「京極家」の名称の由来
京極氏の名字発祥の地:京極高辻(京都)を訪ねて
学会&講演出張の帰途、出発前の時間を利用して、京都在住の高校同窓・木山克明君のドライブ兼案内で、先祖・京極氏の名字発祥の地:京極高辻(京都)を訪ねる。 2015年2月8日
■ 先祖・近江源氏・佐々木氏信を祖とする京極氏の足跡
わが家系における京極家の本姓は宇多源氏。京極家の源流は佐々木氏であり、近江国を発祥の地とする宇多源氏である。宇多天皇の皇子・敦実親王の三男・雅信王が臣籍降下して源朝臣の姓を賜い源雅信と称した。源雅信の孫すなわち宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した子、孫の章経、経方が佐々木氏を名乗ったことから始まる。近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて繁栄し、各地に支族を広げた。
経方の4人の息子、季定、秀義、秀定、行定の中で、行定は近江国佐々木神社の神主(以後、子孫は真野と称す)となり、秀義は13才の時、源為義の養子となり、保元平治の乱では源義朝と共に戦い、武勇の軍功あり。
佐々木秀義の4人の息子、定綱、経高、盛綱、高綱は源義朝の嫡子源頼朝の家人として平家打倒に活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領である近江をはじめ17か国の守護を任じられる。
承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使、山城守を任じていた上皇方の定綱の嫡子広綱は、鎌倉に在り執権北条義時の婿となっていた幕府方の信綱と兄弟どうしで争うことになったが、幕府方の勝利で敗れた上皇方の広綱は信綱に斬首され、信綱が近江の総領となる。ちなみに、秀義の五男義清は出雲、隠岐の両国守護を賜い、下向し土着したため、出雲源氏という。
近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後、近江は4人の息子、重綱、高信、泰綱、氏信に分けて継がれ、四男の氏信は江北(北近江)の高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡と京都の京極高辻の館を与えられて京極氏を名乗り(京極氏の祖となる)、三男の泰綱は近江守護職に任じ、江南(南近江)六郡と京都六角の館を与えられて六角氏を名乗り(佐々木宗家、六角氏の祖となる)、長男の重綱は坂田郡大原庄を与えられて大原氏(大原氏の祖)を名乗り、次男の高綱は高島郡田中郷を与えられて高島氏(高島氏の祖)を名乗った。兄弟四人のうちで、三男の泰綱と四男の氏信が厚遇された背景には、二人の母が執権北条泰時の妹であったことと、 近江国に強大な勢力を持つ有力御家人佐々木氏を牽制しようという幕府(北条執権)の狙いがあったと言われている。
鎌倉政権において、六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し、六波羅評定衆などを務める。一方、京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をし、嫡流に勝る有力な家となり、その後の室町幕府においても足利政権における有力者となる。
始祖の京極氏信は江北6郡の地頭のほか、鎌倉幕府の評定衆を務めたが、鎌倉時代末期に当主となった京極高氏(佐々木導誉)は、朝廷では検非違使、鎌倉幕府では御相伴衆を務め、さらに室町幕府の開祖における功績を評されて、引付頭人、評定衆、政所執事、および近江、飛騨、出雲、若狭、上総、摂津の6か国の守護を務めた。(京極高氏が鎌倉幕府の執権北条高時から偏諱を賜って以降、京極の歴代当主および一族は代々名前に「高」を用いる)。その後、室町時代から南北朝時代にかけて、京極氏は四職(侍所所司になれる家)の一つとなり、以後の当主は代々江北、出雲、隠岐、飛騨の守護、ならびに侍所所司を務め、繁栄した。
京極家の当主は、室町幕府設立の立役者である高氏の後、高詮、高光、持高、高数と続き、それぞれ侍所所司として室町時代に頻発した乱の鎮圧にあたるが、先の将軍足利義持および将軍足利義教に信厚く寵遇された高数は、赤松満祐による足利義教の暗殺現場に遭遇し、細川ほか諸大名が逃げ出す中、孤軍奮闘し闘死した(嘉吉の乱)。この事件の後、応仁元年の足利将軍家の家督相続から生じた「応仁の乱」がそのまま京極家中を巻き込み、近江国における京極家の家督相続の争い(京極騒乱)へと発展し、当主擁立を利用してのし上がろうと、それぞれの思惑をもつ周辺の守護代や国人(地侍)が2派に分かれて35年間争いを続けた。
かくして、この家督相続争いを巡るお家騒動の間に、近江を除く領国(出雲、隠岐、飛騨)を守護代や国人(地侍)に横領されてしまい、北近江のみが残った。(逆に、六角氏は幕府による征討を乗り越え、何とか南近江の支配者の地位を確保した。) しかし、このお家騒動に加担、便乗して一介の小国人(地侍)にすぎなかった近江国小谷の浅井氏が一過性ではあるが台頭し、京極氏の北近江における勢力は衰退し、以後は荒廃する京都、近江を離れ、他の領国に拠点を移した。
戦国時代になると、江北を追われた京極当主の高吉の子:京極高次・高知兄弟が織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えて家を再興し、外様大名として若狭国主、丹後国主となった。各家とも分封、転封、改易はあったが、ともに明治維新を迎え、華族(子爵)に列せられた。
すなわち、京極当主の高吉の長男:高次ははじめ織田信長、次に明智光秀に仕えるが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の追求を受ける。しかし、姉の竜子が秀吉の側室となったことで、近江高島郡から近江大溝城、近江大津城を、関ケ原の戦いの功により徳川家康からは若狭一国を与えられ、若狭後瀬山城へと加増を重ね、9万2千石の小浜藩主となった。次男の高知ははじめ秀吉に仕え、秀吉死後は家康に従い、関ケ原の戦いの功により丹後一国を与えられ、丹後宮津城12万3千石の宮津藩主となった。
ちなみに、戦国時代後期〜安土桃山時代から江戸時代初頭にかけての京極と為政者との関係はと言うと、第2代将軍徳川秀忠の正室・崇源院(お江)の一番年上の姉:淀君(茶々)は豊臣秀吉の側室であり、二番目の姉:初は京極高次の正室である。そして彼ら3姉妹の父は浅井長政、母は織田信長の妹:お市の方であり、浅井長政の姉:於慶は京極高吉の後室(京極マリア)であり、京極高次、京極高知、竜子の母である。また、当代随一の美人と謳われた高次の姉:竜子ははじめ武田元明の正室であったが、のち豊臣秀吉に恋慕され側室となる。そして、将軍徳川秀忠とお江との娘(四女:初姫)は京極高次と初の長男:松江藩主:忠高の正室である。
しかも、お江の娘:和子は後水尾天皇に嫁ぎ、和子の娘は後に明正天皇となり、お江はミカドの祖母となる。そして、昭和天皇の母親の貞明皇后は、2度目の結婚である羽柴(豊臣)秀勝とお江との子:完子の末裔:九条節子である。したがって、現在の皇室は、貞明皇后を通して織田氏、浅井氏、豊臣氏、徳川氏の血を受け継いでいることになる。すなわち、お江は第3代将軍・徳川家光の母、第109代明正天皇の外祖母、第124代昭和天皇以降の皇室の先祖でもある。
経方の4人の息子、季定、秀義、秀定、行定の中で、行定は近江国佐々木神社の神主(以後、子孫は真野と称す)となり、秀義は13才の時、源為義の養子となり、保元平治の乱では源義朝と共に戦い、武勇の軍功あり。
佐々木秀義の4人の息子、定綱、経高、盛綱、高綱は源義朝の嫡子源頼朝の家人として平家打倒に活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領である近江をはじめ17か国の守護を任じられる。
承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使、山城守を任じていた上皇方の定綱の嫡子広綱は、鎌倉に在り執権北条義時の婿となっていた幕府方の信綱と兄弟どうしで争うことになったが、幕府方の勝利で敗れた上皇方の広綱は信綱に斬首され、信綱が近江の総領となる。ちなみに、秀義の五男義清は出雲、隠岐の両国守護を賜い、下向し土着したため、出雲源氏という。
近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後、近江は4人の息子、重綱、高信、泰綱、氏信に分けて継がれ、四男の氏信は江北(北近江)の高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡と京都の京極高辻の館を与えられて京極氏を名乗り(京極氏の祖となる)、三男の泰綱は近江守護職に任じ、江南(南近江)六郡と京都六角の館を与えられて六角氏を名乗り(佐々木宗家、六角氏の祖となる)、長男の重綱は坂田郡大原庄を与えられて大原氏(大原氏の祖)を名乗り、次男の高綱は高島郡田中郷を与えられて高島氏(高島氏の祖)を名乗った。兄弟四人のうちで、三男の泰綱と四男の氏信が厚遇された背景には、二人の母が執権北条泰時の妹であったことと、 近江国に強大な勢力を持つ有力御家人佐々木氏を牽制しようという幕府(北条執権)の狙いがあったと言われている。
鎌倉政権において、六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し、六波羅評定衆などを務める。一方、京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をし、嫡流に勝る有力な家となり、その後の室町幕府においても足利政権における有力者となる。
始祖の京極氏信は江北6郡の地頭のほか、鎌倉幕府の評定衆を務めたが、鎌倉時代末期に当主となった京極高氏(佐々木導誉)は、朝廷では検非違使、鎌倉幕府では御相伴衆を務め、さらに室町幕府の開祖における功績を評されて、引付頭人、評定衆、政所執事、および近江、飛騨、出雲、若狭、上総、摂津の6か国の守護を務めた。(京極高氏が鎌倉幕府の執権北条高時から偏諱を賜って以降、京極の歴代当主および一族は代々名前に「高」を用いる)。その後、室町時代から南北朝時代にかけて、京極氏は四職(侍所所司になれる家)の一つとなり、以後の当主は代々江北、出雲、隠岐、飛騨の守護、ならびに侍所所司を務め、繁栄した。
京極家の当主は、室町幕府設立の立役者である高氏の後、高詮、高光、持高、高数と続き、それぞれ侍所所司として室町時代に頻発した乱の鎮圧にあたるが、先の将軍足利義持および将軍足利義教に信厚く寵遇された高数は、赤松満祐による足利義教の暗殺現場に遭遇し、細川ほか諸大名が逃げ出す中、孤軍奮闘し闘死した(嘉吉の乱)。この事件の後、応仁元年の足利将軍家の家督相続から生じた「応仁の乱」がそのまま京極家中を巻き込み、近江国における京極家の家督相続の争い(京極騒乱)へと発展し、当主擁立を利用してのし上がろうと、それぞれの思惑をもつ周辺の守護代や国人(地侍)が2派に分かれて35年間争いを続けた。
かくして、この家督相続争いを巡るお家騒動の間に、近江を除く領国(出雲、隠岐、飛騨)を守護代や国人(地侍)に横領されてしまい、北近江のみが残った。(逆に、六角氏は幕府による征討を乗り越え、何とか南近江の支配者の地位を確保した。) しかし、このお家騒動に加担、便乗して一介の小国人(地侍)にすぎなかった近江国小谷の浅井氏が一過性ではあるが台頭し、京極氏の北近江における勢力は衰退し、以後は荒廃する京都、近江を離れ、他の領国に拠点を移した。
戦国時代になると、江北を追われた京極当主の高吉の子:京極高次・高知兄弟が織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えて家を再興し、外様大名として若狭国主、丹後国主となった。各家とも分封、転封、改易はあったが、ともに明治維新を迎え、華族(子爵)に列せられた。
すなわち、京極当主の高吉の長男:高次ははじめ織田信長、次に明智光秀に仕えるが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の追求を受ける。しかし、姉の竜子が秀吉の側室となったことで、近江高島郡から近江大溝城、近江大津城を、関ケ原の戦いの功により徳川家康からは若狭一国を与えられ、若狭後瀬山城へと加増を重ね、9万2千石の小浜藩主となった。次男の高知ははじめ秀吉に仕え、秀吉死後は家康に従い、関ケ原の戦いの功により丹後一国を与えられ、丹後宮津城12万3千石の宮津藩主となった。
ちなみに、戦国時代後期〜安土桃山時代から江戸時代初頭にかけての京極と為政者との関係はと言うと、第2代将軍徳川秀忠の正室・崇源院(お江)の一番年上の姉:淀君(茶々)は豊臣秀吉の側室であり、二番目の姉:初は京極高次の正室である。そして彼ら3姉妹の父は浅井長政、母は織田信長の妹:お市の方であり、浅井長政の姉:於慶は京極高吉の後室(京極マリア)であり、京極高次、京極高知、竜子の母である。また、当代随一の美人と謳われた高次の姉:竜子ははじめ武田元明の正室であったが、のち豊臣秀吉に恋慕され側室となる。そして、将軍徳川秀忠とお江との娘(四女:初姫)は京極高次と初の長男:松江藩主:忠高の正室である。
しかも、お江の娘:和子は後水尾天皇に嫁ぎ、和子の娘は後に明正天皇となり、お江はミカドの祖母となる。そして、昭和天皇の母親の貞明皇后は、2度目の結婚である羽柴(豊臣)秀勝とお江との子:完子の末裔:九条節子である。したがって、現在の皇室は、貞明皇后を通して織田氏、浅井氏、豊臣氏、徳川氏の血を受け継いでいることになる。すなわち、お江は第3代将軍・徳川家光の母、第109代明正天皇の外祖母、第124代昭和天皇以降の皇室の先祖でもある。
■ 京極家の邸宅のあった場所:京極高辻
▼ 京極家の邸宅が都(京都)京極高辻にあったことから、佐々木京極家と呼ばれた。
京極高辻:京極家の邸宅のあった場所。東京極大路(寺町通)と高辻通の交点辺りで、現在の京都市下京区茶磨屋町(高辻通御幸町東入る、高辻通寺町西入る)附近とされる。
寺町通(てらまちどおり)は京都市の南北の通りの一つ。北は紫明通から南は五条通まで。途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており、真っ直ぐではないのが特徴。三条以北は平安京の東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)にあたる。
都の東端の大路であったが、右京の衰退や相次ぐ戦乱等によって京都御所が移転してきたため、現在は京都御苑の東を限る通りとなっている。豊臣秀吉による京都改造によって天正18年、通りの東側に寺院が集められたことからこの名前になった。本能寺もこの時、現在の中京区元本能寺南町からこの通りに移された。寺町三条にある通りのずれは、ここに大寺である誓願寺が現在の上京区元誓願寺町から移されたため生じた。
寺を集めた目的は、税の徴収の効率化と京都の防衛であり、東の御土居に沿うように寺を配置することで東から進入する軍勢の戦意の低下をねらったと言われる。急遽移転させられた寺院の負担は大変であり、しかも鴨川に近く、狭隘な敷地が多かったためしばしば水害や火災に見舞われたという。
かつては南北方向の主要な通りの一つであり、今出川通から二条通にかけては京都電気鉄道寺町線(のちに買収され京都市電)の路面電車が走っていた。1920年代に河原町通が拡幅されると、市電のルートもそちらに移るなどメインストリートの座を譲った。市電の廃線後、しばらくは代わって市バスが通っていたが、それも廃止され、現在は騒音に悩まされることない静かな通りとなっている。
丸太町通から二条通までは、古美術店や画廊、古書店などが並ぶ寺町会の商店街である。御池通から四条通に至る区間は、アーケードの商店街となっており、日中は車両進入禁止である。御池通から三条通までは、寺町専門店街であり、新京極通と平行する三条通から四条通までは、寺町京極商店街である。また、四条通から高辻通にかけては、東京や大阪と比べると小規模ながら電気街になっており、京都の秋葉原や日本橋といってもよい通りであったが、近年は郊外型や大阪梅田・京都駅近辺の大型家電量販店の台頭で、秋葉原、日本橋や大須同様に、往時と比べて電気店の数が減少し、新しい都心型のマンションなどが建設されている。御池通から四条通までが路上喫煙等禁止区域である。
高辻通(たかつじどおり)は、京都府京都市の東西の通りの一つ。平安京の高辻小路にあたる。東は鴨川右岸堤防から西は「高辻梅津街道」交差点まで。佛光寺の南に面するため、近世までこちらを仏光寺通と呼び、現在の仏光寺通を五条坊門通と呼ぶこともあった。
現在、四条通 - 五条通間で唯一の2車線道路として交通量が多い。北緯35度線が、高辻通南側を並行して通っている。
寺町通(てらまちどおり)は京都市の南北の通りの一つ。北は紫明通から南は五条通まで。途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており、真っ直ぐではないのが特徴。三条以北は平安京の東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)にあたる。
都の東端の大路であったが、右京の衰退や相次ぐ戦乱等によって京都御所が移転してきたため、現在は京都御苑の東を限る通りとなっている。豊臣秀吉による京都改造によって天正18年、通りの東側に寺院が集められたことからこの名前になった。本能寺もこの時、現在の中京区元本能寺南町からこの通りに移された。寺町三条にある通りのずれは、ここに大寺である誓願寺が現在の上京区元誓願寺町から移されたため生じた。
寺を集めた目的は、税の徴収の効率化と京都の防衛であり、東の御土居に沿うように寺を配置することで東から進入する軍勢の戦意の低下をねらったと言われる。急遽移転させられた寺院の負担は大変であり、しかも鴨川に近く、狭隘な敷地が多かったためしばしば水害や火災に見舞われたという。
かつては南北方向の主要な通りの一つであり、今出川通から二条通にかけては京都電気鉄道寺町線(のちに買収され京都市電)の路面電車が走っていた。1920年代に河原町通が拡幅されると、市電のルートもそちらに移るなどメインストリートの座を譲った。市電の廃線後、しばらくは代わって市バスが通っていたが、それも廃止され、現在は騒音に悩まされることない静かな通りとなっている。
丸太町通から二条通までは、古美術店や画廊、古書店などが並ぶ寺町会の商店街である。御池通から四条通に至る区間は、アーケードの商店街となっており、日中は車両進入禁止である。御池通から三条通までは、寺町専門店街であり、新京極通と平行する三条通から四条通までは、寺町京極商店街である。また、四条通から高辻通にかけては、東京や大阪と比べると小規模ながら電気街になっており、京都の秋葉原や日本橋といってもよい通りであったが、近年は郊外型や大阪梅田・京都駅近辺の大型家電量販店の台頭で、秋葉原、日本橋や大須同様に、往時と比べて電気店の数が減少し、新しい都心型のマンションなどが建設されている。御池通から四条通までが路上喫煙等禁止区域である。
高辻通(たかつじどおり)は、京都府京都市の東西の通りの一つ。平安京の高辻小路にあたる。東は鴨川右岸堤防から西は「高辻梅津街道」交差点まで。佛光寺の南に面するため、近世までこちらを仏光寺通と呼び、現在の仏光寺通を五条坊門通と呼ぶこともあった。
現在、四条通 - 五条通間で唯一の2車線道路として交通量が多い。北緯35度線が、高辻通南側を並行して通っている。
高辻通りと寺町通りの交差点
交差点:高辻通り西入る方向
交差点&寺町通り上る方向
寺町通り上る方向/左側:京極町
交差点&寺町通り上る方向
交差点&寺町通り下る方向
京極町 寺町通り高辻下る
高辻通り西入る方向
高辻通り東入る方向
▼ 地名:京極の由来
平安時代における京極(きょうごく)は、平安京における東西の果てとして、東京極大路を東の果て(現在の寺町通)、西京極大路を西の果て(現存しない。JR嵯峨野線花園駅と阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線)と呼ばれた。以後、これが転じて以下の語源となった。
東京極大路の略称:寺町通
1)京極高辻:東京極大路と高辻通の交点、京極氏の邸宅のあった場所であり、現在の京都市下京区茶磨屋町附近とされる。
2)六条京極:六条通と東京極大路の交点、六条院のあった場所であり、現在の京都市下京区本塩竈町附近とされる。
新京極通の略称:新京極通
1)新京極通:京都市の南北の通り、京都市最大の繁華街。新京極、京極とも略す。これに由来して京都市内に下記の商店街が命名された。
▶ 寺町京極:寺町通
▶ 西陣京極:千本通の中立売通―今出川通の間。
▶ 堀川京極:西堀川通の丸太町通―中立売通の間。
▶ 松原京極:松原通の新町通―大宮通の間。
▶ 山科京極:醍醐街道の旧三条通―三条通の間。
▶ 田中京極:東大路通の田中南大久保町―田中飛鳥井町の間、元田中駅南・北に存する。
▶ 嶋原京極:花屋町通の大宮通―島原大門前の間。
▶ 西京極駅:同市右京区西京極西池田町にある阪急京都線の駅
▶ 京極村:京都府葛野郡にかつて存在した村、現在の京都市右京区西京極各町。
東京極大路の略称:寺町通
1)京極高辻:東京極大路と高辻通の交点、京極氏の邸宅のあった場所であり、現在の京都市下京区茶磨屋町附近とされる。
2)六条京極:六条通と東京極大路の交点、六条院のあった場所であり、現在の京都市下京区本塩竈町附近とされる。
新京極通の略称:新京極通
1)新京極通:京都市の南北の通り、京都市最大の繁華街。新京極、京極とも略す。これに由来して京都市内に下記の商店街が命名された。
▶ 寺町京極:寺町通
▶ 西陣京極:千本通の中立売通―今出川通の間。
▶ 堀川京極:西堀川通の丸太町通―中立売通の間。
▶ 松原京極:松原通の新町通―大宮通の間。
▶ 山科京極:醍醐街道の旧三条通―三条通の間。
▶ 田中京極:東大路通の田中南大久保町―田中飛鳥井町の間、元田中駅南・北に存する。
▶ 嶋原京極:花屋町通の大宮通―島原大門前の間。
▶ 西京極駅:同市右京区西京極西池田町にある阪急京都線の駅
▶ 京極村:京都府葛野郡にかつて存在した村、現在の京都市右京区西京極各町。