吉に属し大津城城主となったときは、当寺に種々の保護を加え、慶長4年(1599)に徳源院山林の安堵を石田正継に託している。
墓域には一族の墓が集められ、上段には歴代当主の宝篋印塔が18基、下段にはそれ以降の当主や分家などの宝篋印塔11基と、宝篋印塔を安置した淀の妹・江の姉・初を娶った高次の石廟や当寺を再建した高豊ほか3人の木廟などが並ぶ。境内には本堂や位牌殿、三重塔などがあり、朱塗りの三重塔は1672年(寛文12)に讃岐丸亀藩主の京極高豊が建立した。すなわち、寛文12年、京極高豊は清滝の地が祖先墳墓の地であることから、他の領地との交換を上申し許可され、清滝村と大野木村の一部を領し、以後寺観の整備に努めた。父高和(徳源院殿徳英道達)を清瀧寺に祀り、処方に散在していた祖先の墓碑をこの地に集め、修理し、不足を補うなどして配置、同時に参道両側の十二坊も復興し、境内には三重の塔を建立し、庭園の復興も行い、現在の京極家墓所の形に作り直した。以来この寺は徳源院と呼ばれるようになる。1932年(昭和7)に国の史跡に指定され、2002年(平成14)に追加指定を受けた。
なお、京極家の菩提寺として、徳源院清瀧寺の近隣には近江長岡の東福寺(京極満信の菩提寺)のほか、西念寺(京極宗綱の菩提寺)、能仁寺(京極高詮の菩提寺),勝願寺(京極高光の菩提寺)等、歴代の菩提寺伝承地があり、清滝一帯が京極家当主の墓地であったことが窺える。
墓域には一族の墓が集められ、上段には歴代当主の宝篋印塔が18基、下段にはそれ以降の当主や分家などの宝篋印塔11基と、宝篋印塔を安置した淀の妹・江の姉・初を娶った高次の石廟や当寺を再建した高豊ほか3人の木廟などが並ぶ。境内には本堂や位牌殿、三重塔などがあり、朱塗りの三重塔は1672年(寛文12)に讃岐丸亀藩主の京極高豊が建立した。すなわち、寛文12年、京極高豊は清滝の地が祖先墳墓の地であることから、他の領地との交換を上申し許可され、清滝村と大野木村の一部を領し、以後寺観の整備に努めた。父高和(徳源院殿徳英道達)を清瀧寺に祀り、処方に散在していた祖先の墓碑をこの地に集め、修理し、不足を補うなどして配置、同時に参道両側の十二坊も復興し、境内には三重の塔を建立し、庭園の復興も行い、現在の京極家墓所の形に作り直した。以来この寺は徳源院と呼ばれるようになる。1932年(昭和7)に国の史跡に指定され、2002年(平成14)に追加指定を受けた。
なお、京極家の菩提寺として、徳源院清瀧寺の近隣には近江長岡の東福寺(京極満信の菩提寺)のほか、西念寺(京極宗綱の菩提寺)、能仁寺(京極高詮の菩提寺),勝願寺(京極高光の菩提寺)等、歴代の菩提寺伝承地があり、清滝一帯が京極家当主の墓地であったことが窺える。
わが家系では、佐々木京極家の第2代目は初代・氏信(左衛門尉・対馬守・近江守・清瀧寺殿)の三男・満信であるが、満信の供養塔(宝篋印塔)がここにはなかった。氏信の長男・頼氏は豊後守を、次男・範綱は左衛門尉に任じたが早世、三男・満信は左衛門尉・佐渡守を、四男・宗綱は左衛門尉・能登守をそれぞれ任じたが、京極三郎左衛門尉・佐渡守の官職名で京極家を継いだ三男の満信は34歳で早世した。そのため、京極宗家はいったん四男の宗綱が継いだとする説もあるが、結局は満信の嫡男・宗氏(佐渡守・賢親)が父の官職・京極三郎左衛門尉・佐渡守を継ぎ、叔父・宗綱の娘を娶る(この時代、京極家は佐々木庶流どうしで姻戚関係を築き、結束を固めている)。ちなみに、満信の次男・宗満は近江伊香郡黒田邑を本拠にして別家・佐々木黒田家を立てる(子孫の7代目が黒田官兵衛とされるが、家紋が違い定かではない)。宗氏の嫡男・貞氏(近江守・善観)は近江蒲生郡鏡庄を本拠にして左衛門尉・近江守を任じ別家・佐々木鏡家を立て独立する。そのため、次男・高氏(佐渡判官・道誉)が祖父・父と同じ京極四郎左衛門尉・佐渡守の官職名(京極家嫡流の世襲官途名)で京極宗家を継ぐことになる。この墓所には、わが家系における佐々木京極家の初代・氏信より第3代・宗氏、第4代・高氏、第5代・高秀、第6代・高栓、第7代・高数までの宝篋印塔が存在する。
清瀧寺京極家墓所 入り口
清瀧寺京極家墓所 参道
清瀧寺京極家墓所 入り口
清瀧寺本堂前
清瀧寺本堂
道誉の桜 (4代目・京極高氏・佐々木道誉)
エゾヒガンザクラの一種で糸ざくらともいう。二代目の桜で、樹齢約300年、樹高約20m、胸高周り2.3m。この桜の木は道誉が植えたということから「道誉桜」と呼ばれている。昭和52年には3代目を植えている(市指定天然記念物)。
1672年(寛文12)、讃岐丸亀藩主・京極高豊が建立した朱塗りの三重塔
墓所入り口:本堂裏
左より 高数(7代目)、経氏、持高、宗氏(3代目)、宗綱、高吉、高弥、高広、高清 ・・・
右より 氏信(初代)、貞宗、頼氏、高氏(4代目)、高秀(5代目)、高詮(6代目)、高光、持清、政光 ・・・
清瀧寺京極家墓所上段:先祖・佐々木京極家累代の墓石:供養塔(宝篋印塔)
佐々木京極家初代
氏信
氏信
佐々木京極家第3代
宗氏
宗氏
佐々木京極家第4代
高氏(道誉)
高氏(道誉)
佐々木京極家第5代
高秀
高秀
佐々木京極家第6代
高栓
高栓
佐々木京極家第7代
高数
高数
墓所上段からの眺め
墓所下段:廟なし宝篋印塔
左より奥:具行卿、高美、高招、高政
左より奥:具行卿、高美、高招、高政
墓所下段:宝篋印塔を安置する石製&木製の霊廟
左より高次、高矩、高中、忠高・・・
左より高次、高矩、高中、忠高・・・
墓所下段:宝篋印塔を安置する木製&石製の霊廟
右より高或、高豊、高知、忠高・・・
右より高或、高豊、高知、忠高・・・
墓所下段:廟なし宝篋印塔
左より高琢、高賢、高文、高慶、高通
左より高琢、高賢、高文、高慶、高通
墓所下段:廟なし宝篋印塔
右より高通、高慶、高文、高賢、高琢
右より高通、高慶、高文、高賢、高琢
▼ 2代目満信の墓石が集められなかった謎
清瀧寺京極家墓所や某歴史解説では、初代・氏信のあと京極宗家は2代目・宗綱、3代目・貞宗、4代目・宗氏、5代目・高氏となっている。すなわち、氏信の三男・満信には嫡男・宗氏や孫・高氏がいるにもかかわらず、満信が34歳で没したということで、また四男・宗綱の母が将軍家女房右衛門督(公家・阿野実遠娘、源頼朝弟のひ孫)であったことが後押しとなったものか、京極宗家の2代目の家督は四男・宗綱の方へ移したことになっている。しかし、宗綱の長男・祐信(四郎左衛門尉)は不孝、次男・時綱(二郎左衛門尉)は早世、三男・貞宗(三郎左衛門尉)を3代目の家督と定めたが、嘉元の乱で19歳にて早世したため、結局、嫡流の満信の子・宗氏、そして満信の孫・高氏を養子として迎え、4代目、5代目を継がせたとしている。すなわち、見方を替えると、いったん宗家を宗綱家系に引っぱり込んだが(あるいは、いったん宗家家系に宗綱家系を割り込ませたが)、結局は嫡流の満信の嫡男・宗氏、そして満信の孫・高氏に宗家を継がせる結果となってしまったとする解釈もできる。
しかも、宗綱の嫡男・貞宗(三郎左衛門尉)は19歳で早世しているにもかかわらず、3代目の家督と定めているのに反して、宗綱の兄・満信は34歳で没したということで、2代目として扱わず、かつ貞宗よりも年長の満信の嫡子・宗氏を4代目、満信の孫・高氏を5代目と後続の宗家にしている。ここに、どうしても宗綱家系を宗家にしたかった形跡が窺える。
以上の事由が、満信の子や孫が父の左衛門尉・佐渡守の官職名(京極家嫡流の世襲官途名)で京極宗家を継いでいるにもかかわらず、満信の墓石(宝篋印塔)が清瀧寺京極家墓所に集められておらず、満信が京極宗家の第2代目として扱われていない事由ではないだろうか。すなわち、満信の墓石がこの墓所に無いのは、家督を継ぐ前に(親・氏信よりも早く)34歳で早世したためというよりは、四男・宗綱の母が将軍家女房右衛門督(公家・阿野実遠娘、源頼朝弟のひ孫)であったことが権力迎合の見栄およびひいき感情や圧力として家督あるいは歴史記述に関係したためか、あるいはそれらにおいて江戸時代に歴代当主の墓石(宝篋印塔)を集め清瀧寺京極家墓所を再構築した丸亀藩主高豊らの偏見があったためではないだろうか。(事実、このような歴史の書き換えは、佐佐貴神社の神紋が宇多源氏、佐々木源氏の宗家本来の家紋「隅四ツ目結」から「七つ割平四ツ目結」に替えられていることからも推察できる。)
望むところは、満信から5代あとの高数が病弱だった兄・高光の死後、嫡男の持高が幼かったため後見となって宗家を守ったように、宗綱も兄・満信が34歳で早世したため若い嫡男の宗氏ならびにその子(孫)の高氏の後見となって宗家を守ったと解釈したいものである。
また、もう1つ考えられることは、清瀧寺京極家墓所には、血のつながりを主に墓石を集めたのではなく、単に宗家になったとされる家の墓石を順番に集めただけのことなのかもしれない。(一部、そうでないものも存在するが・・・)
しかも、宗綱の嫡男・貞宗(三郎左衛門尉)は19歳で早世しているにもかかわらず、3代目の家督と定めているのに反して、宗綱の兄・満信は34歳で没したということで、2代目として扱わず、かつ貞宗よりも年長の満信の嫡子・宗氏を4代目、満信の孫・高氏を5代目と後続の宗家にしている。ここに、どうしても宗綱家系を宗家にしたかった形跡が窺える。
以上の事由が、満信の子や孫が父の左衛門尉・佐渡守の官職名(京極家嫡流の世襲官途名)で京極宗家を継いでいるにもかかわらず、満信の墓石(宝篋印塔)が清瀧寺京極家墓所に集められておらず、満信が京極宗家の第2代目として扱われていない事由ではないだろうか。すなわち、満信の墓石がこの墓所に無いのは、家督を継ぐ前に(親・氏信よりも早く)34歳で早世したためというよりは、四男・宗綱の母が将軍家女房右衛門督(公家・阿野実遠娘、源頼朝弟のひ孫)であったことが権力迎合の見栄およびひいき感情や圧力として家督あるいは歴史記述に関係したためか、あるいはそれらにおいて江戸時代に歴代当主の墓石(宝篋印塔)を集め清瀧寺京極家墓所を再構築した丸亀藩主高豊らの偏見があったためではないだろうか。(事実、このような歴史の書き換えは、佐佐貴神社の神紋が宇多源氏、佐々木源氏の宗家本来の家紋「隅四ツ目結」から「七つ割平四ツ目結」に替えられていることからも推察できる。)
望むところは、満信から5代あとの高数が病弱だった兄・高光の死後、嫡男の持高が幼かったため後見となって宗家を守ったように、宗綱も兄・満信が34歳で早世したため若い嫡男の宗氏ならびにその子(孫)の高氏の後見となって宗家を守ったと解釈したいものである。
また、もう1つ考えられることは、清瀧寺京極家墓所には、血のつながりを主に墓石を集めたのではなく、単に宗家になったとされる家の墓石を順番に集めただけのことなのかもしれない。(一部、そうでないものも存在するが・・・)
▼ 徳源院清瀧寺本堂
清瀧寺本堂内・位牌堂 本堂本尊:木造聖観世音菩薩
藤原直義筆画
大名御駕籠
京極高次肖像画
高次の正室・初(徳川第2代将軍・秀忠の正室・
江の姉、太閤・豊臣秀吉の側室・淀の妹)肖像画
江の姉、太閤・豊臣秀吉の側室・淀の妹)肖像画
清瀧寺庭園
本堂に座して、ご住職夫妻と面談いただきながら眺める山裾を利用した室町時代の紅葉なる庭園はまた格別の絶景である。