8代目・京極高忠多賀豊後守が開創の宗仙寺(京都)
Sosenji Temple (Kyoto), founded by 8th generation:
Kyogoku Takatada Taga Bungonokami
Kyogoku Takatada Taga Bungonokami
光源氏のモデル・源融の邸宅「六条河原院」跡地に京都所司代・京極高忠が開創
光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子・源融(822〜895年)が隠棲した邸宅「六条河原院」の跡地(高倉六条)に、寛正二年(1462年)京都所司代・京極高忠多賀豊後守が「宗仙寺」を開創
Founded by Kyoto Shoshidai: Kyogoku Takatada on the site of Rokujo Kawara-no-in residence where Minamoto no Toru, was one model for the character of Genji HIKARU in the "Genji Monogatari", lived in seclusion
学会出張の帰途、出発前の時間を利用して、京都在住の高校同窓・木山克明君のドライブ兼案内で、室町幕府京都所司代・京極(多賀)高忠が開創の宗仙寺(京都)を訪ねる。 2015年2月8日
■ 8代目・京極高忠多賀豊後守
▼ 高忠の父・高数京極九郎加賀守
高忠多賀豊後守の父は、わが家系では京極家初代より7代目の京極高数(1441年卒)。6代目・京極高詮の次男。兄は京極高光。左衛門尉・加賀守。室町時代中期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人・山城守護。飛騨・出雲・隠岐守護。近江北郡の分郡守護(軍事指揮権)。御相伴衆。法名道統(有統)。
京極家宗家は、高詮のあとは嫡男の高光が継いだが生来の病弱であったため、公務に耐えられず、後小松天皇の行幸警護や応永18年(1411年)の飛騨の乱では、幕府軍の総大将として鎮圧するなど、弟の高数が兄の代役を務めることが多かった。応永20年(1413)兄高光が病死すると嫡男・持高(持光)が宗家の家督を継いだが、若年であったため高数が後見を務め、応永28年(1421)から応永30年(1423)まで侍所頭人・山城守護職にも任じられた。また、持高とともに御相伴衆にも列した。永享11年(1439)、持高が子を残さないまま早世すると、ときの将軍足利義教は持高に弟持清(中務少輔)がいたにもかかわらず、高数を京極氏の当主とした(薩戎記)。
高数はひとかどの人物であったようで、 先の将軍足利義持にも重用されたが、将軍義教も高数を寵遇し、高数の養子・教久にも偏諱「教」を与えている。甥の持清を差し置いて高数を京極氏の家督にするというこの任命は、もちろん高数が高光、持高の二代に渡って実質的に宗家の家政を仕切っていたことと、将軍足利義持、義教の寵を受けていたことが最大の理由であるが、「守護の任免権を将軍が握る」という足利義教の恐怖政治の特徴のひとつでもあり、のちの「将軍が大名の国替・改易を行う近世的封建制度」を先取りしたものでもある。
ところが、嘉吉元年(1441)、赤松満祐の酒宴に招待を受けた将軍足利義教が赤松邸において殺害されるという事件が起こった。いわゆる嘉吉の乱であり、義教に供奉し、管領の細川持之・畠山・山名・大内ら有力守護大名や公家らとともに相伴していた高数は、細川持之ほか諸大名が逃げる中、その場に残って孤軍奮闘したが(建内記)、京極邸に帰ったところで息絶えた(師郷記)。
京極家宗家は、高詮のあとは嫡男の高光が継いだが生来の病弱であったため、公務に耐えられず、後小松天皇の行幸警護や応永18年(1411年)の飛騨の乱では、幕府軍の総大将として鎮圧するなど、弟の高数が兄の代役を務めることが多かった。応永20年(1413)兄高光が病死すると嫡男・持高(持光)が宗家の家督を継いだが、若年であったため高数が後見を務め、応永28年(1421)から応永30年(1423)まで侍所頭人・山城守護職にも任じられた。また、持高とともに御相伴衆にも列した。永享11年(1439)、持高が子を残さないまま早世すると、ときの将軍足利義教は持高に弟持清(中務少輔)がいたにもかかわらず、高数を京極氏の当主とした(薩戎記)。
高数はひとかどの人物であったようで、 先の将軍足利義持にも重用されたが、将軍義教も高数を寵遇し、高数の養子・教久にも偏諱「教」を与えている。甥の持清を差し置いて高数を京極氏の家督にするというこの任命は、もちろん高数が高光、持高の二代に渡って実質的に宗家の家政を仕切っていたことと、将軍足利義持、義教の寵を受けていたことが最大の理由であるが、「守護の任免権を将軍が握る」という足利義教の恐怖政治の特徴のひとつでもあり、のちの「将軍が大名の国替・改易を行う近世的封建制度」を先取りしたものでもある。
ところが、嘉吉元年(1441)、赤松満祐の酒宴に招待を受けた将軍足利義教が赤松邸において殺害されるという事件が起こった。いわゆる嘉吉の乱であり、義教に供奉し、管領の細川持之・畠山・山名・大内ら有力守護大名や公家らとともに相伴していた高数は、細川持之ほか諸大名が逃げる中、その場に残って孤軍奮闘したが(建内記)、京極邸に帰ったところで息絶えた(師郷記)。
▼ 高数の死後、京極宗家の家督を高数の兄・高光の血筋に戻す
高数には嫡男・高忠や土岐氏から入った養子・教久がいたが、高数の死後、京極宗家の家督を高数の兄・高光の血筋:持高の弟である持清に戻し、8代目・嫡男の高忠は、室町幕府の要人となり、侍所所司代として京都の治安維持に力を発揮した。嫡男・高忠は、父・高数が祖父の京極家6代目・高詮から譲られ、応永4年(1397年)に築城し家老たちと一緒に住んだという領地:多賀庄の下之郷を本拠にしたことから「多賀」を名乗り、応仁の乱でも京極佐々木氏の中心となり、管領・細川勝元らの東軍に属した従兄でもある宗家・京極持清(勝元の叔父)に代わって、東軍の総指揮官として西軍の山名持豊(宗全)を撃破し、東軍の京都防衛に奮戦した。2度にわたる室町幕府京都所司代をつとめ、室町時代の役人としては珍しく公平無私な政治を行い、名所司代の美名を残した。
また、高数の養子・教久(将軍・足利義教より偏諱「教」を賜う)は別に家を立て以降の宗家を支えた。この家は室町幕府に於いても、京極別家(国持に准ずる外様衆)として重んじられ将軍家から新たに所領も拝領し、次代京極政数(名は政宗とも、将軍足利義政より偏諱「政」を賜う)以降も続いた。幕府内で活躍したほか京極氏の主たる領国である出雲においても、鞍智氏とともに宗家の代理として活躍した。
また、高数の養子・教久(将軍・足利義教より偏諱「教」を賜う)は別に家を立て以降の宗家を支えた。この家は室町幕府に於いても、京極別家(国持に准ずる外様衆)として重んじられ将軍家から新たに所領も拝領し、次代京極政数(名は政宗とも、将軍足利義政より偏諱「政」を賜う)以降も続いた。幕府内で活躍したほか京極氏の主たる領国である出雲においても、鞍智氏とともに宗家の代理として活躍した。
▼ 京極高忠は多賀豊後守を名乗る
高忠多賀豊後守 (1425 〜86) は、わが家系では京極家初代より8代目で、7代目・京極高数の嫡男。室町時代後期から戦国時代前期の武将。多賀庄下之郷城主。京極家より多賀豊後守家当主となるが、京極家の家宰として従兄弟の近江京極宗家を支える。2度にわたって室町幕府京都侍所所司代を務め、名所司代として知られる。通称は新左衛門、あるいは官位である豊後守。法号は宗本。号は大源。
室町時代中期、京極高忠は、多賀出雲守高直の娘(清直の妹)を娶り、わが家系における京極家7代目の父・高数が祖父の京極家6代目・高詮から譲られ、応永4年(1397年)に築城し家老たちと一緒に住んだという領地:多賀庄の下之郷を本拠にしたことから、「京極」から「多賀」を名乗った。
某解説では、2人の息子を持つ多賀豊後守高長のところへ養子の形で京極家から豊後守家に入り、多賀家の家督となったとする記述もあるが、この時代、佐々木氏自らが他家の養子になって所領を継承し、本主を代官にするという形で所領を広げ、本主を養子にする、あるいは庶子を本主の養子にするという形で一族を拡げており、佐々木氏と古代豪族多賀氏の関係もこの形であろう。また、高数およびその嫡男・高忠に連結させた記述には、土岐氏から入った養子・教久のほか、多賀氏と同じ近江国犬上郡を発祥とする豪族・藤堂氏にも藤堂良隆の長男・虎高は三井氏から養子として入るが、次男・良直を高忠の子とし、3男・良政の実父・多賀良氏を高忠の弟とするなど、(その良氏の娘と虎高との次男は津・藩祖の藤堂高虎であるが)、少々怪しい記述も見られる。
高忠は室町幕府の要人として、寛正3年(1462年)より京都侍所所司代(1度目)を任ぜられ、応仁の乱勃発までの5年間、土一揆鎮圧や京都の治安維持に力を発揮した。応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱でも京極佐々木氏の中心となり、管領・細川勝元らの東軍に属した従兄でもある宗家・京極持清(勝元の叔父)に代わって、東軍の総指揮官として西軍の山名持豊(宗全)を撃破し、東軍の京都防衛に奮戦した。しかし、文明2年(1470年)に発生したお家騒動(京極騒乱)で京極氏と多賀氏は分裂、高忠の権勢を嫌う出雲守家の多賀清直・宗直父子が西軍に寝返り、京極氏の弱体化を招いた。(背景:多賀氏は、犬上郡の豊後守家と坂田郡の出雲守家に分かれていた。)
すなわち、持清と共に1万の兵を率いて西軍の六角高頼らを圧倒して山城に如意岳城を築いた。文明元年(1469年)には六角氏の本拠である観音寺城を一時制圧して8代将軍足利義政から直々に感状を授けられた。ところが翌年の文明2年(1470年)、応仁の乱の最中に、京極氏は当主・持清と嫡男・勝秀が相次いで病死したため、家督を巡り勝秀の嫡子・孫童子丸派と勝秀の庶子・乙童子丸派との間で争いが起こった。いわゆる京極騒乱である。
京極一族である近江の守護代・高忠は、京極家の家宰として、文明2年(1470年)、勝秀の嫡子・孫童子丸を家督とし、後見の持清の3男・京極政経(政高)を庇護するが、高忠の権勢を嫌う飛騨守護代の多賀出雲守・清直・宗直父子らが庶子・乙童子丸(高清)を立て、後見の持清の次男・京極政光や六角高頼らと共に対抗した。しかし、翌年の文明3年(1471年)に孫童子丸が夭折し、新たな跡目争いが起こる。政経と高忠は、高清らの連合勢力に一時優勢を保つも、文明4年(1472年)に越前へ敗走、出雲に下る。文明7年(1475年)に出雲の国人を率いて上洛すると、政経は幕府より近江守護に補任され、近江奪還の命を受ける。西軍の六角高頼、高清、多賀出雲守・清直父子ら連合軍に大勝し、近江は守護・京極政高(政経)、守護代・多賀高忠の支配となる。その後、西軍の美濃守護・土岐成頼と斎藤妙椿、越前・尾張・遠江守護・斯波義廉が敵方の援軍に付き、近江を侵略。三沢氏ら出雲の有力国衆を戦死させ、高忠は京都に敗走するも、一進一退の攻防は応仁の乱終了後も続いた。
文明13年(1481年)、幕府の仲介で両者は和睦したが、江北は高清と多賀宗直らが実権を握り、高忠は本拠である近江犬上郡甲良荘下之郷(現在の滋賀県犬上郡甲良町下之郷)には入国できず、京都での隠棲生活を余儀なくされていた。文明17年(1485年)、高忠は室町幕府に召されて2度目の京都侍所所司代を任ぜられると、幕命を受けて山城国内の土一揆を鎮圧し、その死に至るまで京都の治安維持に従事し、京都市中の再建にも尽力したが、翌年の文明18年(1486年)に世を去った。
その間、多賀清直は文明11年(1479年)に亡くなり、多賀宗直も政経・材宗父子が出雲より上洛すると、長享元年(1487年)、主君に反乱を起こし高清を追放するが、その後の反撃に遭い敗死。坂田郡の多賀出雲守家は断絶した。
翌・長享2年(1489年)、政経は近江国人衆の協力を得て、高清を越前敦賀へ追放。延徳2年(1490年)、政経は幕府から当主(京極氏惣領職)と認められ、併せて高清退治を命じられる。しかし、配下の所領横領の管理責任をとって辞職。代わりに明応2年(1493年)、高清が家督を認められ江北に復帰するが、庇護を受けていた美濃の斎藤妙純が戦死すると高清も没落、美濃海津に寄留。政経は、出雲の守護代・尼子経久の地へ下向するが、息子・材宗は近江に残り、抗戦を継続した。
明応8年(1499年)、追放されていた高清は京極氏重臣・上坂家信の助力により江北へ帰還が叶う。2度にわたる材宗の襲撃を退け、永生2年(1505年)、高清は従兄弟・材宗と偽の同盟を結び、和睦する。そして、2年後に材宗を暗殺する。これで、35年間続いた家督争いは終結する。
以後、京極の宗家は勝秀の庶子である高清の系となり、高吉、高次へと続くが、高次が織田信長の死後、明智光秀に属したことで豊臣秀吉の追及を受ける。しかし、高次の姉・竜子および高次の正室・初の姉・淀が秀吉の側室となり、正室・初の妹・江が2代将軍・徳川秀忠の正室となり、さらに3姉妹の母が信長の妹・お市の方であるなど、女性陣の縁故により許され、没落の難を逃れ、秀吉政権下では近江大津城6万石の大名に、徳川家康政権下では小浜藩主となり、弱体化した京極家を再興した。
ちなみに、某解説では、高忠の死後、多賀姓で豊後守を名乗ったとする多賀高家および子の高房を子孫として挙げているが、応仁の乱&京極騒乱以降、京極氏と家臣・多賀氏は分裂・敵対する仲であり、高忠は旧本拠・犬上郡には帰還できず、本拠を近江高島郡に移し、京極政経・材宗父子らと京都に在住したとある(『蔭涼軒日録』)。しかも、某説では、高房のあと貞隆(貞澄)、そして貞能へと続くが、戦国時代には、永禄11年(1568年)の織田信長の侵攻により(この時、南近江の守護・六角氏は没落し、高忠の下之郷城も焼失し、築城以来170年の歴史に幕を閉じた)、以後は信長、そして明智光秀、ついで豊臣秀吉に直仕したとある。そして、男子の無い貞能は、越前18万石の信長、秀吉の側近大名・堀秀政の弟・秀家(秀種;近江佐和山9万石城代)を婿養子とし、秀吉政権下では大和国支配の要である大和国宇陀郡において秋山城2万石の大名とするが、慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の合戦で西軍・石田三成方に味方したことで改易になったとある。
また、高忠の次男は独立し、聖徳太子の伯母・片岡姫ゆかりの地・片岡を本拠にして、片岡次太夫宗春を称し、別家・片岡家(片岡家始祖・片岡城主)を立てたとある。宗春のあと、利持、国春、春利と続くが、元亀元年(1570年)春利が36歳で病死したため、一時片岡一帯および城を松永久秀に占領される。しかし、天正5年(1577年)明智光秀、筒井順慶、長岡藤孝(息子:細川忠興・興元兄弟と共に)ら織田信長軍により奪還される。宗春の次男・次郎左衛門(光二)は、本阿弥光心の娘・妙秀と結婚し、本阿弥光心の婿養子として本阿弥家に入るが、その後独立。その長男・本阿弥光悦が江戸時代初期の寛永の三筆(本阿弥光悦、近衛信尹、松花堂昭乗)の一人であり、俵屋宗達、尾形光琳と共に、後世の日本文化に多大な影響を与えた琳派の創設者である。
わが家系では、8代目・高忠のあとの9代目は高忠46歳の時(応仁の乱の最中、京極騒乱勃発直後)の子である若年の秀高孫兵衛治部少輔(1471〜1526)が継ぐ。本来の佐々木京極家系(宇多源氏嫡流の家紋「隅立四ツ目結」)として、秀高(大永6年卒)以降、祐高(天正14年卒)、国高(寛永19年卒)、高福(延宝7年卒)、高重(正徳5年卒)へと、佐々木京極家関連の領国で城督を務めながら、戦国時代、江戸時代、そして明治時代に至るまで家系を繋いでいる。
室町時代中期、京極高忠は、多賀出雲守高直の娘(清直の妹)を娶り、わが家系における京極家7代目の父・高数が祖父の京極家6代目・高詮から譲られ、応永4年(1397年)に築城し家老たちと一緒に住んだという領地:多賀庄の下之郷を本拠にしたことから、「京極」から「多賀」を名乗った。
某解説では、2人の息子を持つ多賀豊後守高長のところへ養子の形で京極家から豊後守家に入り、多賀家の家督となったとする記述もあるが、この時代、佐々木氏自らが他家の養子になって所領を継承し、本主を代官にするという形で所領を広げ、本主を養子にする、あるいは庶子を本主の養子にするという形で一族を拡げており、佐々木氏と古代豪族多賀氏の関係もこの形であろう。また、高数およびその嫡男・高忠に連結させた記述には、土岐氏から入った養子・教久のほか、多賀氏と同じ近江国犬上郡を発祥とする豪族・藤堂氏にも藤堂良隆の長男・虎高は三井氏から養子として入るが、次男・良直を高忠の子とし、3男・良政の実父・多賀良氏を高忠の弟とするなど、(その良氏の娘と虎高との次男は津・藩祖の藤堂高虎であるが)、少々怪しい記述も見られる。
高忠は室町幕府の要人として、寛正3年(1462年)より京都侍所所司代(1度目)を任ぜられ、応仁の乱勃発までの5年間、土一揆鎮圧や京都の治安維持に力を発揮した。応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱でも京極佐々木氏の中心となり、管領・細川勝元らの東軍に属した従兄でもある宗家・京極持清(勝元の叔父)に代わって、東軍の総指揮官として西軍の山名持豊(宗全)を撃破し、東軍の京都防衛に奮戦した。しかし、文明2年(1470年)に発生したお家騒動(京極騒乱)で京極氏と多賀氏は分裂、高忠の権勢を嫌う出雲守家の多賀清直・宗直父子が西軍に寝返り、京極氏の弱体化を招いた。(背景:多賀氏は、犬上郡の豊後守家と坂田郡の出雲守家に分かれていた。)
すなわち、持清と共に1万の兵を率いて西軍の六角高頼らを圧倒して山城に如意岳城を築いた。文明元年(1469年)には六角氏の本拠である観音寺城を一時制圧して8代将軍足利義政から直々に感状を授けられた。ところが翌年の文明2年(1470年)、応仁の乱の最中に、京極氏は当主・持清と嫡男・勝秀が相次いで病死したため、家督を巡り勝秀の嫡子・孫童子丸派と勝秀の庶子・乙童子丸派との間で争いが起こった。いわゆる京極騒乱である。
京極一族である近江の守護代・高忠は、京極家の家宰として、文明2年(1470年)、勝秀の嫡子・孫童子丸を家督とし、後見の持清の3男・京極政経(政高)を庇護するが、高忠の権勢を嫌う飛騨守護代の多賀出雲守・清直・宗直父子らが庶子・乙童子丸(高清)を立て、後見の持清の次男・京極政光や六角高頼らと共に対抗した。しかし、翌年の文明3年(1471年)に孫童子丸が夭折し、新たな跡目争いが起こる。政経と高忠は、高清らの連合勢力に一時優勢を保つも、文明4年(1472年)に越前へ敗走、出雲に下る。文明7年(1475年)に出雲の国人を率いて上洛すると、政経は幕府より近江守護に補任され、近江奪還の命を受ける。西軍の六角高頼、高清、多賀出雲守・清直父子ら連合軍に大勝し、近江は守護・京極政高(政経)、守護代・多賀高忠の支配となる。その後、西軍の美濃守護・土岐成頼と斎藤妙椿、越前・尾張・遠江守護・斯波義廉が敵方の援軍に付き、近江を侵略。三沢氏ら出雲の有力国衆を戦死させ、高忠は京都に敗走するも、一進一退の攻防は応仁の乱終了後も続いた。
文明13年(1481年)、幕府の仲介で両者は和睦したが、江北は高清と多賀宗直らが実権を握り、高忠は本拠である近江犬上郡甲良荘下之郷(現在の滋賀県犬上郡甲良町下之郷)には入国できず、京都での隠棲生活を余儀なくされていた。文明17年(1485年)、高忠は室町幕府に召されて2度目の京都侍所所司代を任ぜられると、幕命を受けて山城国内の土一揆を鎮圧し、その死に至るまで京都の治安維持に従事し、京都市中の再建にも尽力したが、翌年の文明18年(1486年)に世を去った。
その間、多賀清直は文明11年(1479年)に亡くなり、多賀宗直も政経・材宗父子が出雲より上洛すると、長享元年(1487年)、主君に反乱を起こし高清を追放するが、その後の反撃に遭い敗死。坂田郡の多賀出雲守家は断絶した。
翌・長享2年(1489年)、政経は近江国人衆の協力を得て、高清を越前敦賀へ追放。延徳2年(1490年)、政経は幕府から当主(京極氏惣領職)と認められ、併せて高清退治を命じられる。しかし、配下の所領横領の管理責任をとって辞職。代わりに明応2年(1493年)、高清が家督を認められ江北に復帰するが、庇護を受けていた美濃の斎藤妙純が戦死すると高清も没落、美濃海津に寄留。政経は、出雲の守護代・尼子経久の地へ下向するが、息子・材宗は近江に残り、抗戦を継続した。
明応8年(1499年)、追放されていた高清は京極氏重臣・上坂家信の助力により江北へ帰還が叶う。2度にわたる材宗の襲撃を退け、永生2年(1505年)、高清は従兄弟・材宗と偽の同盟を結び、和睦する。そして、2年後に材宗を暗殺する。これで、35年間続いた家督争いは終結する。
以後、京極の宗家は勝秀の庶子である高清の系となり、高吉、高次へと続くが、高次が織田信長の死後、明智光秀に属したことで豊臣秀吉の追及を受ける。しかし、高次の姉・竜子および高次の正室・初の姉・淀が秀吉の側室となり、正室・初の妹・江が2代将軍・徳川秀忠の正室となり、さらに3姉妹の母が信長の妹・お市の方であるなど、女性陣の縁故により許され、没落の難を逃れ、秀吉政権下では近江大津城6万石の大名に、徳川家康政権下では小浜藩主となり、弱体化した京極家を再興した。
ちなみに、某解説では、高忠の死後、多賀姓で豊後守を名乗ったとする多賀高家および子の高房を子孫として挙げているが、応仁の乱&京極騒乱以降、京極氏と家臣・多賀氏は分裂・敵対する仲であり、高忠は旧本拠・犬上郡には帰還できず、本拠を近江高島郡に移し、京極政経・材宗父子らと京都に在住したとある(『蔭涼軒日録』)。しかも、某説では、高房のあと貞隆(貞澄)、そして貞能へと続くが、戦国時代には、永禄11年(1568年)の織田信長の侵攻により(この時、南近江の守護・六角氏は没落し、高忠の下之郷城も焼失し、築城以来170年の歴史に幕を閉じた)、以後は信長、そして明智光秀、ついで豊臣秀吉に直仕したとある。そして、男子の無い貞能は、越前18万石の信長、秀吉の側近大名・堀秀政の弟・秀家(秀種;近江佐和山9万石城代)を婿養子とし、秀吉政権下では大和国支配の要である大和国宇陀郡において秋山城2万石の大名とするが、慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の合戦で西軍・石田三成方に味方したことで改易になったとある。
また、高忠の次男は独立し、聖徳太子の伯母・片岡姫ゆかりの地・片岡を本拠にして、片岡次太夫宗春を称し、別家・片岡家(片岡家始祖・片岡城主)を立てたとある。宗春のあと、利持、国春、春利と続くが、元亀元年(1570年)春利が36歳で病死したため、一時片岡一帯および城を松永久秀に占領される。しかし、天正5年(1577年)明智光秀、筒井順慶、長岡藤孝(息子:細川忠興・興元兄弟と共に)ら織田信長軍により奪還される。宗春の次男・次郎左衛門(光二)は、本阿弥光心の娘・妙秀と結婚し、本阿弥光心の婿養子として本阿弥家に入るが、その後独立。その長男・本阿弥光悦が江戸時代初期の寛永の三筆(本阿弥光悦、近衛信尹、松花堂昭乗)の一人であり、俵屋宗達、尾形光琳と共に、後世の日本文化に多大な影響を与えた琳派の創設者である。
わが家系では、8代目・高忠のあとの9代目は高忠46歳の時(応仁の乱の最中、京極騒乱勃発直後)の子である若年の秀高孫兵衛治部少輔(1471〜1526)が継ぐ。本来の佐々木京極家系(宇多源氏嫡流の家紋「隅立四ツ目結」)として、秀高(大永6年卒)以降、祐高(天正14年卒)、国高(寛永19年卒)、高福(延宝7年卒)、高重(正徳5年卒)へと、佐々木京極家関連の領国で城督を務めながら、戦国時代、江戸時代、そして明治時代に至るまで家系を繋いでいる。
■ 8代目・京極高忠が開創の宗仙寺(京都)
宗仙寺は、大聖釈迦牟尼仏を本尊とし、山号を太平山と称する曹洞(禅)宗寺院である。今より552年前の寛正二年(1462年)、京都所司代・京極高忠多賀豊後守により、高倉六条の地に開創された。その後、天正七年(1579年)三月、天江東岳大和尚を招いて高倉五条素塩竈(京都市下京区五条通高倉東入塩竈町)の地へ移り、七堂伽藍をはじめ一滴庵・寿昌庵などの塔頭を完備し円成した。これにより、東岳大和尚を開山禅師と尊称している。
寺社地一帯は、源氏物語で光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子・源融(822〜895年)が隠棲した邸宅「六条河原院」の跡地と云われている。平安時代、源融が邸宅・河原院で塩焼をし、詩歌や管弦を楽しんだという。境内には源融の念持仏と伝わる荼枳尼天(だきにてん)を祀る社がある。また、境内には邸宅「六条河原院」の庭園の中の島「籬ノ島」にあった「籬井」といわれる井戸がある。これも「源氏物語」にちなむ遺跡の一つとして貴重なものである。
開山禅師・東岳大和尚の禅機(禅修行の教え)である学徳恰は、時の正親町天皇に深く帰依され、天正十三年(1585年)には宮中へ参上(参内)し、天皇自筆の文書(御宸翰)や紫衣など数々の称賛の栄誉を賜っている。以来、寛永二十年(1644年)には三世無住其心大和尚も明正天皇より天皇自筆の文書(御宸翰)や紫衣を賜り、元禄四年(1692年)の寺格改めには東山天皇より、享保二年(1718年)の寺格改めには中御門天皇より本山格の勅許を賜うなど、皇室からの国恩(国から受ける恩)篤く、歴代住持(住持職)はこれを心に深く刻み、正親町天皇以来明治初年まで、毎年正月・九月には参内して天機(天皇のご機嫌)を奉伺している。また曹洞宗大本山代理として禁裏・仙洞両御所へ参内および公席に列するなどの外、有栖川宮家七代・韶仁親王の時、宮家御祈願所となり、寺紋に有栖川菊紋を許される。本堂正面の扁額「大平山」は、実に韶仁親王の御直筆である。
この間、京都は兵戦多く、天明8年(1788年)の天明の大火、安政5年(1858年)の大火、元治元年(1864年)の大火など、3回祝融(戦火)に見舞われたが、咤枳尼尊天(だきにそんてん:嵯峨天皇皇子・河原左大臣.・源融の守り本尊:念持仏)堂と現存の山門一字(幾度か修復する)は火災を免れたという。この事を特に不可思議として、禁裏(天皇家)より「山門保存」の宣命が下っている。とくに、元治元年(1864年)の大火では、周囲は尽く灰燼となる中、当寺のみ災火を免れたという不思議から、これはまさに鎮守・咤枳尼尊天御守護の霊験であるとして、火除けの稲荷様、招福の稲荷様を加えて、尊崇されるに至っている。
当寺書院は豊臣秀吉建立の桃山初期の建築と推定される(東工大・藤岡通夫博士)。明治維新廃仏毀釈の際に大徳寺より移建されたものである。同書院には、狩野永徳(1543-1590年)筆の襖絵があるが、現在京都国立博物館に保管されている。
寺社地一帯は、源氏物語で光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子・源融(822〜895年)が隠棲した邸宅「六条河原院」の跡地と云われている。平安時代、源融が邸宅・河原院で塩焼をし、詩歌や管弦を楽しんだという。境内には源融の念持仏と伝わる荼枳尼天(だきにてん)を祀る社がある。また、境内には邸宅「六条河原院」の庭園の中の島「籬ノ島」にあった「籬井」といわれる井戸がある。これも「源氏物語」にちなむ遺跡の一つとして貴重なものである。
開山禅師・東岳大和尚の禅機(禅修行の教え)である学徳恰は、時の正親町天皇に深く帰依され、天正十三年(1585年)には宮中へ参上(参内)し、天皇自筆の文書(御宸翰)や紫衣など数々の称賛の栄誉を賜っている。以来、寛永二十年(1644年)には三世無住其心大和尚も明正天皇より天皇自筆の文書(御宸翰)や紫衣を賜り、元禄四年(1692年)の寺格改めには東山天皇より、享保二年(1718年)の寺格改めには中御門天皇より本山格の勅許を賜うなど、皇室からの国恩(国から受ける恩)篤く、歴代住持(住持職)はこれを心に深く刻み、正親町天皇以来明治初年まで、毎年正月・九月には参内して天機(天皇のご機嫌)を奉伺している。また曹洞宗大本山代理として禁裏・仙洞両御所へ参内および公席に列するなどの外、有栖川宮家七代・韶仁親王の時、宮家御祈願所となり、寺紋に有栖川菊紋を許される。本堂正面の扁額「大平山」は、実に韶仁親王の御直筆である。
この間、京都は兵戦多く、天明8年(1788年)の天明の大火、安政5年(1858年)の大火、元治元年(1864年)の大火など、3回祝融(戦火)に見舞われたが、咤枳尼尊天(だきにそんてん:嵯峨天皇皇子・河原左大臣.・源融の守り本尊:念持仏)堂と現存の山門一字(幾度か修復する)は火災を免れたという。この事を特に不可思議として、禁裏(天皇家)より「山門保存」の宣命が下っている。とくに、元治元年(1864年)の大火では、周囲は尽く灰燼となる中、当寺のみ災火を免れたという不思議から、これはまさに鎮守・咤枳尼尊天御守護の霊験であるとして、火除けの稲荷様、招福の稲荷様を加えて、尊崇されるに至っている。
当寺書院は豊臣秀吉建立の桃山初期の建築と推定される(東工大・藤岡通夫博士)。明治維新廃仏毀釈の際に大徳寺より移建されたものである。同書院には、狩野永徳(1543-1590年)筆の襖絵があるが、現在京都国立博物館に保管されている。
山門前で
本堂前
本 堂
有栖川宮家7代・韻仁親王の時、有栖川宮家御祈願所となる
室町時代、1465年、京都所司代・京極(多賀)高忠の創建。安土・桃山時代、1602年、海禅寺僧・天江により再興。江戸時代、1788年、天明の大火により類焼。1858年、安政の大火により焼失。1864年、元治の大火(禁門の変)により類焼し、廃寺。19世紀後半より、有栖川宮家御祈願所となり、近代、1903年以降、現在の建物が再建された。
書院入口にて
書院入口 引き戸にも菊の御紋
江戸時代には、曹洞宗本山の永平寺に代わり、宮中に参内を許された役寺だったという。
19世紀後半より、有栖川宮家御祈願所となり、近代、1903年以降、現在の建物が再建された。
江戸時代には、曹洞宗本山の永平寺に代わり、宮中に参内を許された役寺だったという。
19世紀後半より、有栖川宮家御祈願所となり、近代、1903年以降、現在の建物が再建された。
中門と奥に本堂、中門右に菩薩像
大辨財尊天社・だ枳尼尊天社
源氏物語で光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子・源融(822〜895)の念持仏が祀られる。
源氏物語で光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子・源融(822〜895)の念持仏が祀られる。
墓所には、多賀常直(元和4年/1618年卒)を初代とする四国・伊豫の多賀家の11基の五輪塔がある。京極高忠多賀豊後守が開創の宗仙寺(京都)に、京極高忠の系とは全く関係の無い五輪塔が所狭しと鎮座している! 仮冒(成りすまし)であってほしくないものである。
江戸時代に四国伊豫で発祥の多賀家の五輪塔が宗仙寺墓所にあるのは何故か?
中世に断絶した近江の多賀家系本流の子孫とも異なり、ましてや宗仙寺創建の京極高忠の系とは全く無縁である!
中世に断絶した近江の多賀家系本流の子孫とも異なり、ましてや宗仙寺創建の京極高忠の系とは全く無縁である!
■ 京極高忠の遺功
高忠は武家故実に明るく、小笠原持長に弓馬故実を学び、騎射に精妙を極め 『高忠聞書』 を著した。『高忠聞書』 は弓術における研究資料、及び当時の故実を知る史料として現在まで重要な役割を果たしている。また当時の知識人の1人であり、和歌、連歌に長じ、名庭として名高かった京都の私邸では、しばしば歌会を催していたという。歌僧・正徹の 『草根集』 に和歌10首が載せられている。著作に 『多賀高忠聞書』、『美人草』 ほか、『就弓馬儀大概聞書』、『弓矢相伝之事』、『射手検見次第』 など多数がある。とくに聞書には、寛正5年11月、小笠原備前守持長、その子持清、佐々木加賀入道などに聞いた内容が記されている。「絹本著色多賀高忠像」(国重要文化財指定)が大徳寺芳春院にある。<参考文献>二木謙一「故実家多賀高忠」(『中世武家儀礼の研究』)
高忠多賀豊後守の肖像画
松平定信作(江戸時代 寛政7年)
松平定信作(江戸時代 寛政7年)
美人草
美人草
「高忠聞書」「就弓馬儀大概聞書」 島津藩旧蔵・玉里文庫:鹿児島大学より複写本を恵贈いただく。公示厳禁のため、表紙および最初のページのみ掲載