後北条氏四代目氏政の墓所と小田原城
後北条氏(小田原北条氏)四代目氏政の墓所と小田原城を訪ねて
小田原在の病院受診(被追突事故の後遺症:右体側の腰痛・下肢痛治療)のため、前日より小田原へ向かい、到着後、夕方日没までの時間を利用して、歩行不調(車イス)ながら、ホテル近くの後北条氏(小田原北条氏)四代目当主・氏政とその弟・氏照の墓所および小田原城(小田原)を訪ねる。 2016年6月12日
■ 後北条氏(小田原北条氏)墓所
■ 戦国大名である北条氏は、鎌倉幕府執権の北条氏とは血縁的なつながりは全くなく、鎌倉執権の北条氏と区別し、後北条氏あるいは小田原北条氏と呼ばれる。
北条氏(氏政、氏照)墓所
▼ 戦国大名である伊勢氏(小田原北条氏、後北条氏)が鎌倉幕府執権北条氏の「北条」の姓を名乗った理由を考察
戦国大名である北条氏は、鎌倉幕府執権の北條氏とは血縁的につながりは全くなく、鎌倉執権の北条氏と区別し、後北条氏あるいは小田原北条氏と呼ばれる。
後北條氏は鎌倉幕府執権の北條氏とは血縁的につながりは全くない。後北条家の祖は「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年-1519年)であり、桓武平氏伊勢氏流、室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる備中伊勢氏の系統であるとされるが、そうであるならば、室町幕府の要職に任じられる一族として家格も申分が無かったはずである。それにもかかわらず二代目の伊勢氏綱が「北条」の名字にこだわり北条姓を名乗ったのは、ライバルである室町幕府の権威・関東管領・上杉氏に対抗し、関東一円を支配するためには関東管領にふさわしい苗字を名乗ることが必要であり、鎌倉時代の関東管領が幕府の執権・北条氏(北條氏)であったことから、「北条氏」の姓を名乗ったほうが歴史的経緯から有利と考え、あえて「北條」を名乗ることにしたのかもしれない。すなわち、室町幕府の権威である関東管領・上杉氏に対抗するためには、また相模守護だった上杉氏に代わって相模国主としての正当性を得るためには、かつて鎌倉幕府を支配した代々の執権北条氏の名跡にあやかりたかったのかもしれない。
後北條氏は鎌倉幕府執権の北條氏とは血縁的につながりは全くない。後北条家の祖は「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年-1519年)であり、桓武平氏伊勢氏流、室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる備中伊勢氏の系統であるとされるが、そうであるならば、室町幕府の要職に任じられる一族として家格も申分が無かったはずである。それにもかかわらず二代目の伊勢氏綱が「北条」の名字にこだわり北条姓を名乗ったのは、ライバルである室町幕府の権威・関東管領・上杉氏に対抗し、関東一円を支配するためには関東管領にふさわしい苗字を名乗ることが必要であり、鎌倉時代の関東管領が幕府の執権・北条氏(北條氏)であったことから、「北条氏」の姓を名乗ったほうが歴史的経緯から有利と考え、あえて「北條」を名乗ることにしたのかもしれない。すなわち、室町幕府の権威である関東管領・上杉氏に対抗するためには、また相模守護だった上杉氏に代わって相模国主としての正当性を得るためには、かつて鎌倉幕府を支配した代々の執権北条氏の名跡にあやかりたかったのかもしれない。
■ 小田原城(小田原)
標高123m、比高110m。小田原に初めて城を築いたのは、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館であったとされる。治承4年(1180)、石橋山合戦で頼朝の危機を救ったのが土肥氏一族である。このとき、土肥次郎実平の嫡男遠平が父に劣らぬ戦功を上げ、戦後、早川荘の総領所を与えられ小早川村(小田原市)に築城した。それが小田原城の始まりである。
室町時代に入ると、応永23年に大森頼明が小早川氏を追って小田原城主となった。大森氏は5代、80年続いている。全盛期は氏頼の代で、南関東を掌握し、文化的にも繁栄した。しかし、明応4年(1495)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流・伊勢盛時(後の北条早雲)が大森藤頼への謀略で小田原城を夜襲し、大森実頼を真田城に追い、のち大森氏を滅ぼした。
この時代の北条氏は、鎌倉幕府執権の北條氏とは血縁的につながりは全くなく、鎌倉執権の北条氏と区別し、後北条氏あるいは小田原北条氏と呼ばれる。
小田原城を手中に治めた後北条氏は、小田原城を本拠として関東制覇への道を歩む。ただし、実際に小田原城を拠点としたのは、盛時は亡くなるまで韮山城を根拠としていることから、息子の伊勢氏綱(のちの後北条氏綱)が最初であったとされ、その時期は氏綱が家督を継いだ1518年(永正15年)もしくは盛時が死去した翌1519年(永正16年)の後とみられている。
以来、小田原城は、後北条氏の関東支配の中心拠点として、早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直と5代に渡り拡張工事が続けられ、三代目後北条氏康の時代には難攻不落の城といわれ、1561年(永禄4年)の上杉謙信の攻撃や、1569年(永禄12年)の武田信玄の攻撃にも耐えた。のちの1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めのときには、城下を囲む総延長9 kmに及ぶ総構(そうがまえ)など最大規模の城壁を築き、天下無双の堅城と評された。以来、後北条氏政、後北条氏直父子の時代まで戦国大名・後北条氏の約100年間5代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となった。
しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉は天下統一の仕上げとして、隠居後北条氏政と当主氏直の後北条氏を潰すべく開戦し、後北条台頭に対抗していた関東の大名・佐竹義重・宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃した。この戦いは、小田原征伐(小田原合戦、小田原の役など)と呼ばれるが、石垣山一夜城の築城をはじめ3か月の篭城戦などによる秀吉の小田原攻めに対して、後北条側は「和議と抗戦継続」をめぐる議論「小田原評定」の末にほとんど無血で開城させられた。
秀吉は、合戦の責任として、氏政・氏照及び宿老の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じ、家康の親族(婿)であった氏直は助命し、高野山に追放すると決めたが、五代目・氏直は翌年の天正19年(1591年)11月に死亡したため、後北条家の宗家は断絶した。後北条氏の系統は分家の氏政、氏照、氏邦の同母弟で相模三崎城主の氏規(河内北条家の祖)が継承した。
戦後、後北条氏の領土は徳川家康に与えられたが、家康は江戸城を居城として選んだため家康に従って小田原攻めに参戦した腹心大久保忠世を小田原城に置いた。城は近世城郭の姿に改修された。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されたが、寛永10年の大地震の後、稲葉氏(稲葉正則)が入城し、その際に再整備され、城の姿は一新された。しかし、貞享2年(1685)に稲葉正往が越後高田へと移封になり、そのあと貞享3年(1686)に再び下総佐倉から大久保忠朝が103,000石(後1万石加増)で入封した。大久保氏は9代続き、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末を迎えた。
小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体された。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられた。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われた。
その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興された。続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門が、平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が完成した。小田原城は、昭和13年(1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年(1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されている。
室町時代に入ると、応永23年に大森頼明が小早川氏を追って小田原城主となった。大森氏は5代、80年続いている。全盛期は氏頼の代で、南関東を掌握し、文化的にも繁栄した。しかし、明応4年(1495)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流・伊勢盛時(後の北条早雲)が大森藤頼への謀略で小田原城を夜襲し、大森実頼を真田城に追い、のち大森氏を滅ぼした。
この時代の北条氏は、鎌倉幕府執権の北條氏とは血縁的につながりは全くなく、鎌倉執権の北条氏と区別し、後北条氏あるいは小田原北条氏と呼ばれる。
小田原城を手中に治めた後北条氏は、小田原城を本拠として関東制覇への道を歩む。ただし、実際に小田原城を拠点としたのは、盛時は亡くなるまで韮山城を根拠としていることから、息子の伊勢氏綱(のちの後北条氏綱)が最初であったとされ、その時期は氏綱が家督を継いだ1518年(永正15年)もしくは盛時が死去した翌1519年(永正16年)の後とみられている。
以来、小田原城は、後北条氏の関東支配の中心拠点として、早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直と5代に渡り拡張工事が続けられ、三代目後北条氏康の時代には難攻不落の城といわれ、1561年(永禄4年)の上杉謙信の攻撃や、1569年(永禄12年)の武田信玄の攻撃にも耐えた。のちの1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めのときには、城下を囲む総延長9 kmに及ぶ総構(そうがまえ)など最大規模の城壁を築き、天下無双の堅城と評された。以来、後北条氏政、後北条氏直父子の時代まで戦国大名・後北条氏の約100年間5代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となった。
しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉は天下統一の仕上げとして、隠居後北条氏政と当主氏直の後北条氏を潰すべく開戦し、後北条台頭に対抗していた関東の大名・佐竹義重・宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃した。この戦いは、小田原征伐(小田原合戦、小田原の役など)と呼ばれるが、石垣山一夜城の築城をはじめ3か月の篭城戦などによる秀吉の小田原攻めに対して、後北条側は「和議と抗戦継続」をめぐる議論「小田原評定」の末にほとんど無血で開城させられた。
秀吉は、合戦の責任として、氏政・氏照及び宿老の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じ、家康の親族(婿)であった氏直は助命し、高野山に追放すると決めたが、五代目・氏直は翌年の天正19年(1591年)11月に死亡したため、後北条家の宗家は断絶した。後北条氏の系統は分家の氏政、氏照、氏邦の同母弟で相模三崎城主の氏規(河内北条家の祖)が継承した。
戦後、後北条氏の領土は徳川家康に与えられたが、家康は江戸城を居城として選んだため家康に従って小田原攻めに参戦した腹心大久保忠世を小田原城に置いた。城は近世城郭の姿に改修された。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されたが、寛永10年の大地震の後、稲葉氏(稲葉正則)が入城し、その際に再整備され、城の姿は一新された。しかし、貞享2年(1685)に稲葉正往が越後高田へと移封になり、そのあと貞享3年(1686)に再び下総佐倉から大久保忠朝が103,000石(後1万石加増)で入封した。大久保氏は9代続き、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末を迎えた。
小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体された。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられた。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われた。
その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興された。続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門が、平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が完成した。小田原城は、昭和13年(1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年(1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されている。
▼ 小田原城
小田原城・二の丸隅櫓と学橋
小田原城・学橋
小田原城・二の丸隅櫓と学橋
二の丸隅櫓、奥に馬出門
多聞櫓、右奥が渡櫓
小田原城・明治天皇行幸所
二の丸隅櫓と堀斜面のアジサイ
常磐木橋から本丸へ
二の丸・堀斜面のアジサイ
小田原城二の丸・斜面のアジサイ
小田原城・本丸のお堀は花菖蒲園
小田原城・天守閣
小田原城・天守閣
小田原城・天守閣
小田原城から見た早雲山
総石垣造りの城
小田原城・天守閣
小田原城本丸
小田原城・二の丸御殿跡
小田原城・学橋