先祖の足跡を訪ねて −高重の菩提寺:専念寺(安芸高田)|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

先祖の足跡を訪ねて

13代目・高重の菩提寺:専念寺(安芸・高田)

13代目・高重の菩提寺:専念寺(安芸・高田)を訪ねて

学会(岡山)&講演(広島)出張の帰途、門司から車で駆けつけてくれた中学級友(松崎君、神田君)と広島在住の中学級友(一ノ瀬君)の同行を得てドライブにて高重以降の菩提寺・専念寺(安芸高田)を訪問。 2014年7月4日
■ 高重:山縣郡八重村龍ヶ谷城主
江戸時代初期・元禄3年(1690年)、山縣郡八重村(現在:千代田町)龍ヶ谷の城主。木次村(現在:千代田町)に転住し、元禄10年まで住む。同年、息子3人を召し連れて高田郡志路村字桐山(現在:白木町)に転住する。

高重の菩提寺・専念寺

高重の菩提寺・専念寺

高重の菩提寺・専念寺

高重長右衛門:正保2年生、正徳5年卒。71歳 (照徳院釋源敦實胤正不世居士
■ 菩提寺・専念寺(安芸・高田)
450年を超すという古寺名刹。もとは天台宗で永楽山称名寺*と称し、現在の白木町にあったが、1559年(永禄2)年8月に真宗に改宗し、寺号を専念寺と改めてこの地に移転、すなわち現在の寺社は、高所より下り、再建立されたものとのこと。
祖父に連れられて参拝したという親の言い伝えもあり、現存する伝来の高重以降の過去帳には本寺社名の印があり、かつ安芸国山縣郡八重村龍ヶ谷城主ならびに当該地居住の記載もある。寺の住職も、数代にわたり替わっていたが、面談いただき、過去帳の精査確認をしていただく。(高重長右衛門:正保2年生、正徳5年卒。71歳。戒名:照徳院釋源敦實胤正不世居士
称名寺:鎌倉幕府の要人・北条実時が1258年に創建したという鎌倉時代の古刹。とくに、金沢北条氏一門の菩提寺である金沢山称名寺は鎌倉時代の国宝や重要文化財など、歴史的価値のある文化遺産を金沢文庫に所蔵し、世界遺産候補。

専念寺

専念寺

広島県安芸高田市八千代町勝田

専念寺・本堂

専念寺本堂(安芸・高田)

専念寺・櫓

専念寺

専念寺

住職と

住職と

住職と

門司から車で駆けつけてくれた中学級友(松崎君、神田君)と広島在住の中学級友(一ノ瀬君)の同行を得て訪問。寺の住職(右2枚写真中央)と面談、過去帳の精査確認をしていただく。

寺の本堂内部

寺の本堂内部

寺の本堂内部

本 堂

寺の本堂内部

寺の本堂内部

本堂内部:格式の高い(格子が密な)天井と欄間が素晴らしい!

寺の本堂内部

寺の本堂内部

寺の本堂内部

住職自ら日曜大工をされており、450年を超すという古寺名刹の維持管理は大変そうであった。

境内のサルスベリ(天然記念物)

境内のサルスベリ:安芸高田市指定の天然記念物
歴代の住職によると、この地に寺を移転した当時からこの樹があったと伝えられており、樹齢220年以上と伝えられている。地表0.7mぐらいまでコブ状にふくれ、内部は空洞化している。

境内のサルスベリ(天然記念物)

境内のサルスベリ(天然記念物)

境内のサルスベリ(天然記念物)

境内のサルスベリ(天然記念物)

地表0.7mぐらいまでコブ状にふくれ、内部は空洞化している。
▼ 高重:別称として屋号を用いる(元禄15年)
江戸時代初期、13代目高重長右衛門には3人の息子:嫡男・14代目半左衛門、二男・長左衛門、三男・徳右衛門がおり、元禄15年、それぞれに林屋、佐々木屋、亀井屋の屋号を与え別家させた。自らも別称として屋号を益田屋高重生誕地&父・高福長右衛門の任領地:石見国・益田郡の地名に由来)と称した。(この屋号は、高重より第5代目の18代嫡流・磯右衛門(曾祖父)まで引き継がれたが、明治維新の「平民苗字必称義務令」(明治8年2月13日)における屋号使用禁止令により廃され、磯右衛門は益田屋の「屋」を取って益田姓を名乗る。)
■ 屋号、家号(やごう)とは
屋号、家号(やごう)とは、江戸時代に、一門・一家の特徴を基に家に付けられた称号のことである。ヨーロッパ、日本において主に使用された。ヨーロッパにおいては貴族、日本においては姓を持つ氏族の家系にも使われ、一家族、一氏族の系統を示すものとしても用いられた。ヨーロッパではder GeschÄftsnameという。ドイツ語圏においては、"Zum Goldenen Schwan"(金の白鳥亭)や "Weisser Hirsch"(白い鹿亭)といったものが多い。

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