「六角家」の名称の由来
六角氏の名字発祥の地:六角堂&六波羅(京都)を訪ねて
糸川嘉則先生(京大医名誉教授・仁愛大学長)の葬儀参列の帰途、出発前の2時間を利用して、京都在住の高校同窓・木山克明君のドライブ兼案内で、近江源氏・佐々木泰綱を祖とする六角氏の足跡を訪ねる。 2014年9月4日
■ 先祖の分流:六角氏と京極氏
▼ 先祖の分流:六角氏と京極氏
私の先祖である京極氏や六角氏の源流は佐々木氏であり、近江国を発祥の地とする宇多源氏である。宇多天皇の皇子・敦実親王の三男・雅信王が臣籍降下して源朝臣の姓を賜い源雅信と称した。源雅信の孫すなわち宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した子および孫の章経、経方が佐々木を名乗ったことが佐々木氏の始まりとされる。近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて繁栄し、各地に支族を広げた。
経方の4人の息子、季定、秀義、秀定、行定の中で、行定は近江国佐々木神社の神主(以後、子孫は真野と称す)となり、秀義は13才の時、源為義の養子となり、保元平治の乱では源義朝と共に戦い、武勇の軍功あり。
佐々木秀義の4人の息子、定綱、経高、盛綱、高綱は源義朝の嫡子源頼朝の家人として平家打倒に活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領である近江をはじめ17か国の守護を任じられる。
承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使、山城守を任じていた上皇方の定綱の嫡子広綱は、鎌倉に在り執権北条義時の婿となっていた幕府方の信綱と兄弟どうしで争うことになったが、幕府方の勝利で敗れた上皇方の広綱は信綱に斬首され、信綱が近江の総領となる。ちなみに、秀義の五男義清は出雲、隠岐の両国守護を賜い、下向し土着したため、出雲源氏という。
近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後、近江は4人の息子、重綱、高信、泰綱、氏信に分けて継がれ、長男の重綱は大原の祖、次男の高信は高島の祖、三男の泰綱は六角の祖、四男の氏信は京極の祖となる。すなわち、長男の重綱は坂田郡大原庄を与えられて大原氏を名乗り、次男の高綱は高島郡田中郷を与えられて高島氏を名乗った。三男の泰綱は宗家を継いで近江守護職に任じ、江南(南近江)の滋賀郡、栗太郡、野洲郡、甲賀郡、蒲生郡、神崎郡の六郡と京都六角の館を与えられて六角氏を名乗り、四男の氏信は江北(北近江)の高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡と京都の京極高辻の館を与えられて京極氏を名乗った。兄弟四人のうちで、三男の泰綱と四男の氏信が厚遇された背景には、二人の母が執権北条泰時の妹であったことと、 近江国に強大な勢力を持つ有力御家人佐々木氏を牽制しようという幕府(北条執権)の狙いがあったと言われている。
鎌倉政権において、六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し、六波羅評定衆などを務める。一方、私の先祖である京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をし、嫡流に勝る有力な家となり、その後の室町幕府においても足利政権における有力者となる。
とくに、室町幕府設立の功績により、京極高氏(佐々木道誉)は引付頭人、評定衆、政所執事、および近江、飛騨、出雲、若狭、上総、摂津の6か国の守護を務めた。(京極高氏が鎌倉幕府の執権北条高時から偏諱を賜って以降、京極の歴代当主および一族は代々名前に「高」を用いる)。
その後、室町時代から南北朝時代にかけて、京極氏は四職(侍所所司になれる家)の一つとなり、以後の当主は代々江北、出雲、隠岐、飛騨の守護、ならびに侍所所司を務め、繁栄した。
経方の4人の息子、季定、秀義、秀定、行定の中で、行定は近江国佐々木神社の神主(以後、子孫は真野と称す)となり、秀義は13才の時、源為義の養子となり、保元平治の乱では源義朝と共に戦い、武勇の軍功あり。
佐々木秀義の4人の息子、定綱、経高、盛綱、高綱は源義朝の嫡子源頼朝の家人として平家打倒に活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領である近江をはじめ17か国の守護を任じられる。
承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使、山城守を任じていた上皇方の定綱の嫡子広綱は、鎌倉に在り執権北条義時の婿となっていた幕府方の信綱と兄弟どうしで争うことになったが、幕府方の勝利で敗れた上皇方の広綱は信綱に斬首され、信綱が近江の総領となる。ちなみに、秀義の五男義清は出雲、隠岐の両国守護を賜い、下向し土着したため、出雲源氏という。
近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後、近江は4人の息子、重綱、高信、泰綱、氏信に分けて継がれ、長男の重綱は大原の祖、次男の高信は高島の祖、三男の泰綱は六角の祖、四男の氏信は京極の祖となる。すなわち、長男の重綱は坂田郡大原庄を与えられて大原氏を名乗り、次男の高綱は高島郡田中郷を与えられて高島氏を名乗った。三男の泰綱は宗家を継いで近江守護職に任じ、江南(南近江)の滋賀郡、栗太郡、野洲郡、甲賀郡、蒲生郡、神崎郡の六郡と京都六角の館を与えられて六角氏を名乗り、四男の氏信は江北(北近江)の高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡と京都の京極高辻の館を与えられて京極氏を名乗った。兄弟四人のうちで、三男の泰綱と四男の氏信が厚遇された背景には、二人の母が執権北条泰時の妹であったことと、 近江国に強大な勢力を持つ有力御家人佐々木氏を牽制しようという幕府(北条執権)の狙いがあったと言われている。
鎌倉政権において、六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し、六波羅評定衆などを務める。一方、私の先祖である京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をし、嫡流に勝る有力な家となり、その後の室町幕府においても足利政権における有力者となる。
とくに、室町幕府設立の功績により、京極高氏(佐々木道誉)は引付頭人、評定衆、政所執事、および近江、飛騨、出雲、若狭、上総、摂津の6か国の守護を務めた。(京極高氏が鎌倉幕府の執権北条高時から偏諱を賜って以降、京極の歴代当主および一族は代々名前に「高」を用いる)。
その後、室町時代から南北朝時代にかけて、京極氏は四職(侍所所司になれる家)の一つとなり、以後の当主は代々江北、出雲、隠岐、飛騨の守護、ならびに侍所所司を務め、繁栄した。
■ 六角氏の発祥地:六角堂を訪ねる
▼ 六角家の邸宅が都(京都)六角にあったことから、佐々木六角家と呼ばれた。
六角通りと烏丸通りの交差点
六角堂
六角堂
正式の寺号は頂法寺(山号を冠して紫雲山頂法寺)であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。
頂法寺の創建縁起は、醍醐寺本『諸寺縁起集』、『伊呂波字類抄』や寺所蔵の『六角堂頂法寺縁起』や近世刊行の『洛陽六角堂略縁起』などによると、敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であったため、太子はこの観音像を念持仏とした。これが後の頂法寺本尊である。太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。東からやってきた老翁(鎮守神の唐崎明神)が、紫雲たなびく杉の霊木のありかを教えてくれたので、その材を用いて六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりである。
頂法寺の創建縁起は、醍醐寺本『諸寺縁起集』、『伊呂波字類抄』や寺所蔵の『六角堂頂法寺縁起』や近世刊行の『洛陽六角堂略縁起』などによると、敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であったため、太子はこの観音像を念持仏とした。これが後の頂法寺本尊である。太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。東からやってきた老翁(鎮守神の唐崎明神)が、紫雲たなびく杉の霊木のありかを教えてくれたので、その材を用いて六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりである。
この寺の本堂である六角堂は寺内塔頭で、頂法寺の本坊にあたる池坊が執行として代々経営・管理に当たってきた。聖徳太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことが華道の由来とされ、その寺坊が池のほとりにあったことから「池坊」と呼ばれている。
■ 六角氏の活動地:六波羅を訪ねる
佐々木泰綱は、父信綱の死後、近江守護職を引き継ぎ、近江南六郡と京都六角の館を与えられて六角氏を名乗る。六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し、六波羅評定衆などを務めた。
六波羅(ろくはら)は、京都の鴨川東岸の五条大路(現松原通)から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区六原学区一帯。六原とも記される。
1118年誕生の平家の頭領・清盛が30歳過ぎから頭角を現すにつれ、それまで芦荻が茂る湿地帯であった六波羅は平家一族郎党の住まいとして開拓され、年を追うごとに拡大していった。その最盛期には広大な境域に5200余の邸館が並んだという。
平家が木曽義仲によって追い落とされ、鎌倉の世となった後も頼朝はここに六波羅探題を置き都の治安を監視したのだが、その後も時の為政者にとってこの地は重要な戦略的拠点となった。
六波羅(ろくはら)は、京都の鴨川東岸の五条大路(現松原通)から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区六原学区一帯。六原とも記される。
1118年誕生の平家の頭領・清盛が30歳過ぎから頭角を現すにつれ、それまで芦荻が茂る湿地帯であった六波羅は平家一族郎党の住まいとして開拓され、年を追うごとに拡大していった。その最盛期には広大な境域に5200余の邸館が並んだという。
平家が木曽義仲によって追い落とされ、鎌倉の世となった後も頼朝はここに六波羅探題を置き都の治安を監視したのだが、その後も時の為政者にとってこの地は重要な戦略的拠点となった。
▼ 六波羅(ろくはら)
京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯(赤○印内)の地名。現在の京都市東山区の一部。六原とも記す。おそらく六波羅蜜寺に因んだ名。「六波羅蜜」は仏教用語で六種類の修行を意味する。六波羅の地は清水寺への参詣道で、当時の五条通はいまの松原通,つまり珍皇寺の前の通りである。平安末期には平清盛はじめ平氏一門の邸宅が並び,平氏政権の中心地であった。六波羅は,小松谷を経て山科に抜ける道筋にあり,東国や伊勢平氏の本拠地伊勢・伊賀への玄関口に当る。平安時代末以降,武家の地として発展した。また,鎌倉時代にはここに六波羅探題が置かれた。
▼ 建仁寺
建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の援助を得て、元号を寺号として、京都における臨済宗の拠点として建立された。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。
建仁寺 楼門
建仁寺 本坊
建仁寺 法堂(はっとう、講堂)
建仁寺の法堂・木造薬師如来像
建仁寺の法堂・天井絵
2002年、創建800年を記念して
小泉淳作画伯による双龍の絵
2002年、創建800年を記念して
小泉淳作画伯による双龍の絵
建仁寺の法堂・天井絵
2002年、創建800年を記念して
小泉淳作画伯による双龍の絵
2002年、創建800年を記念して
小泉淳作画伯による双龍の絵
▼ 松原通りを挟む六道珍皇寺と六波羅密寺
清水寺へとつづく松原通り(清水への参詣道:鳥辺野へ亡骸を運ぶ通路であったと言われる)を挟む六道珍皇寺と六波羅密寺を訪ねる。六道珍皇寺のこの付近は、死者を鳥辺野へ葬送する際の野辺送りの場所で、「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世の境といわれていた。六道珍皇寺には、平安の昔に冥府の閻魔庁の役人として現世と冥界の間を行き来する小野篁(たかむら)卿の木立像や閻魔大王座像を祀る閻魔・篁堂や冥土に通じる入口という冥土通いの井戸などがある。
その昔、「六道の辻」は鳥辺野の無常所の入口にあたり、現世と冥途との境の地であり、亡骸はこの辻の向こう側に捨てられた。金のない民衆は埋められもせず、弔われることもなく放置され、穏亡(おんぼう)たちによって運び捨て去られた。その死せる肉体は風雨に曝され、髑髏(どくろ)となって六波羅の野辺に転がっていた。その骨を拾い、さまよえる魂を供養したのが六波羅蜜寺創建の空也上人である。
その昔、「六道の辻」は鳥辺野の無常所の入口にあたり、現世と冥途との境の地であり、亡骸はこの辻の向こう側に捨てられた。金のない民衆は埋められもせず、弔われることもなく放置され、穏亡(おんぼう)たちによって運び捨て去られた。その死せる肉体は風雨に曝され、髑髏(どくろ)となって六波羅の野辺に転がっていた。その骨を拾い、さまよえる魂を供養したのが六波羅蜜寺創建の空也上人である。
▼ 六道珍皇寺
珍皇寺は元来、東寺の末寺でしたが、貞治3(1364)年東寺から離れ、建仁寺塔頭久昌院の末寺となり、のち合併されたが、明治43(1910)年ふたたび独立。寺内には篁(たかむら)像を安置する篁堂があり、本堂背後の庭内には、篁が冥土通いに利用したと伝える井戸がある。
閻魔大王坐像
小野篁卿木立像
小野篁卿木立像
冥土への入り口に使われた井戸
冥土への入り口に使われた井戸
先祖の精霊をこの世へ呼び戻す鐘迎(迎えがね)
▼ 六波羅蜜寺
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。