先祖の足跡を訪ねて −祖父・宇多天皇と共に仁和寺(京都)に眠る源雅信とその妻と娘−|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

先祖の足跡を訪ねて

宇多天皇、敦実親王、源雅信王の菩提寺・仁和寺

祖父・宇多天皇と共に仁和寺に眠る源雅信とその妻と娘

学会出張の帰途、歩行不調(車イス)&異常気象(37度高温、ゲリラ豪雨)ながら、源朝臣雅信および雅信の祖父・宇多天皇、父・敦実親王が眠る菩提寺・仁和寺(京都)を訪ねる。 2016年7月31日
■ 左大臣・源雅信とその妻と娘
宇多天皇を祖父に、敦実親王を父にもつ皇子・雅信王は、臣籍に降下して源朝臣の姓を賜わり、源雅信を名乗り、従四位下、侍従、右近衛権中将、蔵人頭、参議、円融天皇即位とともに信任を得て急速に昇進し、中納言、大納言、右大臣、左大臣となり、薨去までの15年間その地位を務めた。没後に正一位を追贈された。

天元元年(978年)、右大臣であった雅信は左大臣に昇進し、同時に左大臣を兼ねる関白・藤原頼忠は太政大臣、実の兄である前関白・藤原兼通に冷遇されていた藤原兼家が右大臣となった。円融天皇は藤原氏の権力集中を嫌い、牽制するために、雅信に公卿の筆頭「一上」(いちのかみ)(一ノ上卿:いちのしょうけいの略語)としての職務を行わせた。これは、太政大臣・頼忠、右大臣・兼家を牽制しつつ自らの政治力を挙げるための円融天皇の政策であったと考えられる。

例えば、円融天皇は除目、叙位の決定の際に関白の頼忠を参加させなかったり、花山天皇代初めの除目及び別当定においても、新天皇は円融上皇に相談後、頼忠には相談せず直接雅信に実施させている。
このような関白・頼忠を無視し、無能化する傾向は花山天皇の即位後も続き、雅信が一上として太政官を運営する体制は一条天皇が即位し、藤原兼家が摂政に就任した後も更に継続された。
すなわち、左大臣・雅信の一上体制下において、頼忠は政務への熱意を失い、兼家は下位の議政官の地位から解放されるために、右大臣の職を辞して大臣の地位を帯びない摂政となることで政治的優位を確保しようとした。しかし、摂政として全権を振るうには雅信の存在は大きく、これを排除すること叶わなかった。

このような背景の間、雅信は、花山天皇・一条天皇・三条天皇の3天皇の皇太子時代の東宮傅(皇太子付きの教育官)を務めており、この関係を利用して自慢の娘の源倫子を天皇の后にする事が願っていたが、花山天皇(円融天皇の兄・冷泉天皇の第一皇子)は藤原兼家の策動で退位してしまい(出家し、円融天皇の第一皇子:7歳の一条天皇に譲位)、逆に円融天皇が嫌う兼家の四男・藤原道長が倫子へ求婚してきたのである。雅信は、当の道長が自分とは政治的対立関係にある摂政の息子であり、道隆や道兼らの兄を持つことから出世は期待薄であり、しかも倫子よりも2歳も年下であることから全く相手にならないと考えていた。

しかし、倫子の生母でもある雅信・正室の藤原穆子(三十六歌仙・藤原朝忠の娘で祖父は右大臣藤原定方)は夫の意見に猛反対した。当時の一条天皇(円融天皇の第一皇子)は道長より14歳年下であり、皇太子(のちの三条天皇:円融天皇の兄・冷泉天皇の第二皇子)は一条天皇より4歳年上ではあるが、いずれも入内させるには年齢的に若すぎたのである。(東宮の方が天皇より4歳年上であるというこの不自然な立太子は、円融天皇と兼家との不仲による冷泉・円融の両統迭立によるものであるが、東宮の方が天皇より年上であることから東宮は「さかさの儲けの君」と呼ばれた)。妻・穆子は、雅信が望む「倫子が宮中に入って子供を生む」ことよりも、実力者の息子である道長の出世の方がまだ可能性があると主張して、雅信や兼家の承諾も得ず強引に倫子を道長に嫁がせてしまったという。雅信は妻・穆子の主張が本当に正しかったのか否か確認できないままに993年、薨去(『権記』)し、祖父の宇多天皇や父の敦実親王ゆかりの仁和寺に葬られた。

その後、道長は藤原氏全盛期を築き、妻・穆子の判断が正しかった事が世に知られることとなる。道長の正室となった倫子は頼通、教通、一条天皇中宮彰子、三条天皇中宮妍子、後一条天皇中宮威子、後朱雀天皇東宮妃嬉子などの生母となった。そして、雅信の正室・穆子は、太政大臣・道長の姑、摂政・頼通の祖母、3代の天皇の后妃の祖母および後一条天皇の曾祖母として歴史に貢献し、1017年、86歳の人生の幕を閉じた。
雅信の子孫は、後世庭田・綾小路・五辻・大原・慈光寺の諸家に分かれて公家として名を残す一方、参議兼近江守だった四男・扶義の子孫が近江に定着して、武士の佐々木氏へと展開し、その後の歴史に深く関るようになるのである。
■ 源雅信:祖父・宇多天皇、父・敦実親王と共に菩提寺・仁和寺に眠る

■ 祖父・宇多天皇、父・敦実親王ゆかりの菩提寺・仁和寺(京都)に眠る

▼ 仁和寺(京都)
仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院。山号を大内山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。1994年、近くにある龍安寺、金閣寺とともに「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。

皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、宇多天皇が仁和(にんな)4年(888年)に創建し出家後の宇多法皇が住持したことから、「御室御所」(おむろごしょ)(御室とは、「皇室の住居」の意味)と呼ばれた。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と呼ばれるようになった。
仁和寺の成り立ちは、平安時代、第58代「光孝天皇」が先祖を祀る寺を建てたいという願いから西山御願寺として着工されたのが始まりであるが、翌年に光孝天皇が崩御されたため、第59代「宇多天皇」が先帝の意思を継ぎ、仁和4年(888年)、仁和寺(にんなじ)として完成させたものである。

宇多天皇は寛平9年(897年)に31歳で譲位し、後に出家して仁和寺第1世宇多(寛平)法皇となってから、仁和寺に住坊し、30年の間、真言密教の修行をした。皇子皇孫が仁和寺の代々の門跡(住職)となり、御室御所として親しまれ、平安〜鎌倉期には門跡寺寺院として最高の格式を保持した。
しかし、応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱で、仁和寺は一山のほとんどを兵火で焼失した。それから約160年経過した寛永11年(1635年)に、3代将軍家光に仁和寺再興が承諾され、また御所から紫宸殿(現在の金堂)、清涼殿(現在の御影堂)など多くの建造物が下賜され、正保3年(1646年)に伽藍の再建が完了した。現在の配置はそのころのものである。

二王門(重要文化財、南禅寺三門、知恩院三門とともに京都3大門のひとつ)および朱塗りの中門(重要文化財)、御所の紫宸殿を移築した金堂(国宝)の他、五重塔(重要文化財)や観音堂(重要文化財)等がある。仁和寺の金堂は、寛永年間(1624年‐1644年)に御所内裏の正殿「紫宸殿」(ししんでん)が移築された(国宝)。移築された紫宸殿は、1613年(慶長18年)の建立で、仁和寺金堂が現存する最古の紫宸殿となり、宮殿建築を伝える重要な遺構となっている。
本尊は阿弥陀三尊で、金堂移築時に造立されたものとされ、もともと金堂に安置されていたといわれる。現在、霊宝館に安置されている木造阿弥陀三尊像は、888年(仁和4年)に仁和寺が創建されたときの本尊と考えられている(国宝)。

御室境内(史跡)の背丈の低い桜は「御室桜」(名勝)として有名で、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。「徒然草」「方丈記」など古典にも数多く登場し、徒然草に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。また、当寺は宇多天皇を流祖とする華道御室流の家元でもある。

仁和寺 境内案内図

仁和寺 境内案内図

仁和寺(世界遺産)

二王門(重文)

二王門(重文)

仁和寺(世界遺産)
二王門(重文)
二王門(重文)

二王門(重文)

二王門(重文)

二王門(重文)

仁王像(金剛力士像)

二王門(重文)

仁王像(金剛力士像)

仁王像(金剛力士像)(左)
二王門(重文)
仁王像(金剛力士像)(右)

仁王像(金剛力士像)(重文)

仁王像(金剛力士像)(重文)

仁王像(金剛力士像)(重文)(左)
仁王像(金剛力士像)(重文)(右)

御殿(本坊)入口表門

勅使門

御殿(本坊)入口表門(重文)
勅使門(重文)

中門

中門

中門(重文)

中門の四天王像

中門の四天王像

中門の四天王像(左)
中門の四天王像(右)

御室桜 案内

御室桜

御室桜 案内
御室桜

五重塔(重文)

五重塔(重文)

五重塔(重文)

五重塔(重文)

五重塔(重文)

金堂(国宝)

金堂(国宝)

金堂(国宝)

金堂(国宝)

金堂(国宝)

金堂(国宝)

金堂(国宝)

金堂(国宝)

金堂(国宝)

国宝金堂 内陣 阿弥陀三尊像

金堂(国宝)
金堂(国宝)
金堂 内陣 阿弥陀三尊像

経蔵 案内

経蔵

経蔵

経蔵

経蔵(重文)

鐘楼(重文)

鐘楼(重文)

鐘楼(重文)

弘法大師

不動明王

不動明王

弘法大師
不動明王
不動明王

御影堂(

御影堂(重文)

ゲリラ雷雨に遭遇 1時間立ち往生

ゲリラ雷雨に遭遇 1時間立ち往生

ゲリラ雷雨に遭遇 1時間立ち往生

ゲリラ豪雨(急激な黒雲、冷風、豪雨)に遭遇 1時間30分中門の下で立ち往生 出口の二王門が遠い

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